男ひとり旅の美学

[旅の恥は書き捨て]ってことで。あと、BMWと読書感想文も。

2010年10月

旧石器時代から農業革命期を経て、産業革命、情報革命へと至る技術の発展と科学との関係を追い、これからの科学技術の向かうべき方向を示す。

・旧石器時代から順を追い、狩猟道具、農耕機具、天文学、水車、時計、文字等の発明と伝播の様子が述べられる。面白いのは、基礎的な道具(火の使用! 等)は異なる文明でもほぼ同時多発的に発明されたが、一方では特定地域では発明されなかったモノ(安全ピン、車・ろくろ)もあり、歴史的事実として興味深い。

・道具を作って使う動物は他にも存在する。人類を特徴づけているのは「道具を作る道具」を作る行為にある。

・17世紀に科学と技術の融合が起こったヨーロッパでのみ、技術の壁が突破(ブレークスルー)され、それまで技術レベルで拮抗していた中国や中東との格差が開いてゆく。以降、指数関数的に発明・発見が行われる様は興味深い。

・金属加工分野における刃からレーザーへの変遷、情報記録の紙から電子媒体への変化に示されるように、現在、新石器時代からの技術の継承が途絶える傾向にあり、これが産業革命の帰結である。

著者は技術について「作る行為、方法、作られたモノ」と定義する。その上で、論理的思考に終始した中世スコラ学だけでなく、現代社会の「まず科学ありき。技術はその応用である」との方法論や、哲学・思想を欠いた技術を否定する。専門職と手工業職との調和が重要であり、そこには「精神文化と融合し、作る行為に含まれる創造、理解と認識、作る行為そのものの喜び、芸術的表現などの要素こそ、技術の本質」との思想が根本にある

従来の科学は現実の事象を単純化モデルに変節し、部分を究明することを繰り返してきた。その方法論によって巨大科学=宇宙の姿の解明や素粒子とその先の"何か"の究明が限界に達しつつある現在、生息環境に代表される"身近な物事"へ視線を転換し、これらを解明することとこそ、新たなブレークスルー=人類の発展につながると説く。

[補記]
本書は"編集グループSURE"の直接販売のみのようですが、僕は神戸・元町の海文堂書店(1914年創業!)で購入しました。
http://www.groupsure.net/
http://www.kaibundo.co.jp/

技術からみた人類の歴史
著者:山田慶兒、編集グループSURE・2010年10月発行
2010年10月25日読了

20世紀の著書だから内容が陳腐化しているかもしれないが、とにかく読んでみた。

■貧困からの脱却と発展への道
世界の経済格差のゆがみを俯瞰し、帝国主義時代の宗主国のように"強者のルール"を策定し、弱者である途上国を締め付けるIMF、WTOの政策を批判する。
その上で、非西洋諸国の発展を、地域・社会の構造や伝統を外来知識や制度と組み合わせることで再創造し、内発的発展するべきだと説く。この点、明治政府と当時の日本国民の聡明さはもっと尊重されるべきだと思う。

■<南>の世界における平和と開発
多国籍企業に代表されるグローバリズムの主体に対抗できるよう"人民のエンパワーメント"の必要性が説かれるが、市民団体や地方自治体(どちらも集団の利益が思惑として連なる)の活動を過大評価している感がある。

リー・クアンユーのシンガポールや近年の中国に代表される「開発独裁」を著者は強く非難し、経済発展よりも民主化を優先するべきであると説く。ただ、やみくもに民主化を進めれば良いというのではなく、その質こそ重要であるとの指摘は有意義だ。複数政党制を導入しても、民族主義的感情を煽り、外国人排斥を訴える政党が躍進することになれば、民主化の真髄は崩れ去る。ファシズムとナチズムの台頭が代表的だが、1990年代のインド人民党の組閣もこの例に挙げられるだろう。

■民主化の諸相
20世紀後半、特に冷戦終了後における権威主義政治体制から民主主義政治体制への変遷に関し考察される。手続き的民主主義の普遍化、その体制を護るための、異様な価値観に基づく体制を民主化する必要性。他方で手続き的民主主義の内包する問題、特に少数者への構造的差別を抑制し、共通善を実現するための民主主義の"深化"の重要性が説かれる。
市民運動と民衆運動の差異は勉強になった。特に1989年に発足した韓国の「経済正義実践市民運動聯合」の発起宣言文は、普遍性のある理念だと思う。

■「南の世界」における政治主体
南アジア=インド、パキスタン、バングラディシュでは、コミュナリズム=自らの宗教共同体への帰属意識による思考や行動による死者を伴う衝突が、1947年の英国統治下からの分離独立以降、特に1980年頃より激しく繰り返されてきた。世俗政体に反発する宗教原理主義の民衆レベルでの台頭が世界的に顕著となり、この地域で特にその傾向が強い。

アヨーディヤー・モスク事件。神話を"歴史的事実"としてねつ造し、それを民族的・宗教的運動として利用してムスリムを攻撃して熱情を煽り、ついには政権を握ったのがBJP、インド人民党だ。ヒンドゥー至上主義で知られ、組閣後の1998年に核武装を宣言し、1999年にパキスタンとカルギル紛争を戦った。人口の大多数を占めるヒンドゥー教徒にしてみれば当然の選択かもしれないが、原理主義が政権を握ると極端な政策に走るのはキリスト教、イスラム教、仏教に限らず右派の特徴だ。「顔の見える個別の隣人」が「われわれと異なる集団」に変遷するとき、平和が崩れ去る。ボスニアもそうだし、最近の日本と中国もそうだろう。

■地域紛争と「予防外交」
主に欧米から発信された地域紛争の原因に関する言説は「冷戦後の地域紛争の原因は南側諸国の内部構造にある。北は紛争防止のために介入を行う」前提にあるとし、著者はその欺瞞を鋭く指摘する。
・湾岸戦争はイラクの野心だけが原因でない。"イランの敵国イラク"を長年軍事支援しながら、冷戦後はイラクをソ連に変わる仮想敵国とし、国境油田を巡るクエートとの諍いに「関与しない」とし、開戦へと誘い込んだことが後日の政府文書で明確にされた。
・1992年の分裂瀬戸際の旧ユーゴスラヴィア。統一間もないドイツの野心が、初期の和平プロセスを破綻に追い込み、悲惨な内戦を招いたことが明確にされる。
・アフリカの内戦も直接の介入はないにせよ、19世紀以降の列強の植民地政策が遠因になるものもあり、旧宗主国に責任無しとは言えない。

途上国の地域紛争に先進国は何らかのかたちで関与している。日本も間接的な兵器技術の輸出で米国の軍事行動に参画しており人ごとではない。

1990年後半になると、従来の"国家主権の聖域化・不可侵"に替え、人権・人道面からの国家主権への介入の正当性が徐々にコンセンサスを得るようになった。中国政府の反発にもかかわらず、あえて2010年ノーベル平和賞を「政治犯」に付与したのも、その表れだろう。

従来は途上国の内戦または国家間紛争への介入が行われてきたが、著者は野心的な提言を行う。すなわち予防外交の手段として
「諸大国の兵器輸出にこそ介入の声を上げるべき」
である。ここでの主体は国家ではなく、市民レベルがどこまで"国際政治"に介入できるのかが、今後の議論になるのであろう。

<南>から見た世界06
グローバリゼーション下の苦闘 21世紀世界像の探究
編著者:木畑洋一、他、大月書店・1999年7月発行
2010年10月22日読了

著者は1979年テヘラン生まれ。日本で修士号を取得しパナソニックに勤めている才女で、この作品集を日本語で著したと言うから驚きだ。

表題作の「白い紙」は、文學界新人賞受賞作だ。
イラン・イラク戦争の最中、国境に近い田舎町で互いを意識する高校生の男女。うぶな邂逅が実に微笑ましい。
モスク、アザーン、礼拝、ラマダーン。退屈な授業。そして空襲警報。

自らの未来を決められる白い紙。そして兵隊への志願を即す用紙も、白い紙だ。
戦争は日常生活をなぎ倒し、ひとの運命を強制づける。その希望や才能や可能性に関係なく、個人を全体の流れに収斂してしまう。深い悲しみが、トラックの荷台に座り込んだハサンの表情をこわばらせる。

約束された将来を示す"白い紙"を二つに引き裂くとき、ハサンは何を思ったのだろう。

本作ではムスリムの家庭と学校の日常、ムスリムの"男女関係"がさりげなく散りばめられ、異文化理解の窓口ともなる。加えてシーア派ムスリムの"ナマの"習慣を知ることが出来るのは、著者がイラン女性ならではだろう。

「サラム」はアフガニスタン難民申請者をサポートする弁護士の通訳学生を主人公に、日本の難民受け入れ制度にメスを入れる。時期は2001年夏から秋であり、例の同時多発テロも上手く取り入れている。
人道的には難民を受け入れるべきだが、社会的な事情をふまえると簡単にはいかない。弁護士の口から語られる現実は厳しい。
「日本は冷たい国かもしれない」
そうはわかっていても、多民族国家アメリカや"人道的な"EUで起きている問題をみれば、冷たかろうが非人道的だろうが、他国から非難されようが、日本国民の将来のためには、現実の政策を通すしかないだろう。

カバー、表紙の装画も素晴らしく、電子書籍では得られないであろう魅力がこの書籍には溢れている。

白い紙/サラム
著者:シリン・ネザマフィ、文藝春秋・2009年8月発行
2010年10月19日読了

ロンドン留学中の漱石が友人の正岡子規と高浜虚子に宛てた手紙。1901年4月9日の午前中の出来事と、下宿の負債事件と移転騒動を日記風に綴り、当時の下宿の様子、英国人の生活やロンドンの街の様子、下宿の主人と"神さん"、その妹や下女のことが伝えられる。
何より「こころ」等の作品と異なり私信なので、夏目金之助の本来の性格が垣間見られて実に面白い。

・ヴィクトリア時代の朝は総じて遅かったことがわかる。朝を告げる鐘は7時30分に鳴る。下女の起床も7時過ぎ。

・箪笥と比較して、クローゼットを「ペンキを塗った箱」と表現している。

・朝食はオートミール。"スコットランドでは人が食し、イングランドでは馬に与える"とのジョンソン英語辞典を引用し、「イングランド人は馬に近くなったようだ」と冗談を言う。

・「西洋の新聞は実にでがある」(=嵩がある)と書いている。2010年3月と5月にロンドンに旅行したが、確かに分厚い新聞だったことを僕も思い出した。同じ体験をしたようで、思わずニヤリとした。

・日本人の学んだ英語は上流階級の話すQueen's Englishであり、ロンドンの中流階級の方言(Cockney)には辟易していることが開陳される。エイをアイと発音するあれですね。

・留学生の苦悩が滔々と語られる。欧州へ来たからには一冊でも多く彼の地の書籍を購入して帰る、との決意は立派だ。

・若き漱石の処世の方針が書かれている。妄りに過去に執着せず徒に将来に望みを属せず、満身の力を込めて現在に働く、とある。なるほどなぁ。

それにしても"アンポンタン"(安本丹)って、この時代から使われていたのか……。

漱石全集第一二巻 倫敦消息
著者:夏目金之助、岩波書店・1994年12月発行
2010年10月16日読了

昭和6年頃の横浜と東京を舞台にした長編。旧仮名遣いは日本文学に相応しい。

大邸宅に暮らし、自家用車を乗り回す20歳のブルジョア、佐保子。
腹違いの妹、洋子の存在を気にしつつ、享楽の日々を送る。
両親の遺産を継いだ兄は丸ビルに事務所を構える会社に午後から顔を出す。その兄がダンサーに子を宿し、手切れ金で解決する様をみて、自らの階級と生き方に疑問を抱く。すべてを捨てて純真無垢に、自然のままに生きようとの願い。だが決心は付かない。

佐保子の親しい学士、相川もブルジョアだ。旧制高校、大学と一緒だった友人たちの境遇は様々だ。南米に旅立つ者、労働者運動に興味本位で参加し、メーデー騒ぎで拘留される者、ガソリン・スタンドを開き苦労する歴史学者崩れ、メロン畑の経営に乗り出す者。相川だけはブルジョア階級らしく、佐保子とテニスを楽しむ毎日だ。

世は不景気のただ中。大学卒業者の就職率が五割にも達せず、世には失業者が溢れている。華やかなデパート・ガールの洋子も若く貧しいままだ。役所勤めの洋子の養父も早期退職を余儀なくされた。

その洋子の生き方は清貧そのもの。上の境遇の者=佐保子の家から金をむしり取ることに執着する養父に対し、自分たちより貧しい者たちの境遇を気にする気性だ。やがて養父の差し金で佐保子の家をそうと知らずに訪問させられ、その行為に赤面するシーンは痛々しい。

結局、佐保子の最後の決心は実を結ぶことはなかった。"白い姉"のタイトルが如実に示すラストシーンは、相川を、洋子を、深い悲しみに突き落とす。

印象的だったのは二つ。佐保子の兄が妹に諭し、相川も友人に語る「中産階級の苦しさ、大資本に飲み込まれる潮流」の不気味さが脳裏に残る。ブルジョア生活を満喫する一方で、没落するリスクを常に背負って生きていく宿命。ロシア革命で日本に亡命し、娼婦に身を落とした貴族階級の姿が念頭にあったのだろう。

大正後期から昭和初期にかけての都会の描写は深く印象に残った。"女性"を主張し始めるモダン・ガール。その典型と言える佐保子と、その先を進む人妻、モダン・マダム。都会の華やかさとリゾート。ダンス・ホールにジャズにチャールストン。洋品店に"ブラジア"に"レコード・ケエス"。"ウヰスキー・タンサン"はハイボールだな。「欲しがりません、勝つまでは」「鬼畜米英」のスロ-ガンを叫ぶ昭和10年代の日本との乖離を強く感じた。終戦後の焼け野原をはさんでの復興と昭和30年代の華やかさが昭和の初期に実在したことを新鮮に思った。

大佛次郎セレクション
白い姉
著者:大佛次郎、未知谷・2007年9月発行
2010年10月15日読了

蒼穹の昴、珍妃の井戸、中原の虹に続く浅田次郎中国シリーズ最新作。

東北・満州を掌中に収め、ついには河北・北京をわがものにした張作霖。あえて皇帝を名乗らず、自らを大元帥と称したのは何故か。勝利が確実視されていたにもかかわらず、蒋介石との決戦を回避し、北京を手放して東北へ引き上げたのは何故か。
で、事実上の国家元首である張作霖を爆殺した犯人は誰なのか。

事件の解明は、陸軍刑務所に収監されていた志津中尉に委ねられた。
夜間に突然、皇居に招集された志津の驚きと、その度胸が心地よい。

もう一人の主人公は"鋼鉄の公爵"だ。そのモノローグが物語にハマリ、実に良い味を醸し出している。

著者の立場は明快だ。品格も矜持も恥も捨て去った昭和日本の、他国へのあからさまな侵略行為を辛辣に批判している。

昭和時代初期からの中国進出。特に満州事変を中心に関東軍の暴走、と言うのが定説だが、その根は深い。幼年学校から予科を経て、士官学校で共通の価値観を身につけた「陸軍大家族」全体の問題であり、軍人が政権を担ったことが悲劇を招いたことが志津の内部批判として表明される。

中国を愛する著者のメッセージは様々に読み取れるが、西洋文明の功罪に対し、中華文明の真髄を説く西太后の言葉に想いが集約されているのだろう。
「……中華という呼び名は、世界の中心という意味じゃないのよ。この地球のまんなかに咲く、大きな華。それが中華の国。人殺しの機械を作る文明など信じずに、たゆみなく、ゆっくりと、詩文を作り花を賞で、お茶を淹れおいしい料理をこしらえ、歌い、舞い踊ることが文化だと信じて疑わぬ、中華の国よ」(265頁)

最終章に登場するは蒼穹の昴の主人公、春児。こうでなくっちゃ! 愛新覚羅家の没落を目の当たりにしつつ、いつか皇帝になりたいと希望する幼い溥儀に"是"と答える姿には、希望が持てる。

帰国前日に、すべてを理解した志津。彼の苦渋の決断が、第6章と第7章の間隙にみえた。
「軍人は忠義であるよりも、正義でなければならぬ」(299頁)
肝要なのは"日本人の誇り"を思い出せ、と言うことだな。

A MANCHURIAN REPORT
マンチュリアン・リポート
著者:浅田次郎、講談社・2010年9月発行
2010年10月10日読了

KEN-Vi 名画サロン第52回上映作品。内容は知らないが、ヴィクトリアン関連で興味が沸いたので鑑賞した。(2010年10月8日)

一言で表現するなら、ヴィクトリア公女/女王とドイツ・アルバート公子のロマンス、となる。一般国民と宮廷の狭間に立ち、理想と現実の乖離と自分たちの力量不足に苦悩する政治劇の側面を期待したのだが、少し違った。
二人の出会いと結婚、第一子を設けるまでの時代設定は不満だ。ヴィクトリア時代の最大イベントであり、アルバート公の才能が存分に発揮された第1回万国博覧会の開催まで続けて欲しかった。

ただ、外部からの視点=アルバートから見て英国宮廷のバカげたしきたりを次々と廃止、改革したことが盛り込まれたことは評価できる。女王の頭越しに内閣府と協議を進め、ヴィクトリアとの夫婦喧嘩を生じさせたエピソードも面白い。

政権変更にかかわらず、自由党の前首相メルボルンにベッタリで、保守党の首相ピールの言に耳を貸さないエピソードは史実通りだろう。議会での分狂の様子の面白かった。

ウェリントン公爵の存命中にヴィクトリアが即位したとは知らなかった。

アルバート公の肩書きは「女王の夫」であり、王国の公的な地位に就任しなかったらしい。それでもヴィクトリア時代に欠かせない存在だったはずであり、その聡明な側面をキチンと映像に表してほしかった。

女王に即位して間もない頃、民衆の生活改善を模索するも、メルボルンから必要なしと言われて若いヴィクトリアは黙り込む。数年後、民衆と国家の現状を知って改革を進めるべしとのアルバートの力強い意見に共鳴し、今度こそ自立した「君主」として統治に立ち向かうヴィクトリアの姿を描いたのは、まぁ評価できるか。

2009年英国・米国合作、102分。
監督はジャン=マルク・ヴァレ、主演はエミリー・ブラント、ルパート・フレンド。

映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』公式サイト
http://victoria.gaga.ne.jp/

兵庫県立美術館
http://www.artm.pref.hyogo.jp/index.html

NPO神戸100年映画祭
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kff100/

18世紀フランスで誕生した百科全書を中心にフランス社会と西洋音楽と美術を題材とする、慶應義塾大学名誉教授の論文集だ。内容は深く、収録されるコラムも実に面白かった。

■百科全書
本文17巻と図版11巻からなり、実に22年を費やして完成にこぎつけた。
重要な点は二つ。執筆と編纂はブルジョア階層が中心であり、当時の特権階級である貴族と僧侶は基本的に排除された。
もう一点の「画期的事件」は、当時の"真理"を独占していた教会の権威の外で、ルネサンス以来の知の蓄積である巨大な情報の体系を、民間企業が書物として刊行したこと。
編纂したディドロも、大学に籍を置かない在野の知識人であったことも重要とされる。

権力、権威の影響を排除した自由な企画とその実現。この精神、現代のWikipediaにも通底するものがあるように思う。
当初に非難されたような信憑性は、いまでは問題視する者はいない。誰もが執筆に参加できる点は実に民主的だが、最近の中東和平の項目に関するように、一方で混乱を来すのは避けられないのだろう。これも進歩の過程のひとつか。

本書には、百科全書の豊富な図版も掲載され、18世紀の生活を垣間見ることが出来る。夫婦別居を前提とした貴族の館や、銭湯船なんてのも面白い。また「異様なもの」を解明する努力は、タブーをあからさまにする点で現代では忌諱されるだろうが、啓蒙主義時代の特色として覧ることができるな。

■記号としての水車
16世紀から20世紀までの絵画、小説、映画を題材に、古来からに用いられてきた水車の、蒸気機関が登場してからの扱いも含め、社会的原動力(自然と人間社会の境界のシンボル)、工業的原動力から、芸術の対象へと変化する様子が著される。
新鮮な発見だ。

■気球
化学の急激な発展に基づく、ガス気球、熱気球の加速度的な開発の章も面白い。偶然の発見が実験=個人の努力によってカタチにされ、世に認可され、有人空中飛行を実現するまでの過程が面白い。また、ドーバー海峡横断を巡る英仏政府間の競争に巻き込まれ、開発者、ロジェが命を落とす悲劇が、225年前の出来事とはいえ、その構図が現代にも引き継がれている気がしてならない。

「さまざまな声や意見や事象がただ大量に現出し、消費されている現代社会では『デザイン』を知る者だけが真の賢者の肩書きを約束されている」(90頁)

「古代記憶術」の記述も興味深い。西洋で印刷術が浸透し、書物が大量に安価に普及する過程で失われていったそうだが、詩作や創造のもととなりうるらしい。

本書のところどころで「数千、数万の反復作業の蓄積=努力と執念の結晶(=世界図絵)」が特筆される。16世紀ラブレーの著作(パンタグリュエル物語の教育書簡)やドイル(ホームズの赤髭組合)、菊池寛(恩讐の彼方に)の内容と相まって、興味深く、また励行することの重要性を再認識できた。

『百科全書』と世界図絵
著者:鷲見洋一、岩波書店・2009年11月発行
2010年10月3日読了

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