休日の朝、急に会社に呼び出されて、雇い主からこう言われたらどうするだろう。
「今夜ニューヨークを発ってサンフランシスコへ向かい、そのまま世界を一周してくれないか」(p106)
30分の抗弁の後、鉄の意志を持った雇用主に折れて、文芸者であるエリザベス・ビズランド嬢はあわただしく出発する。まったく面識のない新聞記者のネリー・ブライ嬢がニューヨークから東へ向けて出発した、その日の出来事である。まぁ、ヴェルヌの「八十日間世界一周」のフォッグ卿の付き人、ジャン=パスパルトゥー氏も同じようなシチュエーションではあったのだが。
本書は、最新の交通機関=文明の利器の象徴である蒸気船、蒸気鉄道を利用して、一人は東回り、もう一人は西回りの経路により、1889年に八十日以内での世界一周に挑戦した二人のアメリカ人女性の旅路を克明に追う。
それにしてもだ。ネリー・ブライもエリザベス・ビズランドも、なんてアグレッシブで知的で魅力的な女性なんだ!
・ネリー・ブライの何がすごいって、トランクも着替えの服も持たず、ドレス一着(出発当日に誂えた!)とコートと帽子、荷物といえば手提げかばん一つ。たったこれだけの装備で世界一周旅行に飛び出したところだ。そして土産はシンガポールで御者から購入した「猿」ときた。当時の世論も度肝を抜かれている。
・男社会のアメリカ新聞業界で、腕一つで自分の地位を確保したネリー・ブライ。かたや雑誌コラムを担当し「自分の仕事を持った知的な生き方を、自身の力でつかみとろう」(p93)としていたエリザベス。二人のある意味貪欲な生き方は、同時代の女性を大いに勇気づけただろう。
・ジュール・ヴェルヌ(毎朝五時起床)の自宅で、世界一高名な作家と会見する栄誉を旅行者は与えられた。「自分の目でたしかめたものを小説に書く」(p195)姿勢をはじめ、老作家に感銘を受けるネリー・ブライ。「この世には、苦労を重ねず達成できることなど、なにひとつありはしない」(p199)
・エリザベスが横浜を散策する様子も興味深い(p230~)。
・ネリー・ブライによる日本人と中国人の評価は、まぁ妥当か(p386)。
・圧倒されるほど荒涼とした土地、アデンの描写が素晴らしい(14章)。
・ああ、太平洋航路の悪天候が、二人の最後の勝敗を決めてしまうのか。世知辛いぞ。
・"レースの勝者"の栄冠は驚くべきものとなった。到着地=出発地に足を踏み下ろした瞬間から、数万の群衆の歓声に囲まれ、花火は上がり、軍艦は祝砲を放ち、ニューヨーク市長の出迎えを受ける。大統領でさえこれほどの歓待は期待できないだろう(16章)。

だがしかし、"レースの勝者"の人生はたった1年で暗転する。社を追われ、講演旅行は打ち切られ、マスコミから酷評され、求愛者とてなく、病身に日銭を稼ぐ身となり、金満家と結婚し、国外逃亡し、最終的には雑誌のコラムニストとなる。一方で"レースの敗者"は訪問したイギリスで上流階級に仲間入りし、午後のサロンを愉しみ、幸せな結婚を成し遂げる。
それでも僕は、辛辣な運命と対峙してでも、歴史に永遠に名を残した"レースの勝者"に強いエールを送りたい。

Eighty Days : Nellie Bly and Elizabeth Bisland's history-making race around the world
ヴェルヌの「八十日間世界一周に挑む」 4万5千キロを競ったふたりの女性記者
著者:Mathew Goodman、金原瑞人・井上里(訳)、柏書房・2013年11月発行