海を挟んでユーラシア大陸と対峙する同じ島国。似ているようで、実はわれわれ日本人と天と地ほども違う「イギリス人」の成り立ちを理解することから本書は始まる。黎明期から複数の文化を内包する、いわば先天的な帝国の属性を持ち、個々の市民も世界的視野(帝国意識)を有する稀有な国民性。帝国主義の時代を待たずとも、中世にはフランスの半分の領土を一時的に奪うなど、大陸との密接な関係を持ち、20世紀には自国領土に立ち寄るだけで世界一周が可能な「帝国航路(エンパイア・ルート)」を持つに至る。冒険心に由来するこの国のスケールの大きさには、実に興味を惹かれるのだ。
・ブリトン人=ケルト、ピクト、ローマ、アングロ=サクソンの侵略と定住。アーサー王伝説。やがて「アングロ人の土地」を意味するイングランドが形成され、王から権限をゆだねられた伯が支配する構図が出来上がる。デーンの侵略、そしてノルマン=コンクエスト(ノルマン人の征服)によって、独自のイギリス文化が育まれてゆく。
・中世はアンジュー帝国の段階から現われた「封臣たちの共有財産としてのイングランド、統治責任者としての国王」(上p67)という観念こそ、その後の揺れるイギリス史において一定の規範を示したのではないだろうか。1215年に成立したマグナ・カルタに代表される王と諸侯の力関係もしかり。
・百年戦争にバラ戦争。僕はポール・ドラロシュの大作『レディ・ジェイン・グレイの処刑』が好きだが、彼女の悲劇はここに端を発するのか。
・イングランド国教会(イギリス国教会)の起源が国王の恣意的な、それもごく個人的な事情によるものだったとは驚きだ(上p160)。以降、ピューリタン、カソリック信者との血まみれの争いが延々と続くことを思えば、実に罪深いと言えよう。
・通史だから仕方がないが、英国史上ただ一度の共和政期に、オリヴァ・クロムウェルが護国卿として成し遂げたことの記述が物足りない気がする。
・ロンドン大火では「ピューリタン極右、あるいはカトリック信者が放火した」等の流言が飛び交ったという。どこかで聞いたような話だ。
・ホイッグ、トーリーの芽生えは意外なところにあったんだな(上231)。
・ピューリタン革命と名誉革命を経た17世紀の後半、議会制民主主義の原型=常備軍を擁する立憲君主政体を確立し、フランスと並ぶ屈指の強国となった連合王国は、いよいよ世界帝国としての姿を見せ始める。
・17世紀になると、従来の土地ではなく金融・証券に基礎を置く証券ジェントルマンが登場する。やがて彼らが議会の多数派を占め、工業ではなく、投資で世界を支配する構図が出来上がってゆくわけか。国債を大量発行し、長期かつ大規模な戦争の遂行を可能とするシステムも姿を見せ始める(下p14)。そしてインド、北米、中米域での対仏戦争に勝利し、18世紀には商業のヘゲモンとして世界に君臨することとなる。
・ロバート・ウォルポール。なるほど、この若き「首相」のもとでインナー・キャビネットが形成され、その長が主導して政治を行う内閣制度が生まれたのだな(下p13)。
・支配階級であるジェントルマンの大半が平民階級に属し、ジェントルマン階層が「オープン・エリート」であったことが、硬直的な貴族支配のフランスとの決定的な違いであったとある(下p19)。そして中流の人々が重税にあえぎつつ、一方では熱烈に戦争を支持する構図が出来上がる。まるで日本の未来を垣間見るような気がする。
・19世紀のピール政権。グラッドストンを起用し、当時課題であった、財政赤字を解消しつつ、関税と消費税を引き下げるというウルトラCをやってのけたとある(下p75)。軍事力を背景に「自由貿易帝国主義」を途上国に押し付けたのか。そして20世紀になるとロイド=ジョージが画期的な「人民予算」を成立させる(下p119:いつの世にもスーパーマンは存在するのだな)。ここに、自由貿易を堅持しつつ、海軍費と社会政策費で膨張する帝国主義財政を、土地課税を中心とする直接税で賄う「社会帝国主義」政策路線が定着する。
・時は飛ぶ。第一次世界大戦が終結すると、伝統的輸出産業の衰退をしり目に、自動車・電機・化学などの新しい産業が活況を見せ、恐慌からの脱出路となった。これが実質賃金の伸び(15%)につながり、下層中流階級の生活を潤した。なにしろ普通の教師の年収の三分の一で自動車を購入できたのだから大したものだ。ファシズムの温床となりうる彼らの生活水準が上がったことが、やがてナチスを育むドイツとの決定的な差となったのだな(下p152)。
・1926年のバルフォア報告書こそ、現在に続く英連邦の基礎となるものであり、第二次世界大戦後のアメリカ、そして欧州連合との関係を難しくした一因でもある。そして国際的危機の深化が大戦争に発展し、帝国の解体の危機を招く恐れから、ヒットラーのドイツ、フランコのスペインへの宥和政策を遂行せざるを得なかったのか(下p155)。実に自国中心的だが、これが国際政治のリアルか。
・国内で民主主義を圧殺し、対外的にはあからさまな侵略行動に走るファシズム諸国(下p162)。日本を含むこれらの国への戦争には新しい「大義」が導入された。そこまでは良かったが、戦後のスエズへの無謀な侵略とみじめな撤退は、大英帝国の威信を揺るがした。帝国主義の時代は終わったことを認めようとしなかった代償は大きい。アフリカ諸国の相次ぐ独立に、東南アジアからのイギリス軍の撤退。帝国の紐帯は縮小した。当たらな時代を乗り切る拠り所は、すなわちEU加盟である。
・マーガレット・サッチャー。節約、努力、自助というヴィクトリア朝的精神を身にまとった「鉄の女」は、ニュー・ライト、それまでの”弱者救済”を後に回す新自由主義、市場原理と個人の自由を標榜した。不況が彼女を苦しめるが、フォークランド戦争がすべてを変貌させた。「誇りという泉」「イギリスを過去幾世代にもわたって燃やし続けた精神」を有権者と共有できたことが、サッチャー主義を加速させた。人頭税による躓きさえなければ……。
・若きトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー」の新しさは鮮烈に覚えている。労働組合との決別。「主要二大政党の政策面での収斂」(下p224)、保守党、労働党とも、その支持者は戸建ての家を所有する中産階級となったが、これは現代日本を含め、およそ議会制民主主義諸国の大勢が同じではないだろうか。
ブレグジット。イギリスのEUからの離脱は驚きをもって受け止められたが、彼の国の歴史を振り返れば、保守性と先進性を併せ持ち、民主主義の規範を有する最先進国のさらなる進化が予想される。
イギリス史(上)(下)
編者:川北稔、山川出版社・2020年4月発行