男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

2008年05月

著者は国連PKO部隊の司令官を務めたカナダ軍人。あの前代未聞の大虐殺劇、ルワンダ大虐殺を察知し、UNAMIR=国連ルワンダ支援団2500名を統率する身として安全保障理事会、国連事務局に状況の打開を訴えるも「価値のないアフリカ」故に無視され、80万人の虐殺を前に無力な日々を強いられたという。帰国後、国際社会の無関心に絶望して自決を図るも一命を取り留め、確固たる正義感に基づく活動を現在も続けている。その強い意志が、東ティモール、シエラレオネで活躍した伊勢崎氏の知性と理念と融合しあい、実に深く強い対談が展開される。
「圧倒される」とは、まさしくこのことだ。

[DDR]
2005年末まで続けられたUNAMSIL=国連シエラレオネ・ミッションは、各軍事派閥組織の非武装化・動員解除と社会復帰プログラムを実践し、新たな軍・警察機構を再編・定着させた。さらに主要産業(ダイヤモンド採掘)の市場と売買ルールを確立するなど、近年に例を見ない大きな成功を収めたPKOだ。その中核事業であるDDRのトップが伊勢崎氏であったことは、同じ日本人として誇りに思った。

DDRは、同じ伊勢崎氏の著書「武装解除」を読んで知った。従来の国家間紛争に代わり、内戦の収束・和平定着が平和維持活動の中心となった現在、小型武器、特に少年兵でも容易に扱えるとされるカラシニコフ小銃の回収と、半ば強制された「兵役」の解除、平和状態への参加のための職業訓練プログラムを一体のものとして進めるDDRは、効果の高い手段に思えた。

[保護する責任]
UNTACの頃からPKO活動には興味があったが、従来のPKOに加えて新しい概念が確立されつつあることを、本書を読んで知った。それが「保護する責任」だ。PKO先進国カナダ政府において研究・提唱された概念であり、ルワンダを経験したダレール氏も、その研究メンバーに名を連ねる。
統治能力の失われた小国においては、反政府勢力との勢力争いに全力を投じ、自国民の保護がないがしろにされがちだ。誰が彼らの人権を護るのか。また国家体制を優先するあまり、人命が軽く扱われることがままある。ウイグル、チベット、チェチェン等が典型だが、当該国は「内政干渉」として他国の意見を封じる傾向がある。この理不尽な「国家主権」に対し、伝統的に国際社会は力を持たないとされてきた。しかし、この新しい概念「保護する責任」は、自国民を保護する能力の欠如、または責任を放棄した国家を前に、国際社会には積極的に人権を保護する責務が生じることを提唱する。
この画期的な概念は、2005年の国連世界サミットで正式に採釈された。ウェストファリア条約以来、絶対的なものとされてきた「国家主権」と「内政不干渉の原則」を凌駕するものであり、国際社会が変わる予感すらある。
このシステムは、ルワンダその他の国における「数百万人レベルの虐殺」を経て成立したものだ。誰かの犠牲の上に何かが変わる構図は、古来から変わらないのか。

[日本の平和維持活動への参加]
アフガニスタンで試行が始まった「地方復興チーム」はこれも新しい試みだが、実は米国とNATOの対立・妥協から生み出されたものらしい。従来のNGOとの軋轢が生じていることも率直に語られる。
湾岸戦争以来、従来の戦争概念では対応できない紛争が続いた結果、政治家、外交官、軍人、専門家を含め、リスクの少ない=効果の低い方法を選択せざるを得ない状況にあり、これを打破する一手段として有望であるとされる。

保護する責任、地方復興チームはP5ではなく、カナダ、ドイツ等の中堅国家こそが主導権を発揮するべき分野であり、日本こそ積極的に参加するべきであるとダレール氏は説く。
対する伊勢崎氏は、先進国と比較しての日本人の「民度」を引き合いに、日本国の国際社会への参加には悲観的、いや絶望的だ。

本文を読み終える前に最終章「インタビューを終えて」に目を通した。伊勢崎氏の迫力ある文章が、僕を震えさせた。そして"PKO記念碑"の件を読み、8月のお盆休みにオタワを訪問することを"即決"した。ついでにニューヨークを再訪し、国連本部と「グランド・ゼロ」を見ることにした。5月11日にチケットは予約済みだ。

NHK 未来への提言
ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く
著者:ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治、NHK出版・2007年9月発行
2008年5月13日読了

今年は源氏物語が執筆されて1000周年とされており、日本各地で記念行事が開催されている。僕の地元、明石でも、文化博物館でタイトルの展示会が催されていたので、車を飛ばして行ってきた。(2008年5月11日)
(正確には、昼食のレストラン=ロドスの入り口にポスターが展示してあり、今日が最終日と知ったのだ。)

1階はオードブル。石山寺の仏像や、絵画や、書物など。まぁまぁかな
2階がメインディッシュ。巻物や屏風絵、掛け軸等の源氏絵と書物など、多種多様に表現された江戸期~大正期の作品が展示されていた。なかでも、源氏物語を書く着想を得たとされる場面「湖水に映る月」の絵画が多かった。
デザートは物販コーナー。たいしたものはなく、買う人も少なかった。(大赤字だろうなぁ。)

印象に残ったのは「雪月花図」だ。清少納言(雪)と紫式部(月)ともう一人(花/華)を象徴する3枚の掛け軸絵だ。その構図といい、テーマといい、気に入った。

やはり「須磨」「明石」の題名にはひかれるものがある。
え~と。須磨は「光源氏が流された場所」とある。多い構図は、遠く都を遠望する立ち姿の光源氏だ。朝廷の行く末を案じてのことか、女たちのことを思ってのことか……(たぶん後者だ)。

明石は、単なる景観の地とされているようだ。どの絵も見事に何もなく、わずかに漁船と淡路島が描かれているだけだ。
源氏物語、読んでみようかな?

http://www.akashibunpaku.com/
(明石市立文化博物館)

生涯最初の人間ドック。初めて内視鏡検査にトライした。(2008年5月7日)
のどの局部麻酔の後、左肩に注射。左半身を下に横になり、口にカメラ・アダプタ(?)をくわえる。
以前、テレビで「穴の開いたおしゃぶりをくわえた、胃ガン検査を受ける間抜け顔の男」を見たが、同じ姿になったのか。
いよいよカメラを飲み込む。技術が進んで細くなったらしいが、どう見ても極太じゃないか!

「目を閉じると余計な力が入るから、目の前のモニタを見て!」さいですか……。
目の前のモニタ画面には、カメラ映像が映される。のどを超える際に違和感が生じ、食道をズルズルと下降する感じはイヤなもんだ。
「これが十二指腸……、胃の中です……この黄色いのはさっきの薬……はい、奥に当てるので膨張感がありますよ……」胃の奥を棒で押される感じだ。うむ~。

左目からは涙がこぼれ、口に長いパイプをくわえ、両足を曲げて寝ころぶ男。なんとも、情けない姿だ。

苦しさに慣れる頃には検査終了で、ズルズルと引き抜かれてゆく。
「ハイ、おつかれさん。きれいなもんですよ」
たしかに、ピンク色のきれいな内部を見て、安心はできたが……。毎年受ける気がしなくなったなぁ……。
これを機に、健康的な生活を心掛けるか!(たぶん三日と続くまい。)

永沢寺のお墓参りとぼたん園見物の帰りに寄ってきた。(2008年5月4日)
1609年に建築されたこのお城、いわゆる天守閣に相当する建築物が無く、"天守台"には櫓のみ、二の丸に御殿と大書院が築造されていたそうだ。廃藩置県のおり、大書院を残して全て破壊され、残る書院も昭和19年の火災で焼失したそうな。
で、再建されたのが平成12年で、以降は観光の目玉「篠山城大書院」となっている。

中へ入る。いきなり拡がる31畳間。大名の館らしく、質素と風格が備わっている。日本人の精神ってやつか。
最奥の「上段之間」は局所が豪華絢爛。次の間と並び、ここで政が行われたことがよくわかる。

"天守台"からの眺めは絶景だ。山ん中だから遠方の眺望は限られるが、眼下の小学校の校舎が素晴らしかった。古い木造建築の良さが印象に残った。

大正ロマン館は、いわゆる観光案内所兼土産物屋なのだが、大正12年に建築された役所関係の建物を使用しているそうな。人力車、当時ものピアノ、レトロなテーブルと椅子など、「浪漫あふれる」喫茶コーナーには合格点を与えたい。

・大書院・上段の間

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・大正ロマン館

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・永沢寺・ぼたん園の八重桜

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http://www.city.sasayama.hyogo.jp/

「超お役所サイト丹波篠山へのいざない」ってタイトルが気に入った!

エリザベス女王のイングランドが始め、クロムウェル寡頭政治が拡大発展(航海条例)させたイギリス帝国。その古き理念の正統な継承者こそ、現代アメリカであることが明快に解き明かされる。
ピューリタンに代わって権力を掌握した国教会。彼らも、かつてのピューリタンと同様、神学者の素朴な愛国主義が、宗教の名のもとに征服戦争を肯定する。ピルグリム・ファーザースの乗り込んだ新世界においても、表象的な民主主義に覆い隠された膨張主義はとどまるところを知らない。西部フロンティア、太平洋、アジア大陸を経済的・政治的に従属させ、次の中東で苦悩している現在のアメリカ合衆国の姿は、かつての帝国主義を彷彿させる。

レーニンは帝国主義の概念を、民族的抑圧、植民地主義、自由帝国主義、剰余価値の移送、の4種類に区分した。
それぞれがローマ等の古代帝国と前近代のハプスブルグ帝国、大英帝国によるインド支配、外国市場をこじ開けるイギリスとアメリカ("黒船")、貿易関係による未発達社会からの収奪を意味する。前の二者はローマや中国の古代帝国に起源を有するものであり、残りの二者は近代西欧諸国に生まれたものだ。

著者はマルサスからホブソン、レーニン、ローザ=ルクセンブルグらの論点を抽出し、重商経済から自由主義経済、その発展型としての保護主義と関係させて、それぞれの時代の帝国主義を論じる。特に近代西欧諸国に生まれた自由帝国主義と剰余価値の移送に関しては、近代帝国がもっぱら「新しい市場」を求めて獰猛に活動した姿が明らかにされる。

それにしても、マルクスの影響は大きい。著者はレーニン主義とそこから離れた毛沢東主義にも触れ、第三世界の経済的発展モデルとして後者が有効であると説く。ただしこれは1980年の話なので、ほとんどアメリカの影響下に置かれた現在の世界情勢にはあてはまらないのかもしれない。

資本の流入が発展途上国に何をもたらしたのか。開発の前提条件としての伝統社会と自給自足経済の崩壊、その更地に建てられた市場向け商業生産の発展は、しかし、その国の富裕層にのみ恩恵をもたらした。そして、開発の是非を問う時間的余裕はなく、列強資本の受け入れを拒んだ途上国は、半永久的に先進国の原料供給地として従属状態に置かれる。一部の資源国や金融で存在感を増すドバイなんかは別として、多くの途上国が置かれている現実=ほとんど見捨てられた現実の姿こそ、特に19世紀後半から20世紀初頭にかけての帝国主義的争奪戦の遺した負の遺産と言えそうだ。

ところで近年、フラット化する世界、と言われるようになった。
旧イギリス帝国によるインドからの、そして旧フランス帝国によるアフリカからの搾取は苛烈なものであった。その一方で、帝国の資本の流入が、わずかながらでも植民地の開発につながり、一部では工業化が根付いた。もちろん他の要因が結びついての結果なのだろうが、長期的に見て、これが21世紀初頭のインドや中国における低賃金知識労働者の出現と、主に英語圏の企業のアウトソーシングの活発化につながった。先進国の失業率の増大だけでなく、「世界的な賃金水準の平準化」=日本を含めた先進国の賃金水準の低下がこれから起こり得るのだろう。
これこそ、過去の帝国支配に対する、歴史からの手痛いシッペ返しなのかもしれない。

現代では、なんでもかんでも「グローバリズム」に括られるが、そんなに簡単なはずがない。人類社会に深く根付いてきた帝国、そして帝国主義。その意味を探求してきた自分にとって、本書との偶然の出会いは幸運だった。
(広島出張の帰りに平和公園を立ち寄る際、降りるバス停を間違え、その停留所の前にある古本屋で見つけたのだ。実に読みにくい本でもあったが。)

IMPERIALISM
帝国主義
著者:ジョージ・リヒトハイム、香西純一(訳)、みすず書房・1980年2月発行
2008年5月1日読了

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