男ひとり旅の美学

[旅の恥は書き捨て]ってことで。あと、BMWと読書感想文も。

2011年03月

NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』を観ていますか? このファンタジー演出溢れる歴史ドラマの中でも、大舞台俳優、市村正親さんの凄味あふれる演技により、その魅力を倍増させられたのが、明智光秀だと僕は思う。彼が初代城主として君臨し、明治2年まで実存した京都府は福知山城に出向いてきた。(2011年3月28日)

現存する天守閣は、昭和に再建されたものだ。この天守閣のデザインは天正期のものらしく、姫路城や大坂城とはまた異なる、実に味わい深いものがある。

内部は四層。1Fと2Fは郷土資料館として、福知山城の成立と廃城までの歴史等が絵画、書物、甲冑、模型等で展示されるとともに、縄文・弥生時代の福知山地方の集落の様子と文化財が展示される。

3Fと4Fは展望台だが、狭い。南面の展望だけが3Fで、他は4F。このアンバランスな点だけはいただけない。なんで4Fの南面の最高の場所に"寄付者のリスト"なんてデカデカと展示するのかなぁ~???
(まぁスポンサー様だけど、それなら納税者全員のリストを掲載するべきだろう。)

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Great Earth Quake
神戸、中国・四川省(震源地はチベット族の居住地)、ハイチと続く大地震の連鎖と、その謎が明かされる。

『知ることは、越えること』
僕の好きな言葉の一つだ。

命が助かったとはいえ、僕も阪神・淡路大震災の被災者のひとりだ。
当時の兵庫県知事、貝原俊民(のうのうと生きている!)や首相だった村山富市の無為無策を、けっして忘れることはないだろう。"未必の故意"だとすると、余計に腹が立つ。

で、村山富市に近かった辻本清美。阪神大震災で壊滅状態の現場で、自衛隊の救援活動を妨害した女! 今回(2011年3月11日)の東北地方太平洋沖地震を機に補佐官に就任だって?
政府に頼っては身を滅ぼすってことだな……。

「日本はアメリカの単なる属国にすぎない。二一世紀のアメリカのアジアにおける真の友人は、中国に他ならない」(391頁)

「誰かがマッチで火を付け、誰かが水を掛けてそれを消す。そうやって、世界の経済が回っていく。戦争も、テロも、大規模な自然災害も、世界の一部の特権階級が演出したパルプ・フィクションにすぎない」(429頁)
絶版になる前に必ず読んでおくべき本だ。

今回(2011年3月11日)の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災、東北関東大震災)でも、原子力発電所の"放射能漏れ"がポイントか。
素早く動いたアメリカ海軍の行動も、申し訳ないが、白けた視線でしかみることができないな……。

GEQ
著者:柴田哲孝、角川書店・2010年2月発行
2011年3月19日読了

「白い夜」
1939年、深夜2時の横浜の裏通り。決闘相手である柿本を刺した直後の北沢は、いきつけのバーで東京から遊びに来た上流風情の男女と遭遇する。
"小皺を隠して白く塗った顔に唇だけなまなましく紅く塗って仮面舞踏会のピエロのやうな顔をした夫人"と北沢の評する有閑マダム、山村満喜子。酔ったもの同士の笑みの挨拶。三十路の放漫な身体の満喜子は、イタリア人を父に持つ北沢の風貌に興味を抱く。
有閑階級にとって遊びが生き甲斐だ。深夜4時に車を呼び、北沢に案内された殺人現場で、悲鳴と友に消え去る男女。満喜子の取り巻き、華族の男、貴族的作家、外交官の息子……。

逮捕を覚悟する北沢。最愛の百合に別れを告げると、一緒に逃げようと誘われ……。
柿沢の死に際、病院での苦悩。柿本に鶴子という娘がいることを知った北沢は信州を訪ねる。
再会した満喜子たちがスキー場で楽しむ間、柿本家を訪ね、そこの貧しさを確認する。自らも生まれ変わる決意を持ち、北沢は親代わりとなる。

北沢の支援に応えることなく、自らの新しい人生を見つけた鶴子。相手が北沢と因縁ある小説家なのが、唯一の救いなのだろう。

最終章は北沢だけでなく、全男性にとって容赦ない。ある意味、女の強さと言おうか、「あの時の情熱はあの時だけのもの」と男を嘲笑うような百合の言動が胸に痛く残った。
ダンディズムの美徳、あるいは代償か。悲しい夢は、夢のままだ。

「レスナー館」
明治の実業家を父に持つ日米混血児のレスナー氏は、風貌は日本人のくせに日本語が苦手で、同じく混血でありながら白人然とした弟と妻に内心、嫉妬を抱く。

病気療養のため、ベトナムから上海経由で横浜に戻ると、関東大震災後の地所に立つ古い洋館の=住むことの出来ない自宅に足繁く通う。幼少の思い出がそうさせる。女中上がりの母はいつも泣いていた。太って尊大な父親。
白人の世界にも容れられず、日本の土地にも拠り所のない、中途半端な自分の立場。こころの病を引き起こした遠因とも言える、ハーフの悩む心が描写される。

「愛情」
かつては結婚を意識した女性、素子は清純な乙女だった……。が堕ちるところまで堕ち、それでもあきらめきれずに素子のいる店に通う美術誌記者、瀬木。ある時、素子の新しい相手と思われる男に声を掛けられ……。
形を取りかけた"男の夢"は儚く、簡単に崩れ去るという現実。女は平然として、強い……。

「離合」
1940年代後半か1950年代か。日本を離れて7年になる画家の浦野は、住居のパリを離れて個展の開催されるミラノ、休暇のヴェニスへ赴く。ヴェニスで老紳士と出会い、老人の妻子と1944年に中尊寺で邂逅したことを思い出す。東大理学部から学徒出陣した一人息子は南方で戦死し、妻は病死したと言う。
「私まで死んでしまったら、ふたりを覚えているものがなく、思い出して一緒に生きてやる者もなく……、一日一日を、いきいきと生きることを考え、その力をふたりに分けてやります……」(252頁)
自分以外にも妻子を覚えている人間のいたことに深く感謝する老人。著者は明確にしないが、浦野もまた、故郷の鎌倉に残してきた妻子のことを思ったのだろう。

かつての我が家を「(仕事から帰って)寝るだけの家」と表現した老人。身近な人物の死に直面すると、家族のありがたさ、尊さが身にしみてわかるものだ。僕がそれを思い知ったのは、31歳の秋だった。本書では表題作よりも、この最後の短編が印象深く残った。

ところで、海外の都市で日本人を見かけるようになったは良いが、普段和服を着ることのない若い娘たちが、渡航前に着物を急ごしらえしたあげく、「裾前も合わず帯もゆるんで、寝間着のようにだらしなく見えるのに、こちらが恥ずかしくなって顔を背けて隠れる」(242頁)と浦野に言わせるのが面白い。これは著者の本音なんだろうな。

大佛次郎セレクション
白い夜
著者:大佛次郎、未知谷・2007年9月発行
2011年3月11日読了

今回で19回目なのは結構だが、展示エリアが少ない感じがするなぁ。(2011年3月8日)

1920年代の明石市は明石川の東側までが境で、戦後に明石郡大久保町・魚住町、加古郡二見町と合併して、いまの明石市の姿になったのか。なるほど。

1920年代の生活の品々。ダイニングキッチンなんてものはなく、台所は"土間"だ。かまどと大きな鍋、炊飯用の釜、おひつ。氷保管庫もある。洗濯は木製たらいに洗濯板か。たたみの上にはちゃぶだいと、火鉢。レトロな箪笥はいま見ると新鮮だ。
これらは江戸期から続く伝統的な品々なのであろうが、現代の日本人の生活からは"かけ離れた"毎日を想像させてくれる。

1925年の国鉄明石駅の写真パネル。通り行く人々の姿には感慨深いものがある。
学校給食のメニューは本当、"最小限"だ。それでもアメリカから小麦を有償提供されたのはマシか。

1930年代の高度成長期に、現代の家電製品の原型が登場する。初期型の電気冷蔵庫、電気掃除機、電気洗濯機、テレビ。"ゆで卵製造器"なんてあったんだな。電気炊飯器に保温ジャーは記憶に残っているぞ。急激に変貌する庶民のライフスタイル。20年不況かつ停滞の現代日本と違って、明るい未来に向かって楽しく暮らすことのできる、そんな毎日だったんだろうな。

実は、1枚の写真パネルに衝撃を受けた。
終戦直後と思われる田舎の光景。正面には水道ホースを持ち散水する丸坊主の男児。男は子供だけでなく、大人も上半身裸だ。下半身にはトラウザーではなく、白いステテコを着用し、暑い夏をしのいでいるのだろうか。
背景には、何かの板を重ね合わせて急造したバラック小屋。側の物干し棒には、着物が干されている。
文明生活の片鱗すら感じさせない、1940年代後半の明石の姿か。
当時の状況を経験された方には申し訳ないと思いながら、正直、僕の念頭に浮かんだのは、2007年に訪れたインドの光景だった。

今回連れて行った母(69歳)にそのことを話すと「そうやで。あたしら、みんな、こんなんやってんで!」 実家は空襲(今風に言えば空爆)にあい、住処も家具も写真も思い出の品々も、何もかも炎に焼かれてしまった、1945年の尼崎。持ち出した財産を叩き売って食料品に替え、その日を生きてゆくという現実を思うと、胸が痛む。焼け跡からの復興、と一言で済ませることのできない、大事にしたい歴史だ。

http://www.akashibunpaku.com/
明石市立文化博物館

くらしのうつりかわり展は、2011年3月21日まで!

幕末から明治にかけて急激・どん欲に西洋文明の摂取を目指した日本。本書は、その事実がもたらした清国と「支那」に対する日本人の意識の変化を概観し、今日まで続く影響を考察する。

・日本の国民性を形成してきたのは中国の存在を前提にしたものであり、その自意識は大陸中国への恐れの感覚と密接に結びついている。

・古代から日本人の中国への憧れ、鎖国中も長崎を通して入手した明・清の書物から形成してきた「畏敬なる孔孟の地、聖人の国」との中国イメージが、幕末・明治初期に現実の中国の姿を知るにつれ、明治中頃には「上流士人を除き、中国は蛮人の国である」との共通認識へと変わる。
清国から中華民国への移行時、科挙に代わる立身出世の手段として日本留学が囃され、エリートが大挙して来日する。皮肉にも上記の中国人蔑視の環境に晒され、「反日思想」を抱いて帰国したという。……現在も似たような話を聞くなぁ。

・日露戦争の勝利が実力以上の慢心を日本国民に抱かせ、これが近隣諸国との連携を妨げ、自身に災いを招くことになる。

占領地に神道の神社を建設し、現地住民への天皇遙拝を強制したとの記述がある。(74頁) この「日本精神を強要」した支配システムこそ、現地文化を尊重した大英帝国と大きく異なるところであり、強硬な反日運動を引き起こした一因であろう。

本書は全体的に中共よりの記述となっているようで、日本の過去を否定するような印象がある。例えば最終章"歴史の重荷と二十一世紀の可能性の模索"では靖国神社参拝を取り上げ、「日本人独自の方法で歴史を追憶したいという考え方」が根強く存在していることに触れ、"近隣諸国に日本が及ぼした"禍害"を閑却することは許されない"、とある。(75頁) 前者は日本人として当然の考え方であり、批判の対象にはならない。後者は周辺諸国からみれば当然の記憶だが、これが前者を否定することにはつながらないのではないか。著者は"中華視点"の立場ではないか、と疑ってしまう。

あまり良い読後感は得られなかったなぁ。

世界史リブレット66
日本人のアジア認識
著者:並木頼寿、山川出版社・2008年3月発行
2011年3月6日読了

East India Company イギリス東インド会社ほど特異さを放ち、また存続した250年の間にその性格を大きく変えた企業は他に存在しない。純粋な商社として出発し、大英帝国政府の代理人として「非キリスト教国への宣戦布告権、講和権」を獲得し、会社独自の軍隊を駆使して現地諸王族の領土を奪い取る。やがて商取引から手を引き、完全な統治機関として存立する。最終的には1857年のインド大反乱の責任を取らされて解散させられるのだが、その史実を概観しただけでも、歴史の面白さに惑溺しそうになる。

もし、17世紀にオランダに競り勝ち、名前の通り(インドネシアを中心とする)"東インド"を基盤に活動していたなら、インドはフランス支配下に置かれ、世界史は大きく変わっていただろうな。(阿片戦争や日英同盟も無かったろうに。)

本書の特徴として"会社の軍隊"に一章が割り当てられている。
イギリス東インド"会社"軍が数億人の人口を有するインドを征服できたのはなぜか。諸勢力の反目につけ込み、あるいは加熱させ、"インド人"としてのナショナリズムは萌芽させずに個別に制覇したのは見事な戦略だ。(幕末日本のイギリス=薩長、フランス=幕府とは異なるが。)
この「インド人現地兵」を最大限活用したシステムは長期に渡る統治を可能にしただけでなく、英国人の指揮下、ビルマ侵攻、アフガン侵攻/防衛、世界大戦時のの中東戦線等、大英帝国最大の兵力供給源となった。、

で、インド兵は何のために戦っているのか。
「兵士の忠誠の対象は直属士官であり、連隊旗であるという。そして連隊の名誉のために戦った」(130頁) キップリングの小説"キム"や"サーヒブの戦争"の老兵の語りは、このことを裏付けているようだ。
ただし「従順な傭兵でも、自分たちの尊厳とアイデンティティーを傷つける不条理な命令は…命を賭けて抵抗した」(132頁)のであり、3度の反乱で示されるように、ヒンドゥーやイスラムの教義に反することのないよう、軍のシステムや命令には注意を払われたことがわかる。
江戸の平和を享受している間、東南アジアと南アジアで熾烈な争いが展開されていたと思うと、感慨深いものがある。手を出さなかったのが幸いしたのか、後の災いになったのか……。

現地人を優遇した穏やかな支配とでも言おうか。現地官僚や士官として赴任する際にはウルドゥー語(ムガル帝国の公用語)だけでなく、赴任先の現地語(パシュトゥー語、パンジャブ語など)のマスターも必須とされた。この大英帝国の、現地社会をそのままに支配のみ行う姿勢が、200年に渡ってインドを支配できた秘訣なのであろう。
(インド独立時の1947年には、高級官僚の半数はインド人だったらしい。)

ひるがえって大日本帝国だ。朝鮮支配に際しては鉄道・道路・港湾・橋梁等のインフラ、医療施設と技術、教育の充実化と高度化などを施し、植民地社会の文明レベル向上への貢献度は大英帝国に引けを取らないはずだ。"現地人"を二等国民扱いした点でも同じ。結局、創始改名等の"同化政策"を強行したことが強い反発を招いた理由の一つであり、帝国の崩壊に少なからず寄与することになったのだろう。

イギリス東インド会社 軍隊・官僚・総督
著者:浜渦哲雄、中央公論新社・2009年12月発行
2011年3月2日読了

最近、大正・昭和初期の"モダンガール"が気になり、書籍を集めはじめた。タイミング良く、ツボを突いた面白そうな催しだ……と言うわけで神戸ファッション美術館(略称:F美)に出向いてきた。(2011年3月3日)

展示領域は大きく四つ。パリ、上海、ニューヨークの小部屋が続き、最大の日本エリアに続く。平日午後だけあって鑑賞者も少ないので、ほとんど貸し切り状態で堪能できた。(F美さんには申し訳のない書き方ですが。)

■まずは最大展示の日本エリアへ。大正・昭和期(~1940)の資生堂、クラブコスメチックス、宝塚歌劇場等のポスター多数が展示され、これだけでも感動だ。
・化粧瓶のデザインは当時から重要だったんだな。
・山名文夫氏の作品に目を奪われた。昭和20年頃までの資生堂のポスターや製品パッケージだけでなく、会報や商業雑誌の表紙を多く手がけたことがわかる。
・國際情報社発行の雑誌"婦人グラフ"の表紙に竹久夢二を発見。
・"ART・GOUT・BEAUTE"誌の表紙はいま見ても斬新。(フランス語が読めたらなぁ……)

・昭和11年の"ホームライフ"誌に掲載されるた応接間の数々。舶来高級家具に囲まれた優雅な時間を過ごすのは、ブルジョア階級なんだとひとめ見て分かる。ソファとカーペットに"火鉢"ってのはいかにも昭和らしい。
・"ホームライフ"誌のご令嬢特集。失礼ながら、昭和12年のご令嬢は「やぼったいおばさん」にしか見えません……。

・最奥部のガラスケースに現物が展示される「パリ・ロンドンのモードの変遷」は価値がある。ルイ14世が逝去して"堅苦しい宮廷服"から解放された18世紀の新スタイルや、1850年代から60年代半ばに中流階級まで浸透したクリノリン・スタイル(誰が流行をしかけたの?)、1900年頃には落ち着いたスタイルとなる。で、1920年代には劇的に変わるモード。ココ・シャネルが与えた影響は計り知れないことが分かる。

・時代は下って1942年発行の"主婦の友"誌の表紙に着眼。「強い国民をつくる母の力」なんてキャッチコピーが。この時代の決まり文句かもしれない。
(自宅にある1942年の"週刊朝日"誌の表紙には「隣組、國の手足だ、動脈だ」とある。背面の"錠剤わかもと"広告にも「あなたのお子様を明日の日本を背負って立つ立派な興亜の國民に育て上げるのは、お母様の責任です」とある。)

■パリエリア
・シャネルをはじめ、"時代を革新した"オートクチュール作品が並ぶ。なるほど、とうならせてくれるドレスもあれば、時代を風靡して消え去ったデザイナーの作品もある。
・個人的には「とんびコートとサロンスーツ」が良い。吉田茂のイメージ。着てみたいが勇気がいるなぁ。

■ニューヨークエリア
・ワンピースとドレスを中心に展示。
・最高に目を引いたのは水着。……ダメ男だと自覚した瞬間だった。

■上海エリア
・解説パネルによると、チャイナ・ドレスとして知られる旗袍(チーパオ)は、清朝の男性と満州族の女性にのみ着用が許され、漢族を含むその他の女性は上衣と下衣が分かれた服装を強いられていたそうな。
・1920年代、清国支配から漢民族が解放され、満州スタイルから脱却した時代。これまた束縛の象徴であった"纏足"からも解放された女性は、こぞってハイヒールを履き、新デザイン(エリ高、ゆったりめ)の旗袍に身を包み、摩登女子(モダンガール)としてマスコミを賑わした。
・ここでは"摩登女子"の愛用した旗袍が多数展示される。
・当時の広告ポスターからは、新時代の強い息吹が感じられるぞ。

いつの時代もファッションは女性優位だけあって、メンズもの(?)で目立つのは「とんびコート」と日本エリアのフォーマルスーツ、清朝皇帝の着用する礼服の3点だけ。しかたないか。

・「着物入場者は無料」だそうで、着物姿の若い日本人女性が一人。実に良い!(館内の写真撮影は禁止か)

・同時開催の"グレゴリ青山のモダン画廊"は、キャリアを実感させる収集資料と言い、その作風(^^)と言い、実に濃い。「展示会のポスター制作過程の展示」も面白かった。

「気に入った作品を選び、じっくりと鑑賞する」ことができた。内容ともども満足だ。
最高のお気に入りは、"1932年資生堂モダンカラー粉白粉"のパッケージだ。山名文夫氏装飾画とその形状は秀逸で、実に物欲を刺激してくれる。

神戸ファッション美術館 あぁ!美しきモダーンズ 東西新世代女性たちの装い
http://www.fashionmuseum.or.jp/museum/index.html
2011年4月3日まで!

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