ジャポニスム。19世紀中葉の西欧を席巻したこの興味深い熱狂は、1867年パリ万博を契機に花開いたとされる。その西洋文化への影響は現在に至っても研究対象としての魅力を失わない。一方で「万博デビュー」を果たした江戸幕府(と薩摩藩、佐賀藩)の思惑はどうであったのか。この辺りも興味深い。
本書は、1867年および1878年のパリ万博とジャポニスムの接点に焦点を当て、「物」と「人」を通じて、いかなる「日本」像がフランスと日本の相互作用の中で形成されていったかを、社会的なアプローチから探求する。実に興味深い一冊だ。

・1867年パリ万博では、日本からの出品物は中国、タイのものと混同され、ジャポニスム旋風の巻き起こる前の西洋人の認識レベルがわかろうというもの。そればかりでなく、出品者は「大君政府」「薩摩太守政府」「佐賀太守政府」とされてしまい、フランス人に「日本は封建領主制の連邦国家である」との誤解を与える結果になった。薩摩にとっては思惑通りだが、面子をつぶされた幕府にとってはただ事ではなかったろう(p71)。一方で日本家屋と3人の女性、武士模型と「切腹」、工芸品への官民の品評は素晴らしく、万博を契機に、それまでアジアに埋没していた「日本」がハッキリと認知されていったのは嬉しいところ(p77-82)。
・本書の凄味は、日英仏外交文書や各種書簡といった一次資料を駆使し、幕府、薩摩藩、フランス、イギリスの外交関係の複雑さを読み解く第二章にある。特に将軍慶喜と駐日フランス公使ロッシュの思惑と期待とは裏腹に、時のフランス外務省の取った態度(薩摩藩の優遇)が幕府使節団をイギリスへ接近させるようになることは、歴史的事実として興味深い。
・1867年パリ万博の開会式に、独立国としての「薩摩琉球国」として参加した薩摩藩。幕府より2か月早く訪欧し「日本政府」から独立した万博出品区画を確保するなど、その手腕は特筆されよう。幕府は薩摩藩の動向を把握していたにもかかわらず対抗することができなかった。そして薩摩は現地メディアを用いて「大君政府と薩摩政府は帝のもとで同格であり、日本は連邦制国家である」ことを喧伝することに成功する(p152)。日本国内での「勢い」が海外においても発揮された例か。
・かの五代友厚も、1867年パリ万博薩摩藩使節として、また「薩摩琉球国」の立役者にして後に日本帝国フランス総領事となるモンブランと、明治政府のもとで対仏外交に深く関わっていたんだな(p193)。
・明治初期には日仏政治関係は冷え込む。それに反して、フランス人の日本文化への興味は増大してゆく。なぜ、ジャポニスムの流行がフランスにおいて生まれたのか、第三章ではその経緯が明らかにされる。そして西南戦争によって荒廃した国内の各方面を鼓舞し、わずか28歳にして1878年パリ万博への日本の参加を実現させた人物、前田正名の活躍は特筆されよう。著作のみならず、現地メディアを駆使して「正しい」日本イメージの喧伝に成功したのは、彼の功績である。
・1878年パリ万博への日本の出品物。専門家からは輸出を意識しすぎて日本の独自性が失われつつあると非難されるも、メディアと民衆には好意的に受け止められた。フランス工芸界は日本的要素を懸命に取り入れ、そして……。

20世紀初頭、フランスから生まれて新しき熱狂を巻き起こしたのは、「日本的自然」を取り入れたアール・ヌーヴォーであった。ジャポニスム旋風は終焉したが、姿かたちを変えて彼の地の文化に溶け込んだといえよう。

パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生
著者:寺本敬子、思文閣出版・2017年3月発行
2018年7月7日読了
DSCN4114