男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

2011年12月

1968年にイギリスで出版されたベストセラーであり、本邦初訳のようだ。地元書店の店頭で手にし、労働者階級出身者による数少ない回想記であり、1920年代の記述がメインのようなので即決購入した。森薫さんの挿画も購入を後押しした。

教養と権力を独占する支配層や台頭しつつある中産階級ではなく、人権すら制限されていた労働者階級の生々しい声、そして女性ならではの主張に満ちあふれている。

著者は1907年にHoveに生まれ、貧しい幼年時代を経て、13歳からクリーニング店の下働きとして社会に出る。14歳から女中の道を歩むが、裁縫が不得手のため、キッチンメイドの職を選択することとなる。

メイドさん。この甘美な響きを有する職業の現実は厳しい。労働・生活環境とも劣悪であり、"奥様"や上司の厳しい叱咤に耐えつつ、著者は灰色の青春を送る。
休日は月に6日、それも15時から22時までに制限されるなど、当時=1920年代のメイドは働き詰めであり、若い男と出会う機会もほとんどなかったようだ。しかも深い仲に進展する前に「なんだ、女中ふぜいか」の捨て台詞を浴びせられる。当時の使用人の地位がわかるというもの。

最初の奉公先=牧師の屋敷では、羊の鞍下肉や牛の腰肉を大量に平らげ、大量に捨てる生活を目の当たりにし「食うや食わずの家族のことを思うと胸が張り裂ける思い」(p60)を抱く。キッチンメイドなのに主人たちの靴磨きまでさせられる。靴紐にもアイロンをかけるという「馬鹿馬鹿しい」(p64)仕事にも耐えなければならない。なぜなら、貧しい大家族の暮らす実家に「帰るのは無理だ」(p85)からだ。
"階上"と"階下"のあまりの違い。「人生の不公平について考えずにはいられなかった」(p68)

1年後、より良い待遇を求めてLondonに移る。KnightsbridgeはThurloe Square(Victoria & Albert Museumの南側だな)に邸宅を構えるカトラー氏のキッチンメイドとして新たな一歩を踏み出す。

職を通じて世のなんたるかを知ることは、古今東西変わらない。使用人を劣等人種とみる雇用主、コックと出入り業者の癒着、"虎の威を借る狐"のような執事の行状、プライドのない同僚メイドの行為などを直接見聞きし、人間を見る目を養ってゆく。

さらに3年後、Kensingtonの屋敷で、著者はコックの道を歩み始める。思惑は外れ、十分な食材は使えず、下働きも付かない。主人を"ma'am lady"、令夫人様と呼ばされる等、恵まれた職場環境ではなかったが、それでもキッチンメイドからコックへ変身できたのは大きかった。使用人を経験した人でないと「この地位の違いはわからない。…キッチンメイドなんて、誰でもない人間。なんでもない存在。…ほかの使用人にすらこき使われる、卑しい女中でしかないのだ」(p149)

個人的には1925年のSussex、同僚メイドであるオリーブ嬢の田舎を著者が訪問する描写が新鮮だった。Londonと違って水道も電気もガスもなく、オイルランプに頼る生活。井戸からオタマジャクシの混じった水を汲んで飲み、大小の用を足すのは地面に掘った穴ときた。これが、七つの海を支配した大英帝国の地方の姿なのか。(p160)

その後、数件の屋敷でコックを務め、結婚して専業主婦となる。様々な雇用主の下で働いた彼女は、雇用主の共通点を発見する。それは、使用人は教養を身につけてはならないと考えていることだ。特に読書は"社会主義"へ道を開くことであり、決して許容されない。"労働者は恋愛娯楽小説でも読みふけっていればよい"、これが支配階層の共通認識だったのだろう。(p189,p230)

第一次世界大戦後、わが世の春をひとり謳歌したのがアメリカだ。ロンドンの大通りを闊歩する男性の半数がアメリカ人だという記述が本書にもある。(p124) 上流階級は苦々しい思いを抱いていただろうが、第二次世界大戦後、彼らにはさらに過酷な運命が待ち受けているであろうことが、本書の後半に記されている。(p227)
その頃には労働者の生活水準も向上した。やがて三児の母親となった著者が、昔の知り合いの紹介から臨時料理人として働くことになるが、使用人の労働環境が劇的に改善されたことに驚いている。
あれだけ権勢を誇った"階上"の人々が経済的基盤を失って困窮するようになった様子は、著者をして同情せしめている。

使用人ならではの面白エピソードもふんだんに散りばめられている。フランス女への給仕をさせられた際、小さな新じゃがいもをドレスに大量にぶちまけ、"谷間"に挟まった一つを取り出す場面などは笑みが漏れた。(p198)

それにしても、イケメンでない男を総じて"バスの後ろみたいな顔"と表現するのが多い。やめてくれんかな……。

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Below Stairs
英国メイド マーガレットの回想
著者:マーガレット・パウエル、村上リコ(訳)、河出書房新社・2011年12月発行
2011年12月30日読了

情報の洪水に流されず、自分の頭で考え抜くことの重要さ。それを本書は教えてくれた。

「死に神に突き飛ばされる」と「祈念と国策」の二章から構成される。書き下ろされた後者の内容は圧倒だ。


なぜ、東京電力に対する批判は高まらないのか?
「広告費が足かせとなって、新聞・メディアが自由に批判的な記事が書けないというのは、戦時中に言論統制が足かせとなって、新聞が自由に批判的な記事を載せられなかったというのと同じ構造の問題である」か、これはわかる。
さらに著者は現代ジャーナリズムの根源的な問題を説く。それは新聞とテレビが「読者、視聴者に政治的な課題を『提示』し、己の考えを明示し、議論の展開を促すべきところ、それができ」ずに、代わりに「大震災、原発災害の被災者の…現実、…挿話といった特異な記事で、次から次へと」紙面が埋められ、これが"報道"と称される。それは能力的な問題ではない。「事態を踏み込んで報道しないことが新聞社の意思に基づき、行われて」おり、その理由こそ「社会的に重要な動向(=原発に対する疑念)に対する既得権益の擁護」であり、「この種の情報の遮断」が行われている、と著者は断罪する。(p170)

「いま起こっているのは、これら政官財一勢力による文民の意思の押し込め」であり、「文民統制(シビリアンコントロール)が求められるとしたら、自衛隊に対してというよりも、これら政官財の既得権益共同体に対してであろう」(p55)
よく米国の軍産複合体が問題とされるが、この国の『既得権益共同体』にマスメディアが取り込まれている現実を忘れないようにしよう。


菅首相に対する非難の大合唱も、いま冷静になってみれば、マスコミに誘導されていたんだな。
いずれ、当局の監視の目を逃れるために、表現を曖昧にしたり、××や○○と表記しなければならない時代がやってくるのかもしれないな。
……中共支配下の中国とどこが変わらないんだ?


"原子力の平和利用"に隠された問題点、すなわち「どれだけ予算がかかっても、国家の『技術抑止』維持のために核燃料サイクルを推進するという軍事目的」を含む国家意志が存在し、しかもそれが裏に隠れたままの状態にあることを、原子力研究会の論文を引用しながら、著者は告発する。(p150)

長い時間をかけての脱原発。著者の立場は明快だ。

が……。
原子力は本質的に危険を内包する。それでも、巨大エネルギー源としての魅力からは逃れられないし、昭和の冷戦を経験した世代の一人として、その代価の一つでさえある日本の核"技術抑止"力を放棄することは選択したくない。
この点、本書中で幾度も著者が批判する寺島実郎氏の立場を僕は支持したい。

3.11 死に神に突き飛ばされる
著者:加藤典洋、岩波書店・2011年11月発行
2011年12月23日読了

「一俵の重み」「医は……」「絹の道」「プライド」「暴言大臣」「ミツバチが消えた夏」の5編を収録する著者初の短編集であり、組織の掟や上層部の思惑、個人の力ではどうにもできない潮流に翻弄されながらも、自己の仕事に誇りと持ち、あるいは疑問を抱きながらも真っ当に生きようとする男女の物語は、どれも骨太い。

「暴言大臣」のラストの展開は少し性急のようだが、人と組織と友情の裏の裏を垣間見るようで面白い。

「ミツバチが消えた夏」に表現される"強者の論理"こそ、いにしえから人類社会を支配してきたものだし、キーワードだと思う。大枠、すなわち、近代に始まった帝国主義はカタチを変えて続くし、これから変わらない。

人生の意義付けは人それぞれだし、どれが正しいわけでもない。信念を持ち続ける、そのことが強さを生み出すと思う。
意識の持ち方ひとつだが、"著者あとがき"にあるように、闘う姿勢と責任は忘れずにいたい。

プライド
著者:真山仁、新潮社・2010年3月発行
2011年12月20日読了

■カインの末裔
大正6年の北海道西部、凄まじい吹雪の寒村に、野生むき出しの小作農、広岡仁右衛門とその家族が辿り着くところから物語は始まる。

あてがわれた住居小屋の内部は冷たく、古むしろと藁の布団がすべて。吹雪に遮られるだけマシというもの。赤坊は堅くなりかかった歯茎で、母の枯れた乳房を噛む。泣く。母は3枚の塩煎餅を大事そうに噛み、我が子に口移しを試みる。夫は暴力で塩煎餅を奪い、自分のものにする。家族の食料は尽きる。
闇の中の深い貧しさ!

けんか腰の仁右衛門の巨躯-身長180センチ-は虚弱な他の小作人を圧倒し、ののしりと暴力で文句を言わせない。常態化したドメスティック・ヴァイオレンスは目を背けたくなる。

仕事熱心だがルールを破り、自分勝手に生きる仁右衛門は、やがて孤立する。
農場主の妾が暴行される事件は決定的だ。

長雨と日照りは不作をもたらす。
「自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた」(p49)

赤ん坊も死ぬ。仁右衛門と妻は吹雪の中、追い出されるように村を出る……。

■クララの出家
1212年3月18日、イタリア半島中部の自治都市Assisi アッシジにて18歳の貴族令嬢クララが出家、修道女になる夜明けから夜更けまでの一日を描く。
黄金色の美しい髪を持つ麗しい彼女こそ、Ordo Fratrum Minorum フランシスコ修道会を創立した聖フランシスコの最初の女弟子であり、後にClala Assisiensis アッシジのクララと尊称され、サン・ダミアーノ修道院の院長となる人だ。

人であることを捨て去る決意の後、だがしかし「瀕死者がこの世に最後の執着を感ずるようにきびしく烈しく父母や妹を思い」、親しんだ"この世界"への未練に涙を潤ませるシーンは、あまりにも人間的で、暖かいものがある。

これも昭和6年の作品。詳細な13世紀カソリック都市の情景描写と宗教観は、自身キリスト教に帰依した著者ならではのものだろう。


それにしても有島武郎の表現力豊かなこと。発表当時にセンセーションを巻き起こしたらしいが、さもありなん。女性編集者との心中を含め、常に世間の話題の中心にいたことも窺えるし、内容の濃い人生だったろうと思う。

カインの末裔/クララの出家
著者:有島武郎、岩波書店・1940年5月発行
2011年12月18日読了

寺子屋から全国統一の学校へ。列強国の知識を国民に浸透させるべく、文明開化は教育現場の光景を一変させる。
教科書も変わる。幼い学徒の理解を助けるべく、木版技術の粋を凝らした図版が多用され、いま観ても素晴らしい出来だ。

・明治初頭より小学生にしつこく教えられたことの一つが、地球は丸いということだ。江戸期の須弥山の概念で育った祖父や親の世代は、パラダイムの急激な変化をどう受け止めただろうか。

・第4章、鉄道に関する逸話が興味深い。
明治5年の新橋~横浜間の鉄道開業に始まり、神戸~京都間、上野~青森間、新橋~神戸間、明治30年代には北九州にも鉄道が開通する。(熊本・八代、大分・宇佐まで。南九州は軌道敷設もまだだったらしい。)
明治中頃の教科書では、日本各地の鉄道旅行の様子が描写される。鉄道と汽船のネットワークが全国に拡がり、庶民でも名所旧跡を旅行することが可能となった喜びは、今日の世界航空旅行の楽しさに通じるものだと思う。

・ガス灯と電灯、特に後者は昭和4年(1929年)の時点で、不便な山間にも普及したとある。実際には石油ランプが頼りにされたのだろうが。

・前島密。明治初頭に内国郵便制度を実現した彼の先見の明と偉大さには感服させられる。貯金にいそしむ国民性を創り上げたのも、江戸期の飛脚便との業務連携を実現したのも彼の功績だ。
「利益を優先せず、全国同一料金で郵便を届ける」理念は偉大だ。残念なことに、どの組織も年月を経ると当初の理念が失われ、自己保存に意義を見いだす。この御時世に"ゆうちょ"や"年賀ハガキ"に執着する現在の姿には、前島密も失笑するに違いない。

・電信・電話技術も旺盛に移入された明治2年には電信が開始され、2年後には外国との直接交信も開始。エレキトルと言う"気の力"により音信を遠方に伝える仕掛け、と教育される。
明治23年に開通した電話の一般家庭への普及は昭和を待つことになるが、明治後期には公衆電話が設置される。当時の「自働電話」にまつわる逸話も面白い。

・農作物の収穫を終え、東京見物に出かける農民の一行(明治20年、p147)。蝙蝠傘を除き、江戸時代の人物と風景にみえるその図は、文明開化とはほど遠い。明治中期においても、東京都心部との隔たりの大きさがわかる。
文化風俗情報が瞬時に共有される現代社会とその基盤である技術発展は、地方にこそ恩恵があると思う。


「向学心と好奇心と想像力」のちからにより、明治期以前には想像もできなかった広い視野を得た小学生が大人になり、やがて明治後期、大正へと続く日本の力強い基盤を築き上げた(p196)。あらためて教育の大切さがわかるし、その意味でも、橋下氏(大阪新市長)には期待を寄せたい。

おもしろ図像で楽しむ近代日本の小学教科書
著者:樹下龍児、中央公論新社・2011年7月発行
2011年12月13日読了

最初に手に取ったのは出版された2005年の7月。北朝鮮の動向が取り沙汰されていたこともあり、詳細に記された北朝鮮軍兵士の姿に興味を抱いた。
今回は、政治も経済も社会も崩壊した日本に観点を据えて読んだ。

2011年末の日本は、何もかも本書出版時より悪化した。経済収縮はますます進み、歴代政権が連呼する"景気対策"も空しく響くばかりだ。国債暴落に端を発する"日本経済の破綻"が語られて久しいが、最近の経済誌でも再びクローズアップされ、明日にも現実となりそうな気配だ。
いつまでも狼少年でいられるはずがない。


経済が崩壊すると、何が起こりうるのか。
円が売られ、国債と株が暴落し、銀行が閉鎖される。国民生活より国家財政が優先されるから、預金封鎖は必然となる。外貨と円の換金も制限され、海外資産も凍結される。消費税率も大幅にアップし、国民の生活は破綻に追いやられる。
優良企業が海外に逃げ出し、大都市を中心に浮浪者が爆発的に増える。犯罪も増える。政治家と官僚に向けられる憎悪は凄まじく、霞ヶ関でテロが頻発する。

「経済が衰退した国は国際的な発言力を失う。…戦後一貫して経済力をバックに外交を進めてきたから、破綻同様の国家財政と産業の衰退は外交面で手持ちのカードをすべて失うに等しかった」(上p281)

世界中の厄介者になりつつある日本。「アメリカと離反し、東アジアで孤立し、中国と敵対して、日本は平和と繁栄を守ることができるだろうか」(上p283)

その最中、北朝鮮による北九州侵攻計画が実行に移される……。


問題が発生する、あるいはその兆候に気づかず、突如その事態に襲われる。対処せずに放置すれば問題は悪化するのが世の常だが、これが国政の中枢で平然と行われるのだ。

物語中、ある閣僚が罷免される。突如部外者となった彼は、かえって冷静に物事を見ることができる。「内部にいては、何もわからない」のだ。
「典型的な日本的集団といえる円卓の意思決定の過程の異様さがよくわかる」し、「もっとも重要なことから逃げているようにも見える」。(上p288,p290,p309)

最優先事項を決めずに場当たり的に、しかし一所懸命に対処する物語中の政府の姿は滑稽だし、現実の政府もそうであることは容易に想像が付く。そして、これが僕を含む日本全体の日常的な姿かと思うと恐ろしくもなる。


責任と権限を明確にすることの重要性を、著者は大阪府警SAT部隊の北朝鮮テロリスト襲撃作戦を題材に明示する。
「決定権と責任の所在が曖昧なまま、すでに意味を失っている計画が実行に移される」(上p360)
部隊派遣、作戦立案、実行に至る過程を「把握して、決定を下す責任者がどこにも存在しなかった。…誰が作戦の実行や中止を決めるのか…決められていなかった。…前の戦争のインパールやガダルカナルと同じじゃないか」(下p106,p107)


福岡占領の是認。国際的な暗黙が、日本をますます孤立へと追いやる。。
「国際法で侵略が禁じられてるっていったって、要は国際社会の平和を乱さなければいいわけで」(下p114)

「この世の中には二種類の人間しかいない」(下p283)
こつこつと作る人間と、旧来のシステムと悪の砦を破壊する人間。マジョリティに属さない後者が、本格的な北朝鮮侵攻作戦を防止するのだが、その作戦は実に大胆だ。

著者の凄まじい想像力に圧倒されながら一気読みし、深い余韻を胸に書棚に戻した。

半島を出よ(上巻、下巻)
著者:村上龍、幻冬舎・2005年3月発行
2011年12月5日再読了

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