男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

本書の取り上げる<英国紳士>とは貴族や地主階級ではなく、ミドル・クラス、なかでもヴィクトリア朝中葉期から急激に増え始めたロウワー・ミドル・クラスのそれである。彼らの生活、消費、文化面などにおける「上流階級の真似っこ」が、現代まで、どのように嘲笑と揶揄の対象とされてきたかが、文学作品や評論、演劇などの多彩な事例、さらには著者自身の生徒時代の体験(ウェールズ近郊にある古風なお嬢様寄宿学校へ入学し、のちにロンドン郊外の寄宿学校へ転校)を折り込みながら語られる。
・ロウワー・ミドル・クラスが経済力、社会的影響力を増すにつれ、アッパー・ミドルクラスは彼らとの区別を意識するようになる。「ジェント」はジェントルマンの略語だったのが、1840年ごろから下品な行為(ロウワー・ミドル・クラスを揶揄する)を指すようになったのか(p25)。
・そのロウワー・ミドル・クラスの主体は、デパートの販売係員や会計事務所、弁護士事務所に勤める事務員であり、小規模商店の店主たちであった。イギリスでの彼らはロンドン郊外に小さな家(それも一戸建てではなく、デタッチド・ハウス)を持ち、地下鉄で市街地へ通勤し、応接室にこまごまとした飾り物を置き、壁面には絵画を所狭しと掛け、アップライト・ピアノを無理してローンで購入し、ささやかな庭に草木を植えて手入れし……(第四章)。現代日本でいう勤務者=「サラリーマン」と読み替えても問題ないだろう。
・その「ささやかな」生活を営みながら、しかし見栄を張らなければならないロウワー・ミドル・クラスは上流のしぐさを身につけようと奮闘するが、その「(半端な)リスペクタリティ」が今度は上流からの嘲笑の的となる(p64)。
・オスカー・ワイルドによる耽美主義の旋風、それにジャポニスムの衝撃は当然、ロウワー・ミドル・クラスを巻き込んだが、アッパー・クラス、そしてアッパー・ミドルクラスは彼らを嫌う。劇場ではロウワー・ミドル・クラスのこっけいさを売りにした作品もみられ、ワーキング・クラスからも小馬鹿にされたという(第三章)。
・1896年に発行された新聞『デイリー・メール』や1891年の雑誌『ストランド・マガジン』は、ロウワー・ミドル・クラスをターゲットとした点で画期的だったんだな。『パンチ』の読者はその上のクラスだったのか(p69~74)。
・しかし生来の教養のなさは隠しようもない。「なまかじりの知識や教養で背伸びをしようとするロウワー・ミドル・クラスの人々」を、ヴァージニア・ウルフを中心とするブルームズベリー・グループ=新しい文芸潮流は排除した。「すべての人間は平等である。と言うのはつまり、こうもり傘を所有する人間はすべて」(p135)と、民主主義に万歳二唱したE・M・フォースターでさえロウワー・ミドル・クラスを嫌うのである。
・その意味で、ロウワー・ミドル・クラス出身である「鉄の女」M・サッチャーや、J・メイジャーは「クール・ブリテン」=新しい時代のイギリスを象徴する人物だったのかもしれない(第八章)。
・H・G・ウェルズといえばSF小説の大家だが、本国イギリスでは別の側面、すなわちヴィクトリア朝時代の社会派小説家としてもよく知られているそうな(第五章)。彼の作品『運命の車輪』『キップス』『ポリー氏の人生』は、どれもローワー・ミドル・クラスの若者が野心を抱き、勉学に励み、それでも階級の壁を超えることは容易ではないことを、彼自身の出自を十二分に活かして世に問うた意欲作である。『トノ・バンゲイ』は社会暮らすどころか国民意識も超え、国の安全(自作の画期的な兵器)を外国へ売るという、人間としての良心すら超越した男の悲劇が描かれるそうな。邦訳のないのが残念だ。
・「小学校ではワーキング・クラスの英語を話し、家庭内では標準英語を話す」、すなわちバイリンガル。イギリスの「階級」「ことばの差異」は日本人が「方言」に抱く感覚に近いのか(p205)。なるほど。

著者の寄宿学校時代、朝の起床時刻を知らせる大きな「銅鑼」の響きに眠りを破られるエピソード(p4)は、その昔、漱石が下宿先の「銅鑼」の音が夕食の合図であったことを彷彿させて興味深い。なにゆえイギリスに銅鑼? 興味深いな(ノルマン人征服の名残とか?)。新井潤美さんの次の著作では、この点にも触れてほしいな、との個人的希望を抱いて本書を閉じた。

<英国紳士>の生態学 ことばから暮らしまで
著者:新井潤美、講談社・2020年1月発行

本書は、ドミニオン諸国(カナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカ)にアイルランドやインドを加えた広範な地域を対象に、イギリスが自国の勢力圏として構築した「ブリティッシュ・ワールド」と、そのコモンウェルスへの歴史的変遷を、18世紀から20世紀にかけての感情的紐帯、経済的紐帯、軍事的紐帯の三つの観点に注視しながら、異なる10のテーマから分析する一冊である。
・第2章はインドにおけるイギリス自由主義的帝国主義を題材として、感情的紐帯に着目する。著者が述べる通り「自由主義的帝国主義」は確かにインド大反乱後も継続しただろうが、この「非寛容な」(p39)イギリス同化政策、特に福音主義者によるキリスト教の押し付けが「道徳的」であるとの記述には違和感をおぼえた。まぁ、グラッドストン翁の言う「道徳的信託統治」(p47)。これが19世紀~20世紀前半にかけての一般的な認識だったんだろうからやむを得ないのかな。
・第3章は帝国植民地、特に原住民に対する「時間の概念」の導入と、グリニッジ天文台を中心とする各植民地の天文台ネットワークに関する内容である。概ね1820年代から各植民地の観測所、天文台が(インドにおいてさえ!)グリニッジと連携して時報発信、各種計測を開始していたこと、1870年代には都市部の郵便局に設けられた公共時計を天文台から電信技術を利用して同期する技術が確立されていたこと、イギリスが時計・時報技術を独占せず欧州に開示したことが、結局はグリニッジ天文台を世界標準時とすることや 海運・流通・貿易に関する時報技術のデファクト・スタンダードの掌握につながったこと等、実に興味深い。
・第6章ではカナダ版「自由主義的帝国主義」のイギリスとの経済的、軍事的紐帯が探求される。巨大な隣国アメリカとの関係性が「大英帝国自治領」カナダの宿命ではあるが、世紀転換期には、本国とともに「中核」として帝国を支える(p173)という矜持、あるいはカナダのナショナリズム=自治をイギリスに協調しつつ、アメリカとも経済関係を強化させた自由党政権の巧妙な手腕が光る。そして小規模とはいえ植民地(自治領)独自の海軍を保有するに至った経緯も興味深い。
・第8章ではBBCやオーストラリア、カナダの公共放送がナチス、日本軍国主義と対峙した様相が考察されるが、プロパガンダを優先するために論理が飛躍している。曰くインドやアフリカ沿岸諸国を含めて帝国は「自由で対等なパートナーの共同体」であり(p242)、インド独立運動でさえイギリスが指導したとする。笑止。彼らからすれば究極の帝国の姿は「the world-wide Commonwealth of English-speaking peoples 英語話者からなる世界規模のコモンウェルス」(p254)なんだろうな。
・第9章では、第二次世界大戦を経て解体が加速する大英帝国の苦悩を、南アジアへの軍事協力を例に取り上げる。中東およびインド洋における対ソ戦略上必須の条件としてインド、パキスタン、セイロン(スリランカ)のコモンウェルスへの残留を必死に要請するイギリスと、独立機運に沸くインド、第一次カシミール戦争でインドに大敗したパキスタンの思惑は少しずつずれている。特にパキスタンにしてみれば、隣国インドとの不公平感が強く、反英感情すら惹き起こすのはやむを得ない。アメリカへの接近(相互防衛援助協定)はやむを得ないことだったのか。そして第10章に明らかにされる通り、インドはイギリスとの軍事的紐帯を断ち切り「防衛体制の自立化」を目指す。その傾向は現在まで続くのだ(主要兵器の実に70%がロシアからの調達!)。

個人的には第7章「コモンウェルスという神話」を興味深く読ませてもらった。この章では統一的アイデンティティを問題としつつ、ヴィクトリア朝時代から続く本国人と移住植民地人の精神的・民族的紐帯をベースとする植民地主義、戦間期のラウンドテーブル運動、その結実としてのブリティッシュ・コモンウエルス・オブ・ネーションズの成立と、20世紀半ば以降の「ブリテン人の血の」植民地主義の解体を俯瞰する。
・チャーチスト運動やマルクス主義の高まりがエスタブリッシュメントを恐怖させ(=資本主義の衰退)、過剰労働力の海外植民地への移民こそが革命の脅威を排除し、資本主義を世界中へ拡散させると(p202)。なるほど。
・「ブリティッシュの血」こそが旺盛な企業化精神や経済エネルギーの源泉であり、経済や産業の「非凡なエネルギー」を生み出す「人種の特質」であると当時の論者は云う(p204)。オーストラリアやカナダの原住民に対しては「土着の人種の広範かつ包括的な破壊」を行い、彼らの「アイデンティティの解体」「(野蛮な)共同体の安楽死」をもたらすことが文明化である。曰く「融合政策」(p206)。そう、現在の中国共産党によるウイグル人殲滅政策の先例がここにあるし、決して許されてはならない。
・1906年にホブスン曰く、地球はすでに「多様な形のコスモポリタニズム」「即時の即時的拡散」に彩られる、統合された単一の空間である(p209)。グローバリズムの起源は19世紀とみて良さそうだ。
・ブリティッシュ・コモンウェルスを主導した論者曰く、同共同体におけるにおける民主政治(ただしここでは共和主義的な愛国政治)の担い手はあくまでもアングロ・サクソン人種であり、インド人その他の帝国構成員は「自由への見習い」と糊塗され、将来の自由が約束された形の「永遠の従属状態」に置かれる(p217)、とある。イギリスからの独立運動は必然だったとわかる。
・あと、1931年ウェストミンスター憲章が実現される前の1926年のバルフォア宣言(p216)とあるのは、バルフォア報告(Balfour Report)の間違いだと思う。

新しい大英帝国の構想は夢か、神話か、亡霊か。帝国の残滓は「絆」となりえるのか。
ブレグジットが現実となった現在、アングロスフィア構想、CANZAK結束の動きが再燃するも、各国のすでに多様化した国民構成・政治形態とナショナリズムを前に、もはや昔日の「血の絆」では成立するはずもなく、今後は(中国共産党帝国、ロシア帝国に対抗するための)緩やかな結束の民主主義連合体の動きが模索されるのであろう。おもしろいことに、この「ファイブ・アイズ」構想から参加を勧誘されているのが、わが日本国だというのだから実に興味深い(宇津木愛子『大英帝国2.0』p143)。「世界の警察」ではないことを宣言したアメリカの影響力が年々低下する情勢のなか、イギリス/コモンウェルスの動向に今後も注目したい。

ブリティッシュ・ワールド 帝国紐帯の諸相
編著者:竹内真人、日本経済評論社・2019年2月発行

はじめての海外ひとり旅はニューヨークを選び、その際に訪れたメトロポリタン美術館(THE MET)の展示の量と質に「圧倒」されたことを、四半世紀を経た今でも憶えている。以降、THE METへは2008年に再訪してから久しいが、そこに身を置いて展示物をみてまわって感じたことは、美術館の使命のひとつ、「世界中の文化のかたちと息吹を後世まで遺す」、その精神に満ち溢れた空間であるということだ。
さて、本誌の特集『巨大なる美と知の殿堂 メトロポリタン美術館のすべて』である。フルカラー61ページに渡って、「芸術が人間を根本から高め、思想の高揚、産業や製造業の進歩、よりよい社会の実現を促す」という信念と、アートディレクター、ミュージシャン、デザイナーらによる膨大な展示物からの「楽しみ方」の紹介、
もちろん、今度は東京・国立新美術館で開催される『メトロポリタン美術館展』の紹介も。実に見ごたえのある特集となっている。
・「古今東西の名作と出合う、珠玉の体験」(p26~)は『デラウェア革を渡るワシントン』や『ダマスカス・ルーム』『フェルメール・コーナー』等、美術館のハイライトをダイナミックな構図の写真とともに紹介してくれる。個人的には『武器と甲冑コーナー』がお勧め(日本の鎧兜には西洋人の子供が鈴なりだった)。
・個人的には「海を渡って異国の地で輝く、日本美術の至宝」(p60~)が興味深かった。
・2022年を彩る企画展の誌上プレビュー(p80~)。行きたいぞ!

なお、2021年11月に大阪市立美術館で開催されたメトロポリタン美術館展にも足を運んだが、これは「西洋絵画の500年」(宗教絵画、ルネッサンス、近代絵画)をフォーカスしたものなので、はっきり言ってTHE METの特徴が活かされていないので残念だった。

芸術に触れるのは小さな非日常。コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ本場のTHE METに足を運び、感激を全身で感じていただきたい。
僕ももう一度行くぞ!
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ヴィクトリア朝時代後期、ロンドン西郊チェルシー地区の一画。主にミドルクラスが居住する界隈のテラス・ハウスに住まうは個性際立つ女主人だ。彼女、30代半ばの元子爵夫人にして本作の主人公、ヴィクトリア・アメリ・シーモアはアメリカ南部出身。相思相愛の老子爵と世界中を旅し、結婚し、夫亡きあとロンドンに居を定めたのはわずか3年前のこと。彼女を取り囲むは、アイルランド人の執事にフランス人のレディ・メイド。そしてインド人フットマンに中国人料理人。果てはアメリカ黒人のキッチン・メイドまでもが、テラス・ハウス5軒分をぶち抜いて改造した大邸宅に住まう。社交界には顔を見せず、邸宅に引きこもっては各種相談ごとを請け負う元子爵夫人=ヴィタの姿は、守旧派の"貞淑な淑女"から見れば「とんでもない女」に映るだろう。
1885年、大英帝国最盛期の首都を舞台に個性豊かな登場人物たちによって繰り広げられる冒険譚は、とても興味深く読み進めることができた。
・まるでコ・イ・ヌールを彷彿させるダイヤモンドを冠した宝石の紛失事件に、フランス・リヨン出身の新米詩人が引き起こした幽霊女への恋慕騒ぎ、そしてヴィタ自身に迫る危機。盛りだくさんの内容がさくさくと進んでゆく。
・恐ろしきは女の執念。先代シーモア子爵夫人より受け継がれた恨みの念は、シーモア子爵未亡人となった若きヴィタを容赦なく襲う。
・先代子爵、すなわちヴィタの夫であった老人の飽くことなき好奇心とエネルギー。僕も老いてもこうありたいな。

最終章のラストで語られる言葉、「それは人間に与えられたもっとも素晴らしい本能です」(p274)こそ素晴らしい。
本シリーズは第五作まで刊行されている。続編にも期待だな。

LADY VICTORIA : THE WITCHES OF ANCHOR WALK
レディ・ヴィクトリア アンカー・ウォークの魔女たち
著者:篠田真由美、講談社・2016年2月発行

後手後手に回る新型コロナウィルス対策と東京オリンピックの恥ずかしいゴタゴタ。対中・対米戦争と同様、一度決めたら撤退できないという日本の欠点(p283)がまた露呈した事実には目を覆いたくなる。
本書は、トランプとアメリカ民主主義、築地市場移転問題、IR誘致、名ばかりの震災復興、東京オリンピック開催の欺瞞、東芝粉飾決済と開き直り、ビルマとスー・チー、韓国との関係、沖縄の貧困問題などの世事を題材に「時空を俯瞰」し、日本社会と日本人に巣食う問題点を浮き彫りにする一冊となっている。
・民主主義の精緻なシステムとその脆さが顕現した代表的な例がトランプ現象だが、ヒットラーを選んだワイマール・ドイツも忘れてはならない。そしてここ十数年の日本でも。「有権者の義務として、民主主義の手続きを踏まえて、そのものを引きずり下ろす」(p202)リコールシステムが活きていることがまだ救いか。
・情報反乱の洪水に溺れゆく日本人。都合の良い視点と解釈で常に自分を正当化し、反対の立場を徹底的に否定する(p198)暴力的な構図。個人に限らず政治・公共言論・メディアにおいても自分だけが「正しい!」と他者を力づくで排除する傾向がますます顕著になっているが、その遠因はどこにあるのか。戦前のチャップリン日本漫遊、さらには大政奉還などの遠い出来事が現在社会の病理にどう結びつくのか、社会派作家の目を通じて考察する章は実に読みごたえがあった。
・「ものづくり大国はいずこに」「名門・東芝は何を見失ったのか」では、株価に一喜一憂する製造業の哀しい姿が非難される。本質を見失うと企業組織体はどのように変化するのか。情けなくも恐ろしい話ではある。
・個人的には「ニッポンの"国技"野球の底力」、特に社会人チームの結束に関する記述が興味深かった。

本書の基底に漂うは「日本の民主主義の未熟さ」(p84)である。さて、この悲惨な令和の情勢である。これから日本社会が良くなるなんて可能性は残っているのだろうか。著者の文庫版あとがきの、もう突き放したような文面が妙に気にかかる。
「時の権力者の横暴や暴走に異を唱える」勇気と誇り(p28)か。
いずれにせよ、虫の目、俯瞰する鳥の目、時の流れを見据える目(p5)を持って社会と対峙し、自分にできる範囲でこの生まれ育った日本を良くするように努力しよう。

プレス 素晴らしきニッポンの肖像
著者:真山仁、角川書店・2021年12月発行
2022年2月13日読了
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東アジアの特定の街で、いつのころからか天より降り出した桜の花弁、アマザクラ。原因不明。だが、数少ない人は知る。光る花弁に魅入られた特定の少女とアマザクラの関係を。そして紫々吹愛里の昏睡と時を同じくして、峰上市に異変が起こり、アマザクラはピタリと降らなくなった……。
シリーズ第二作では、前作で神屋敷ツバサ、環木ヒヨリに接近した転校生、紫々吹ルカが主人公を務めるのだ。
・深い深い家庭の事情。明るくふるまうこと。ギクシャクではないが、義理の姉と妹の間には、普通と違った「何か」が間に挟まっている。
・決して明るくない部活の事情。御影萌の行動は、いや、理解はできるんだが……。
・ただごとではない白いアマザクラの出現。眠り続ける愛里の意識に導かれて、ルカは白い世界へとたどり着く。
・そして第Ⅵ章「吹雪の底」にて、紫々吹愛里の秘密が明かされる……。これには驚いた。
・第Ⅶ章「二人の絆」~第Ⅷ章「二人の形」への展開が見事。「ある特別な本」に一片の花弁がひらひらと舞い降り、「この一瞬の気持ちを閉じ込めておきたくて、私は花びらを挟みこむようにしてページをめくった」(p219)は特に気に入った。
・フライさんの挿画がなんともいえない味を醸し出してくれる。これぞライトノベルの醍醐味。

前作で繰り広げられた友情要素は本作にはない。だが「こころ」の絆は美しく、心地良い読後感を得られた。

サクラの降る町 -白ノ帳-
著者:小川晴央、イラスト:フライ、京都アニメーション・2021年12月発行

米ソ冷戦終結時に当時のブッシュ米大統領がNew World Orderを高らかに宣言してから30年、その真の勝者が明らかになりつつある。「人類のターニングポイント」まであとわずか。民主主義世界が縮小し、中国共産党帝国とロシア帝国が君臨する新世界秩序の中で日本人はどう生き抜くのか。
本書では、経済、科学技術、軍事、そして文明と国家のテーマに沿って縦横無尽に国家と文明、都市問題、教育問題、米国と中国と日本、日本人にはほとんど理解されないアメリカにとっての中東等をはじめ、「近い将来から100年先の世界」についての討論が交わされる。それは歴史上に例のない大きな変化を伴うものであるが、それであるが故に不変のもの=日本人が肝に据える心構えも同時に示唆される。
・「自由と繁栄の弧」。これは以前の安倍政権が大々的に喧伝し、特にアメリカで好まれて使われるようになったキャッチフレーズだが、その実、初代国家安全保障局長の谷内正太郎氏が企画立案し、麻生太郎副首相が提唱したものであるが、後任の歴代局長はこれを「誇大妄想」と評価している(p230)。2015年以降は同じ安倍政権でありながら外交政策は大きく転換し、明らかにアメリカと距離を取って、中国、ロシアとの等距離外交にシフトした。日本独自のPower of Balance政策。これならウイグル・ジェノサイドやウクライナ危機への現政権のどっちつかずの外交も理解できようというもの。おそらく数年以内に起こるであろう台湾有事の際の「自衛隊出動」もアメリカの顔に配慮した最小限・カタチだけのものになるに違いない(要は台湾政権を見捨てる)。で、これからも「自由と繁栄の弧」の言葉だけが欧米で独り歩きするという皮肉なことになりそうだ(その弧から日本は外されるだろうが)。
・その台湾有事だが、これはもはや既定のものとしてとらえるべきで、数年内に中国共産党の支配下に置かれるであろうとのこと。通常戦力に限定しての米中正面衝突が発生するが、戦争の実質は「意思を実力によって押し付ける」であり、何も全土占領、人員拘束を強要する必要はない。旧来の大々的な陸軍侵略ではなく、画期的な新技術が適用される可能性が高い(量子衛星の活用? サイバー攻撃?)。他人事ではなく、また情にほだされることなく、日本人は注視する必要がありそうだ。
・中国はすでに「ナチス・ドイツや皇国日本にも似た、イデオロギー国家」(p171)に変わり果てており、そのイデオロギーは「『中国』を最高の価値とするウルトラ・ナショナリズム」にあると断言する。その対抗策も本書にて提言される。さすがだ。
・核融合炉によるエネルギー確保の革命的な転換(化石燃料や再生利用可能エネルギーは過去のものとなる)、量子コンピュータによる現代社会の根本的な変化(あらゆる暗号の無効化、製薬・素材開発の爆発的な加速、ミクロ世界の解明、各種シミュレーション等々)が、まさに十数年後に迫っている。この二つの先端技術の一部にでも食い込まなければ、日本人に未来はない。そして中国はすでに2015年から量子通信衛星(!)を打ち上げている。
・勤務時間について。日本に限らず、高度な専門知識を必要とする医師や弁護士、外交官等で業績を上げた人は「死ぬほど働いて」おり「何時間働いても過労死しないように健康管理する」ことも実力のうちである(p57)には考えさせられた。なるほど、甘えていてはいけないな。
・人生の全体、社会の全体、世界の全体を見ないで、知らないで、いまを生きようとすることは「空虚」であり(p255)、思想を持ち、リアリティを求めなければならない(p255~257)。そして究極的には哲学と歴史に落ち着くのか(p59)。
・中国等はビッグデータで国民を監視するデジタル共産主義への転換が進み、先進資本主義国、中堅国では、民主主義的政治制度の枠組みは残しつつも権威主義への転換が進んでいる。その通りだと思う。NHK、読売等のマスメディアの追随もあって、いまの日本政治・社会の変貌はまさに肌で感じられるレベルに入りつつある。その進む先は、そう、ファシズムだ(p267)。

泣いても笑っても日本に生まれているのだから「日本の将来を真面目に考えなくてはいけない」(p66)とはその通り。
本書の英文タイトル"Turning Point of Humanity."が示す通り、二人の「哲人」の対談はまさに人類史の一大分岐点が迫っていることを実例をもって示すものであり、ページを繰って知的興奮に震えること幾たび。おおいに知的啓蒙を受けた。そして佐藤優さんのあとがきにある通り、本書は独学の手引きともなる。
僕も生き方を(少しだけ)変えよう!

Turning Point of Humanity
世界史の分岐点 激変する新世界秩序の読み方
著者:橋爪大三郎、佐藤優、SBクリエイティブ・2022年1月発行
2022年2月5日読了
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昭和の初め、1928年夏から翌年にかけて洋行した谷夫妻の紀行文。その躍動するような独特の文体が「旅の楽しさ」をダイレクトに伝えてくれる。
そう、「旅の楽しさ」。おそらくは一般の観光地巡りを奥方と済ませたのだろうが、さすがは谷譲次二。本書の読みどころは名所旧跡がどう、食事と酒がどう等ではなく、例えばパリのアングラ覗き稼業の仕掛け人の話(これが実に面白い!)、イングランドはダービーの観客席のすさまじさの実況、マドリッドの闘牛漬けとなったニューヨーク大富豪のひとり娘の末路、リスボンのかかあ天下のもとで船舶専門の女あっせん業を営むイギリス人のたくましさなど、わざわざ欧州へ何をしに行ったんだと言いたくなるエピソードのオンパレードにある。
・随所に光るはキレッキレの表現。上海(p21:あらゆる人種と美しい罪の市場)、哈爾賓(上p22)の街の描写などはさすがだ。
・往路のシベリア鉄道では辟易。何を訊いても「否(ニエット)」で片づける白髪の老人車掌(上p46)に、一等客が二等客車に押し込められる理不尽といい、ああ、これがソビエト・ロシアなんだなと納得させられることしばしば。車内の学生の議論も「貧しい現実の上に美しい理論が輝き、すべての矛盾は赤色の宣伝ビラで貼り隠され」、「新経済政策」の実態は物々交換であり、無産者のための叫びも空しく共産党独裁となったかの国の実情を、谷は赤裸々に描写してくれる(上p51)。
・英京ロンドンの貧民街を訪問する谷夫妻。そこで得たものは「平和な怠惰と不潔な食物と無害な嘘言とに楽しく肩を叩きあう」人々の「無智から来る超国境の行為と狡猾な歓迎」であり、求めていたスリルも緊張も見聞きできなかったとあり、どこの国の貧民と同じく「人は雨と煩瑣な感情にわずらわされながら無自覚な混迷のうちに年をとってゆくにすぎない」生き方を送っていることに驚く(上p114)。これ、現代日本でも(程度の差はあれ)変わらないことに僕は驚かされた。
・シベリア鉄道内では(日本人係員に)中国人と間違えられ、ロンドンの床屋ではインド人と思われる(上p96)。面白い。
・イギリス人のQ(Thank you)は本当の感謝ではなく、日本人が日常的に使う「すみません」のニュアンスと思えとある(上p100)。
・1928年になってもイギリス人の、それも知識階級でさえ日本に関する知識が本当にプアーなことを谷は実見する。「日本の家は紙でできていますか」「どうやって紙の梯子段で二階へ昇るのですか」の質問にビックリし、「新聞はありますか」「保険は」「鉄道は」にはYes,Yes,Yesの連発だ。そしてQ(上p105)。
・ロンドンからパリへはドーバー海峡を渡るのだが、なんと飛行機でひとっ飛び。それでも現代の快適な空の旅とはほど遠い状況が、谷の文章から手に取るように伝わってくる(上p215)。それにしても、当時は五千メートル上空で窓を開けられたんだな。
・モナコはモンテカルロ。この「国際的自由意志を唯一の価値とする」(下p159)カジノ都市で邂逅した「近代的速度を備えた淡いエゴイズムの一本の感覚の尖端にぶらさがっ」た中年白人女性(下p136)の素性が面白い。そしてパリから運転手付きの自家用車でカジノへ乗り付ける(ふりをする)は、金持ちだけが存在を許されるこの都市に正面から入域し、まっとうな扱いを受けるための手段でもある。谷夫妻の準備行動力に脱帽だ。
・ローマへ向かう国際特急の車内では「国際裸体婦人同盟」を名乗る、コートの下は全裸の三十女が谷の車室に入り込んでくる。ときはムッソリーニ氏の天下である。女によって電燈スイッチが操作され、車室内は暗転し、向かいに座る男性(旅の道ずれ)に全裸で腰かける女の姿。「私は、私の全神経の騒ぐ音を聞いた」(下p226)。車室内の緊張感がダイレクトに伝わってくる楽しいエピソードの結末には、あっと言わされた(その正体はファシスト直属の女警察官。外国人の民主派メンバーはこうやって拘束されるのだ)。
・冬のスイスの山岳リゾート地こそ「爛熟しきった物質文明を無制限に享楽する時代と場所」(下p272)である。飾った青年貴族に、御令嬢。しかしその正体は……。「すべての古いものは、その古いが故に、それだけで価値を失ってしまった」(下p275)から、男女間の貞淑な「大戦以前の価値観」は廃れ、年長の男は老嬢はとまどうばかり。これもリゾート地のドラマか。
・「西洋を知り抜いて東洋へ帰る心」(下p322)は谷の信条であるが、帰国用の木製の簡易本箱を注文しようにもバカ高なところから、大英帝国の一欠陥を彼は発見する。すなわち機械工業製品に頼らない商品の特別さと、日本のそれとの対比。なるほど「ハンド・メイド」は便利な言葉ではあるな。「いたずらに先方(西洋)の真似をしないで、わが特徴を伸ばしてゆく以外に、私たちの進展の途(みち)はないということになる」(下p315)
・いざ、欧州航路で横浜へ! その出港前夜にパスポートを紛失し、徹夜で探す羽目に陥る谷夫妻! この顛末も面白い! (結局出港後に見つかり、シベリア鉄道経由で本人帰国よりも前に日本へ届けられたという……。)
・スエズ運河の西洋側の入り口、「密雨のような太陽の光線」(下p333)に照らされたポート・サイドでは「たくさん安いよ!」と変な日本語で迫る怪しい宝石商、手相屋、両替屋、春画売りに囲まれ、強制靴磨き少年に足をつかまれ、奇術師に行く手を遮られ、振り切って、やっとの思いでたどり着いたは「女商売の街」って、この行動力! 

「旅は、はるばるほんとの自分をさがしに出るようなもの」(上p91)。旅行者に与えられた権利と義務、それは「できるだけ多くの大それた欲望を持つこと」(上p11)である。旅の芸術は「受動的に白紙のまま」、すべてを心ゆっくりと受け入れること(上p225)。
「地球の向側の色彩をおのが眼で見きわめたい衝動に駆られて旅に出る」(上p364)、その心意気もわかる。

本当の「旅の楽しさ」をダイレクトに示唆してくれる本書に巡り合えたことは、本当に幸運だったと思う。

踊る地平線(上)(下)
著者:谷譲次、岩波書店・1999年10月発行
2022年2月1日読了
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踊る地平線 (上) (岩波文庫)
谷 譲次
岩波書店
1999-10-15

踊る地平線〈下〉 (岩波文庫)
谷 譲次
岩波書店
1999-11-16


 大学を卒業して建築事務所に勤める二郎は人生の目標もなく、年老いた両親、大学で教鞭をとる兄の家族、それに嫁入り前の妹と同居し、これといって事件のない日々を送っている。ある夏、友人と落ち合う約束で暑い盛りの大阪の知人の家を訪ねた二郎は、そこで親類女性の婚約者と会い、これも訪ねてきた両親と兄夫妻とともに和歌山を旅行する。そこで兄から思いもよらない提案を耳にするのであった。
 いわく、兄嫁と一晩を過ごし、彼女の潔白性を確認してくれないか――。
 和歌の浦を襲う嵐の夜。それは長い長い兄の、兄嫁の、二郎の苦悩の始まりとなる。そして平然とする兄嫁の姿と対照的に、兄の精神はやがて変調をきたしてゆく。
・大阪はまだ東京を凌駕する商都であったことが会話の端々から見て取れる。東京一極集中前の良き時代だったんだな。そうは言っても世の中は「金」がすべて、高額の入院費用を払えずに瀕死の娘を引き上げて去る悲しい老婆の姿を、二郎と三沢が病室の窓から見下ろすシーンが印象的だ。
・二郎の友人、三沢。精神に異常をきたした不幸な女性の死に際し、その額に接吻した彼の真の思いは、生き方の定まらない二郎には永久に窺い知ることはできないであろう。「僕は其淋しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見さうだ」(友達・三十一)
・兄と兄嫁とその娘。何不自由なく暮らす三人は余所目には幸福な一家そのものであるのだが、その実、夫妻の深刻な葛藤は両親の心を悩まし、二郎たちにも影を落とし始める。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を彷彿させる兄嫁の妖艶な笑みは、そして二郎を戸惑わせる。女の涙に金剛石(ダイヤモンド)はほとんどない。たいていは皆ギヤマン細工だ(兄・三十二)。
・「人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛のほうが」神聖であり、狭い道徳の作った窮屈な道徳を脱ぎ捨てて、大きな自然の法則を嘆美(たんび)する声だけが、後世に残ると言い切る兄の姿に、二郎はまた苦悩を見る(帰ってから・二十七)。
・兄嫁は強い。でも当時の女の立場は弱いのだ。男は嫌になれば旅立つなどして逃げられるが、女は鉢植えのように動けない。兄嫁の訴えに「測らべからざる女性(にょしょう)の強さを電気のように感じた」二郎。これも時代の苦悩か(塵労・四)。
・二郎と妹お重の楽しいやり取りが、重い本作での一種の清涼剤となっている。「ワッと云う悲劇的な声を振り上げて泣き出した」彼女は「事実が生んだとんでもない想像まで縦横に喋舌りまわして已まなかった」(帰ってから・九)。実家を出て下宿中の二郎が久しぶりに戻ってきたら、逃げた飼い犬を見るような目つきで「そら迷子が帰ってきた」(塵労・十)。よい関係の兄妹だ。

 いくら学問や研究に長けたところで、何人もひとの心を分かることはできない。それを超越できるのは宗教だけであり、考えるのではなく信じることだとの漱石のメッセージ。そして「信じることもできずに考えるだけ」(兄・二十一)の兄の苦悩の毎日は、そのまま現代を生きる人の姿に重なる。最終章「塵労」ではそのテーマが探求される。「神は自己だ」「僕は絶対だ」。二郎の頼みにより兄との旅行を承諾したHさんからの手紙には、兄の精神と行動が赤裸々に示される。精神衰弱か、うつ病か。否、それらを超克した哲学的病理に突入することで、兄の姿は二郎から遠のくのであった。
 ここで物語は終焉するのであるが、せめて妹のお重と姪の芳江には幸多い人生を望もうか。

漱石全集第八巻
行人
著者:夏目金之助、岩波書店・1994年7月発行
2022年1月30日読了
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行人 (新潮文庫)
漱石, 夏目
新潮社
1952-03-24


カメラ界がZ9とα7Ⅳの話題で盛り上がっているのを横目に、2021年12月末にSONYフラッグシップカメラ、α1を購入した。
愛機α7RⅣは絶好調だが、夜間撮影に一抹の不満があったのは事実。
昨年春にα7SⅢで体験した新しいEVF:電子ビューファインダー(約944万ドットの高精細OLED、α1とα7SⅢのみ)が衝撃的だったので、α7Ⅳ(α7RⅣ以下のEVF)を買う気にはならず。そこで、α9系の高速連写性能、α7R系の高画素素子、α7S系の高感度性能と動画機能を兼ね備えたα1にトライすることとした(5年ローンだが)。
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SEL50F12GM、SEL1224GM、SEL70200GM2、SEL20F18G、SIGMA 100-400(これらも全て2021年に購入)を装着してみる。良い感じだ。
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さぁ、今年からこの「相棒」でどんどん撮影するぞ!



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