1968年にイギリスで出版されたベストセラーであり、本邦初訳のようだ。地元書店の店頭で手にし、労働者階級出身者による数少ない回想記であり、1920年代の記述がメインのようなので即決購入した。森薫さんの挿画も購入を後押しした。
教養と権力を独占する支配層や台頭しつつある中産階級ではなく、人権すら制限されていた労働者階級の生々しい声、そして女性ならではの主張に満ちあふれている。
著者は1907年にHoveに生まれ、貧しい幼年時代を経て、13歳からクリーニング店の下働きとして社会に出る。14歳から女中の道を歩むが、裁縫が不得手のため、キッチンメイドの職を選択することとなる。
メイドさん。この甘美な響きを有する職業の現実は厳しい。労働・生活環境とも劣悪であり、"奥様"や上司の厳しい叱咤に耐えつつ、著者は灰色の青春を送る。
休日は月に6日、それも15時から22時までに制限されるなど、当時=1920年代のメイドは働き詰めであり、若い男と出会う機会もほとんどなかったようだ。しかも深い仲に進展する前に「なんだ、女中ふぜいか」の捨て台詞を浴びせられる。当時の使用人の地位がわかるというもの。
最初の奉公先=牧師の屋敷では、羊の鞍下肉や牛の腰肉を大量に平らげ、大量に捨てる生活を目の当たりにし「食うや食わずの家族のことを思うと胸が張り裂ける思い」(p60)を抱く。キッチンメイドなのに主人たちの靴磨きまでさせられる。靴紐にもアイロンをかけるという「馬鹿馬鹿しい」(p64)仕事にも耐えなければならない。なぜなら、貧しい大家族の暮らす実家に「帰るのは無理だ」(p85)からだ。
"階上"と"階下"のあまりの違い。「人生の不公平について考えずにはいられなかった」(p68)
1年後、より良い待遇を求めてLondonに移る。KnightsbridgeはThurloe Square(Victoria & Albert Museumの南側だな)に邸宅を構えるカトラー氏のキッチンメイドとして新たな一歩を踏み出す。
職を通じて世のなんたるかを知ることは、古今東西変わらない。使用人を劣等人種とみる雇用主、コックと出入り業者の癒着、"虎の威を借る狐"のような執事の行状、プライドのない同僚メイドの行為などを直接見聞きし、人間を見る目を養ってゆく。
さらに3年後、Kensingtonの屋敷で、著者はコックの道を歩み始める。思惑は外れ、十分な食材は使えず、下働きも付かない。主人を"ma'am lady"、令夫人様と呼ばされる等、恵まれた職場環境ではなかったが、それでもキッチンメイドからコックへ変身できたのは大きかった。使用人を経験した人でないと「この地位の違いはわからない。…キッチンメイドなんて、誰でもない人間。なんでもない存在。…ほかの使用人にすらこき使われる、卑しい女中でしかないのだ」(p149)
個人的には1925年のSussex、同僚メイドであるオリーブ嬢の田舎を著者が訪問する描写が新鮮だった。Londonと違って水道も電気もガスもなく、オイルランプに頼る生活。井戸からオタマジャクシの混じった水を汲んで飲み、大小の用を足すのは地面に掘った穴ときた。これが、七つの海を支配した大英帝国の地方の姿なのか。(p160)
その後、数件の屋敷でコックを務め、結婚して専業主婦となる。様々な雇用主の下で働いた彼女は、雇用主の共通点を発見する。それは、使用人は教養を身につけてはならないと考えていることだ。特に読書は"社会主義"へ道を開くことであり、決して許容されない。"労働者は恋愛娯楽小説でも読みふけっていればよい"、これが支配階層の共通認識だったのだろう。(p189,p230)
第一次世界大戦後、わが世の春をひとり謳歌したのがアメリカだ。ロンドンの大通りを闊歩する男性の半数がアメリカ人だという記述が本書にもある。(p124) 上流階級は苦々しい思いを抱いていただろうが、第二次世界大戦後、彼らにはさらに過酷な運命が待ち受けているであろうことが、本書の後半に記されている。(p227)
その頃には労働者の生活水準も向上した。やがて三児の母親となった著者が、昔の知り合いの紹介から臨時料理人として働くことになるが、使用人の労働環境が劇的に改善されたことに驚いている。
あれだけ権勢を誇った"階上"の人々が経済的基盤を失って困窮するようになった様子は、著者をして同情せしめている。
使用人ならではの面白エピソードもふんだんに散りばめられている。フランス女への給仕をさせられた際、小さな新じゃがいもをドレスに大量にぶちまけ、"谷間"に挟まった一つを取り出す場面などは笑みが漏れた。(p198)
それにしても、イケメンでない男を総じて"バスの後ろみたいな顔"と表現するのが多い。やめてくれんかな……。
Below Stairs
英国メイド マーガレットの回想
著者:マーガレット・パウエル、村上リコ(訳)、河出書房新社・2011年12月発行
2011年12月30日読了