男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

2014年08月

長谷川如是閑が新聞記者としてロンドンを旅した同時期に、銀行員としてフランス・ルヨンに赴任したのが永井荷風だ。ときに1909年、日露戦争によって一等国の地位と自信を勝ち得た日本帝國の勢力拡大の時期に当たる。

『船と車』
入国後のパリはル・アーブル鉄道駅でふと、草色の清洒な壁の色彩に目を惹かれ、「自分も遂にヨーロッパ大陸に足を踏み入れたのだ」という感情を深くし(p9)、ブージヴァルからシャトゥ島付近よりエッフェル塔を遠景に認め、セーヌ沿いの別荘の窓より見返る女の姿に、仏蘭西小説の数多のヒロインを思い浮かべる(p11)。期待に胸の高まる若き荷風の姿が浮かび上がろうというもの。

『ローン河のほとり』
筋骨逞しい男性のごとく急流猛々しいローヌと、セーヌのような優しい流れのソーヌ。二つの対照的な川を抱く中世の古都リヨンの夏の夜。日没から21時頃までの「漠然たる夢うつつの世界」に「恋も歓楽も、現実の無惨なるに興冷めた吾らにはなんという楽園であろう」と酔い、アメリカに別れてきた女を思う。
「雲遠く水遙かに、思う事のかなわぬ哀れさ。これが我が恋の薫を消さぬ不朽の生命ではなかろうか」(p24)
すると鈍い黄色い光を灯す瓦斯灯に聞こえるは、いままさに別れ話を切り出されたであろう女のすすり泣く声。相手の心変わりに胸を痛めつつ、自身の心の弱さ頼りなさを嘆く荷風も、また泣く。

『蛇つかひ』
「浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか」(p46)と感慨を深めつつ夏の夜に観たジプシーの道化芝居の一団、なかでも黒ビロードの衣裳に身を包む濃い化粧の女に惹かれる。いい女だ、との周囲の囁きにも同意したのであろう。
季節が変わり、偶然に観た女の日常の姿に悲しさを抱く様はどうだ。赤子を抱く母の姿に「一種の薄暗い湿った感情を覚えた」ならまだしも、「背を丸くして仕事をしている元気の失せた生活に疲れた馬鹿正直な頓馬な顔をした年老けた女房」(p56)って、ヒドイな。

『祭の夜がたり』
コート・ダジュール旅行の途上でアヴィニョンに立ち寄った友人は語る。
「馳する車の音につれ自分は近世なるものから如何にも遠く隔たった未知の時代へと送られて行くような気がした」わかるなぁ。
「経験は貴き事実だ。事実は未来を予想させる唯一の手引きだ」わかる。
南フランスの女の色香に惑わされ、予想外の5泊と女への支払いが、旅行代金を食いつぶす、この無念さ。わからないでもないが。

『霧の夜』
1907年最後の夜、何気なしに小雨降るリヨンの街路を彷徨う荷風は、白髪の老人が声を枯らし、川風に吹かれながら年若い少女が客を引く大通りの露天商を覧る。生きようともがき、飢えまいと焦る人の運命の悲惨さ(p101)に、あの霧の深い夜の出来事を、忘れない記憶を蘇らせる。
それはキャバレーで垣間見た場末の寄席芸人の悲痛な生活であり、テーブルを駆けずり回るギャルソンの姿であり、寒さと塵に耐える市電の運転手の姿である。
木靴を履き上着すら持てない最貧困層の女性の副業は何か? 必死に自分を売り、果ては14歳の子どもを斡旋する少女に荷風は問う。彼女は友人か。少女は語る。
いえ、私の妹よ。
その平気な語り口。荷風の受けた衝撃は計り知れない。

『雲』
週に何人もの売春婦を買い、華のパリで観劇に逍遥に歓楽の日々を送る外交官、貞吉。はなから職責など無く、ワシントン時代の恋人にしてこれも売春婦を彼の地に置き去り、転任したロンドンでご令嬢との甘い時間を楽しんだのも終了し、パリでふたたび女買いに走る。似非所帯を持つ遊戯も失望に変わり、熟成されたのは捨て身の人生観。
おそらくは荷風その人の私生活を元にしながら、外国人としての立場からパリの日本人の醜聞をこれでもかと垣間見せる。
「浅薄な観察で欧州社会の腐敗を罵り、その挙句には狭い道徳観から古い日本の武士道なぞを今更のごとくゆかし気に言い囃す」(p175)などは、まさに昨今かまびすしい"日本美化"に通底するであろう価値観。
アメリカに捨てた女がパナマで死ぬ間際、それでも貞吉は女優との遊戯に慰めを見出す。
自己嫌悪すら超越した暗雲の人生に決別する時に、人には何ができるのかを荷風は諭してくれる。何もできはしまいと。

『巴里のわかれ』には、パリ在留を終える寂しさと、ロンドン到着初日の失望感が筆致たっぷりに込められている。
最終日の夜に見知らぬ女性二人とモンマントルを馬車で散歩できたのが、せめてもの慰めか。
しかし、中学時代からフランスに憧れていたとはいえ、ロンドンのことをここまで悪しざまに書かなくても良いのに。

フランスを離れた衝撃から立ち直ったのか、ポートサイードの記述は実に興味深いものとなっている。
「天と砂と光との間に自分は今無際限の寂寞沈黙に對して自分たった一人佇立してゐるのだとういふ感覚」(p232)が強烈に身に迫ったという体験は、パリでは得られないものだろう。個人的にはお気に入りの小編となった。
(タイトルは『ポートセット』だが。)

ふらんす物語
[荷風小説二]所収
著者:永井荷風、岩波書店・1986年6月発行
2014年8月30日読了

未曾有の事態に遭遇したとき、運命を決するものは何か。
それは"決断"と"果敢な行動"であるとの著者のメッセージが伝わってくる。

本書の登場人物は多岐に渡るが、陸上幕僚長の火箱陸将と国土交通省の大畠大臣の即断即決が強く印象に残った。
職種は違えど、未曾有の大災害に対面してのこの対応。このような上司を持ちたいし、自らもこうありたいと思う。

上層部ばかりでははい。放水車のドアを開け、自ら被爆しながら任務を遂行する自衛官と警察官。自らの家族への思いと"日本"への思い。悲壮を超えた、彼らの現場での過酷な決断には、頭の下がる思いだ。

陸上自衛隊・中央即応集団、中央特殊武器防護隊の自衛官が、水素爆発に巻き込まれる描写は圧巻だ。(p33~)
もし一歩、タイミングが違っていれば……。
これが上級司令部の正式命令を受けていない行動だったことにも驚かされた。すべては自衛官の責任観が危険を顧みずに、自身の体を推したってことなのか。

第二章が新鮮だった。東北地方整備局の、日ごろクローズアップされることのない一般の男女職員の、危機に際しての"命がけの"働きが道を"啓き"、震災当日からの救命・救助活動を可能にしたことは、もっと周知されて良いだろう。

菅直人と海江田万里。この二人が政治のトップに就いていたことが、日本の不幸だったんだな。
東京電力は……万事が万事、無責任。この一言に尽きる。

「危機管理において、最大のリソースは、やはり『人』であることをあらためて確信しました」
DMAT事務局長、小井戸氏の言葉が心に残る。(p459)

前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録
著者:麻生幾、新潮社・2014年3月発行
2014年8月21日読了

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盃を傾けながら"紳士君"と"豪傑君"の力説するそれぞれの持論に耳を傾ける"南海先生"。

民主主義を信奉する"紳士君"は述べる。
・無秩序の世から君主宰相専制政へ、立憲君主政から民主政への進化は歴史の必然。
 「世界人類の知恵と愛情とを一つにまぜ合わせて、一個の大きな完全体に仕上げるのが、民主制です」(p225)
・アジアの小国が欧州の武力に勝てるわけがない。自ら武装解除し、文化力を磨き、世界に光る精神的国家を作り上げれば、侵略者はなくなる。それでも侵略されたなら、滅んで後世に名を残すべし。
・偶然を頼みに国家の大事を決定する行為こそ、政治家の陥る最大の愚行。(p236)

一方、自国の安泰を願う"豪傑君"の意見は異なる。
・国際法が頼みにならなければ、小国が自己を守るすべは何か。
 周辺の「あの弱い大国=支那」を侵略して自国領土にすることこそ、欧州の侵略から逃れる唯一の手段。

国際社会において、ロシアこそ戦争の災いをもたらしている元凶(p259)であり、イギリスがアジア・アフリカを支配するのはロシアの横暴を防ぐためである(p235)、と"紳士君"と"豪傑君"の見解は一致する。兆民といえどもこの発想、この時代の限界というものか。

酔狂なのか博学なのか所在のわからぬ南海先生だが、その先生が二人に教え諭すのは、こうだ。
・政治の本質は、国民の意向に従い、その知的水準に見合いつつ、平穏な楽しみと福祉の利益を提供することにある。よって民主政治も万能ではなく、適用するタイミングは国によって異なる。
・ただ自ら崇拝する思想を人に強要するは、思想の専制に過ぎない。過去の思想の発現が現在の社会となる。よって思想家たるもの、大いに自説を開陳し世に広め、人々の脳髄に植え込まなくてはならない。数十年あるいは数百年の後に現実のものとなれば、それで良しとすること。
・世界平和の主張はまだ実行できないにしても、国際社会では道徳主義が範囲を広め、腕力主義が勢力を狭めつつある。これぞ自然の趨勢であり、進化そのもの。(p267)

1887年だから明治20年、中江兆民41歳の作品か。
日清・日露の戦争前の日本においてこれだけの疑似討論編が著されたことにも驚きだが、当時の議論が、2014年時点の日本を取り巻く状況にも通じることの驚きこそ大きい。

三酔人経綸問答
日本の名著36 中江兆民 所収
編者:河野健二、中央公論社・1984年8月発行
2014年8月23日再読了、2014年3月27日読了

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2014年7月21日(月)午後のパリ

■左岸を歩け歩け

ポン・ヌフを経てカルティエ・ラタンへ向かう。

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オデオン座

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リュクサンブール公園

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パンテオン 圧倒的な存在感

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ムフタール通りへ。一度訪れてみたかった「パリ最古の通り」だ。

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2012年6月に大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室で鑑賞した荻須高徳『Rue Mouffetard ムフタール街』(1932年)のイメージとも重なりあって良い感じだが、観光客目当ての飲食店が多いな。

ムフタール街を抜けてモンジュ通りを歩く。

しばらくして、リュテス闘技場なる公園にたどり着いた。中は円形の球技場のようだ。
少年サッカーに負けじと、老人たちが鉄球を投げてぶつけ合う競技に沸いていた。訊くと「ペルン」と言うのだそう。硬球大の球を持ってみたがズシリと重い。パリの老人、侮りがたし。

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リュテス闘技場近くのメトロの入口。気に入った。

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北上し、1165年に創立されたパリ最古のサン・ジュリアン・ル・ポーブル教会に到着。外観のみ参拝。ノートルダム大聖堂は目と鼻の先。5月に入場したので今回は素通り。ものすごい人だかりを掻き分け、大通りと川を超え、右岸へ渡る。

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ホテルで小休止。18時40分。
モンジュ通りは品が良くなさそう。ムフタール通りもいまいち好きになれなかった。


■モンマルトル逍遥
ここを散策するには時間切れ。次回はじっくりと廻ることにしよう。

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■サクレ・クール寺院
観光客で溢れているな。確かに眺めは良い。でもそれだけのような気がした。失礼。

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■シャ・ノワールの足跡を巡る
世紀末のわずか十数年間、モンマルトル文化の揺籃の地となったキャバレー、LE CHAT NOIR(黒猫:有名なポスター画)の2か所の跡地を訪ねた。これは展覧会「陶酔のパリ・モンマントル 1880-1910 『シャ・ノワールをめぐるキャバレー文化と芸術家たち」を2011年4月に鑑賞して以来思っていたことだ。
新進芸術家と商業主義の融合が一大文化を生み出す有様はさぞ、壮大かつ刺激的なものだったに違いない。

それも昔の話か。
「シャ・ノワール」の2番目の店(~1897年)の跡地は普通の民家になっていた。

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最初の店(~1885年)の跡地は隣の土産物屋に押しのけられそうになっていた。
フィリップ・スタルクのデザインした歴史案内板が泣くぞ。

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最初の店の跡地の同じ通りの角に現役のカフェ・コンセール「エリゼ=モンマントル」(1807~)があるはずなのだが……なんと、つぶれて売りに出されていた。うーむ。

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それでも、このピガール地区はサブカルの香りがプンプンして良いな。また来よう。

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これでパリ散歩はお終い。翌日のプラハ行の準備、準備!

続く。

2014年7月21日(月)

■ルーヴル美術館の至宝たち
8時30分、ピラミッド前に推測600人の行列あり。黙って並び、9時すぎに入場できた。
10時以降はすさまじい混雑となり、これが15時ごろまで続く。恐ろしや。
拝観料(?)12ユーロ。大英博物館はタダなのになぁ。


Denon翼77号室の南西の角。ここが僕の好きなLouvreだ。
朝一番よりモナリザの前は恐ろしい混雑だが、こちらはゆっくり鑑賞できる。

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Jean-Auguste-Dominique INGRES「Jeanne d'Arc au sacre du roi Chaeles VII, dans la cathedrale de Reims」(1855年)
『シャルル七世の戴冠式のジャンヌ・ダルク』
この少女の美しい表情と金属的な甲冑の対照が良い。実はルーブルで僕の一番好きな絵画だ。

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「詐欺師」「指輪と乳首をつまむ姉妹」「恥じらう乙女」「踏みつける天女」等々。一級の芸術に触れるっていいなぁ。

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オルセーに見られないルーブルの特徴の一つに、中世宗教画の充実があげられるだろう。お気に入りをパチリ。

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モナリザの微笑む部屋です。

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この特別な空間のニケちゃん。大人気でした

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(写真の下は大混雑)


目には目を、歯には歯を。ある意味、生きた法典。

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14時。遅い昼食はリシュリュー翼に併設された「Le Cafe Marly」カフェ・マルリーへ。赤地に金のライン、青いロゴのインテリアはルーブルにふさわしいな。
テラス席に座り、ピラミッドとドゥノン翼を眺めながらの食事だ。
スープ(gaspacho)は良し。メインはunique tenderloin steakを奮発した。美味い!

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晴れたり、曇ったり、どんどん変わるパリの空模様。これも文明の素地のひとつなのかな。

続く

漠然とした経済活動に身を置きながらも、遠大なスケールの視点は日常への異なる対峙方法へと導いてくれる。
歴史家の目を借りて世界を見る。その楽しみを教えてくれた一冊となった。

真のイギリスの支配階級とは。
・英国は工業国ではない。地代と利子を源泉とする資本家ジェントルマンの国である。
・彼らに対し「消費者勢力」が抵抗勢力となっている。
・帝国植民地=周辺国への低開発の押しつけと収奪は、現在の世界システムにも継承されている。

次代のヘゲモニー国家。
・近代世界システムの終焉の兆しが顕著となっている。
・アメリカに続く覇権者は、もはや国家ではない。
・国の規模を超えたアクターが覇権を握る。その意味で東アジアからは現われないであろう。(p184)

衰退する日本の遺すもの。
・18世紀の英仏の争う姿が21世紀の日中に重なる。オランダ資金を活用できたイギリスがフランスに勝利したことは、アメリカ資本と軍事力を取り込むことの重要さを示唆する。
・日本経済は長期的・相対的に埋没する。ならば繁栄の記憶として「文化」を世界に発信し、後世に残すしかない。(p155,172,206)
・緩やかな経済の衰退こそ、日本が英国に見習うべき点であり「粘り」が必要とされる。(p177)
・日本が日本でありうるためには「生活文化」のアイデンティティを確保する以外にはない。(p162)

グローバル企業の連合体が為政者を従属させ、ネットワークにより極度に均一化された世界に君臨する未来が見えてくる。
そんな世界でローカルな日本人の果たす役割を考える時期が来ている。そういうことだな。

イギリス繁栄のあとさき
著者:川北稔、講談社・2014年3月発行
2014年8月9日読了

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2014年7月20日、パリの午後。
■プティ・パレ(パリ市立美術館)
ここにも来たかったんだ。
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・Georges Clairin「Portrait de Sarar Bernhardt」(1876年)
サラ・ベルナール嬢、貴女に会いたかった!
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・Leon-Francois Comerre「Bicyclette au Vesinet」(1903年)
好みだ。そしてこの、人を見下すような目! 痺れます。
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ここは結局、17時45分に追い出された。職員(パリ市の公務員)の一部は閉館前なのに着替え終え、帰る気満々だし。その昔、山梨県立美術館でも同じ目に遭ったぞ。どの国の公立美術館も体質は同じなのかな?
■散策
大統領官邸=エリゼ宮の周りはさすがに制服警官と私服警官らしき人物が警戒に当たっていた。
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サントノレ通りの高級店はどこも閉まっていた。日曜日18時以降だから当たり前か。
で、このあたりでカフェに……と思ったがなかなか見つからない。
ようやくAux Delices de Manonに入店し、軽い夕食とした。カプチーノ、タルト、何かのパンで20ユーロ。
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歩いて歩いてコメディ・フランセーズへ。チケット売り場に並ぶ。もう少しで僕の番ってところで「sold out」って悲しすぎ……。
で、また散歩に出ることにした。


サン・ラザール駅。名画の舞台を直接見ておかねば。うん。
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背後では若い二人の美男子が熱い接吻を交わしているのでした。
聖トリニティ寺院の前のカフェでビールを飲む。6ユーロ。
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22時30分にホテルに戻る。巴里の遅い夕べはこうして暮れたのでした。
続く

2014年7月20日、パリは日曜日。
■オルセーにおるぜー
8時20分にホテルを出て、またまたcafe de la peixにて朝食。この時間は室内でコンチネンタルブレークファーストのみ提供らしく、パン6個とコーヒーにオレンジジュースの統一メニュー。このジュースがすばらしく美味かった。で、25ユーロ。


徒歩でオルセーに向かう。「美術館は朝一番に入場するべし」なので9時20分に到着。この時間で推計600人待ち。9時40分に入場できた。入場料11ユーロ。

まずは内部全景を眺められる場所へ。1900年万国博覧会に併せてオープンした巨大駅のプラットホームだった部分、この半円筒形の天井が良い。
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これまた巨大な時計塔へ。スケルトン文字盤の彼方にルーブル宮殿を望む。絶景なり!

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それでは作品鑑賞へ。保護のため、基本的に写真撮影禁止なのも納得できる。

気に入った作品を何点か。
・Edgar Deger「L'Orchestre de l'Opera」(1870年)
華やかな舞台のもう一組の主役、オーケストラに焦点を当てた作品。ドガ一連の作品に共通する輝くドレスをまとったバレエダンサーを画面上部に配し、中央に黒ずくめの男たちと楽器を側面から描く。オルセーで一番のお気に入りとなった。
ポストカードも購入したぞ。
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・Pierre Auguste Renoir「Danse a la campagne」(1883年)
楽しげに踊る一組のカップル。女の右手に掲げた扇子が良い。でもこの女、ビッチって感じでイヤだ。
構図もタッチもとても良いのだがね。
・Pierre Auguste Renoir「Jeunes filles au piano」(1892年)
柔らかく、それでいて光にあふれた明るい作品。少女たちの美しさと相まって、その存在感は大きい。
背景のライトグリーン~オレンジ色のカーテンが白色と桃色の衣服を引き立てている。
・Edgar Deger「Dansenses motand un escalier」(1890年)
ドガの作品に文句はない。
・Pierre Auguste Renoir「Bal du moulin de la Galette」(1875年)
本作を間近に見ることができて嬉しい。
正面に座って談笑する白いドレスの若い娘が主役かな。ダンスに興じる男たちは皆、娘を見ている。パートナー達も気付いているのかも?!
・「Chrysanthemes」(1870年)
手前にあふれ出る花束。描き込みが尋常ではない。

・「Le quatre parties du monde soutenant la sphere ce'leste」(1872年)
1Fに鎮座する、ある意味オルセーを代表する彫刻作品。
地球を支える四人の女性は世界各地を代表する姿で表現されている。辮髪の中国女性は可哀想だろう。
タイタンに変わって女性たちが世界を支える。これも世相というやつか。

昼食です。11時50分に2Fへ向かう。その名も「Restaurant du Musee d'Orsay」オルセー美術館レストランへ。

1900年には駅舎ホテルのダイニングルームだった場所だ。天井のフレスコ画が見事。
座席は……女神像のお尻の真下に通された。まぁいいか。
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スープが美味い!
メイン(牛肉の煮込み)と巨大なアップルパイはまぁまぁ。50ユーロ。
眺めも内装も味も良し。次は男一人ではなく、誰かと一緒に来たいなぁ。

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2階のアール・ヌーボーコーナーは良し。
多数展示されている家具のディテールに宿る時代の精神。優雅な曲線と動植物をモチーフにした形状と色彩は良いな。
溶接後の完全に除去できていないのは技術的な制約かも。
実物大のデザイン画もある。
・あきらかに「やりすぎ」なキャビネットもある(多数の人間の頭、ヘビ、見ていて気色悪い)。

・Georges Clairin「Portrait de Sarah Bernhardt」(1921年)は往年の大女優の凄味を眼力に集約させている。
若い挑戦者を待つ女王の貫録は、恐ろしくもある。
ポストカードより。
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これからはデザインを重視してモノを購入することにしよう。
ところで、イタリアとスペインのアール・ヌーボーコーナーは新鮮だった。フランス・ベルギーのそれのような植物的な要素は多くなく、むしろ、アール・デコの要素を見出せるように感じた。(Federico Tesioのデスク、チェアーなど。ガウディのもそうだな。)
ジャポニスムコーナーは小規模
日本趣味というより日中印のイメージがごっちゃになった感じ。特にマントルピース上の時計や燭台にその趣向が表れているように思う。
午後は大混雑。朝一番に入館して正解だった。
Vincent Van Goghゴッホコーナーはもろ混みだぁ。
「La Nait etoilei」は以前に東京のオルセー展で観たが、ここで観るとさらに良く感じる。
夜の幾種類もの暗さ、黒。川に映る星々。傑作。
「La Salle de danse a'Arle」(1888年)は黒地に黄色の表現が良い。
・H.T.Lautrec「Jane Avril dansant」(1892年)
ここで観ることができるとは思わなかった。もう少し美人に描けば良いのに。
・Gustave Moreau「Hesiode et la Muse」(1891年)
気に入った。半裸で楽器のみ持ち歩く女の背後に天女あり。
天空に近い神殿、急峻な谷底、何の寓意なのだろうか。
羽の鮮やかな青が好い。
・James Tissot「Evening, dit aussi Le Bal」(1878年)
この作品もここ収蔵だったのか。黄色のドレスと扇が印象的だ。裾のひだまで良く描き込まれている。
・James Tissot「En pays e'tranger (Le Fils prodigue dans la vie moderne)」(1880年)
1883年の万博に出演した外国人のダンサー。って、日本人じゃないか。
踊子9人と欧米人の男に寄り添うゲイシャ・ガール。それに差配するスーツ姿の日本人男性。
こんな発見があるとは。
・Edouard Manet「Olympia」(1863年)
なるほど、物議をかもすわけだな。
オリエンタリズムのコーナーはボヘミアン(市場の)、サハラでの祈り(ムスリム)、アルジェリア・サハラの村人たち(暑くて何もやる気が起こりそうにない)等々。
このオルセー。古代ものもあるが、19世紀からのベル・エポック期のパリの華やかさが余すところなく表現されている。半日以上を確保して正解だった。(16時20分まで滞在した。)
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続きます。

5月に引き続いてパリと、チェコのプラハを訪問した。
5泊7日の弾丸旅行ではあったがアール・ヌーヴォーとベルエポックの華やかさの名残を体感でき、満足な旅となった。

【参考データ】
往路便
 2014年7月19日 関西空港11時30分発AF291便、パリ行き
移動便
 2014年7月22日 CDG空港7時30分発AF1382便、プラハ行き
復路便
 2014年7月24日 ヴァーツラフ・ハベル空港7時発KL3120便、アムステルダム行き
 2014年7月24日 スキポール空港14時55分発KL867便、関西空港行き

パリ宿泊先:Helder Opera(3泊)
プラハ宿泊先:Art Nouveau Palace Hotel(2泊)

■2014年7月19日、出国
関西空港ラウンジへ初めて入ったのだが、思っていたのと違う。CDGエールフランスのラウンジと比べると規模が小さく、はっきり言ってしょぼい。まぁ時間つぶしのための設備だから良いか。出発前に白ワインとチーズとフルーツで気分を盛り上げる。

AF291便の機体777は古く、座席にもガタがきているが、やはりビジネスクラスは快適だ。今回はじめて一番前の席に座った(1E)。
昼食はまぁまぁ。肉が少し硬かったかな。

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今回のフライトはやけに揺れる。気流の影響とはわかっているが、ここ数日の飛行機墜落事故・撃墜事件が脳裏をよぎる。
映画『小さいおうち』を鑑賞。概ね原作に沿った内容だった。

22時夕食はチキン。これはあまり美味しくなかった。

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現地時間16時にランディング。
16時40分に入国。審査はパスポートをパラパラめくっておしまい。審査時間わずか5秒。やる気あんのか。。。

17時15分、ロワッシーバス(10.5ユーロ)でオペラ・ガルニエへ向けて出発。バス乗り場は少しわかりにくいな。
照り付ける太陽の下、予想に反してパリは暑かった。エアコンの調子が悪いのか、バスの中も暑かった。
18時10分、オペラ・ガルニエに到着。観光客でごった返す中、スーツケースをごろごろ転がしてホテルHelde Operaを探し出す羽目に……。
5月に比べて観光客の多さに驚いた。

18時35分チェックイン。
三ツ星ホテルなのだが、設備のあちこちががたついている。日本なら6千円のビジネスホテルだな。まぁ寝るだけだし、ロワッシーバス乗り場に近いことを最優先したから良いか。
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■シャンゼリゼを歩く
2014年7月19日、二度目のパリ。前回入場しなかった凱旋門へと向かう。
ホテルHelde Operaから歩きはじめ、オペラ・ガルニエ、マドレーヌ寺院、コンコルド広場、グラン・パレなどの宏大かつ壮大な姿を眺め、シャンゼリゼの豪奢な並びを楽しみつつ、凱旋門へ。

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■凱旋門
ミュージアムパス保持者がスイスイと入場するのを横目に、入場券購入まで15分。入場料9.5ユーロ。
階段を上って屋上へ。
こうやって眺めると、オスマン男爵の壮大な都市改造計画もさることながら、これを実行に移したナポレオン三世の功績は(その強硬な手段は別にして)後世まで讃えられてしかるべきだろう。

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雨だ。タクシーでオペラ・ガルニエまで戻る。
夕食は、巴里で最初に入った有名店cafe de la peixを選んだ。
中のレストランは高そうなので、テラス席にした。
クラシック・ビーフターターとポテトのセット。ビールを飲みすぎた。50ユーロ。

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ホテルに戻って休む。
バスタブの栓が壊れているし、全館のブレーカは落ちるし……。次は高級ホテルに泊まろう。

続きます。

1920年代の著作なるも、その普遍的な内容は2014年の日本をとりまく環境においても大きく示唆されるものがある。

表題作『象を撃つ』はビルマ勤務時代の経験をもとに書かれた。作業役務のために飼育されている象が逃げ、暴れ、地元住民を殺す。人の尊厳など微塵も感じられない、むごたらしい死体。象使いを待つという合理的な判断に勝るのが、軍警察としての自分への住民の期待だ。"白人の旦那"としての責務、"土民"の崇拝に応えなければならない重圧。帝国統治者としての宿命がそこにある。
帝国統治のシステムが凝縮された日常をオーウェルは鋭く突く。

『ビルマの独立』では民族自決権(オーウェルはこの表現を用いていないが)とマイノリティの問題に触れる。
「実のところ少数民族の問題は、ナショナリズムが実量を保っている限り、文字通り解決不可能なのである」(p286)
ウクライナ、新疆、チベット、カシミール、イラクに示されるまさに今日的問題。根は深く容易ならざる解決への道。それでも手探りと知恵で進むしかないことが示唆される。

『全体主義の下で内面の自由があるか』(p249)は小編なれども本書の肝ではないだろうか。
人の思想を束縛する環境、独裁的政府下では個人の内面すら自由ではないことが示される件は、時と場所が変節しても不変の事実である。
今日で言えば、中国共産党独裁下の支那の人民には、もはや基本的人権の意味を問うことすら覚束ないのであろう。これこそ専制支配の最大の恐怖と思える。

パブリック・スクール入学前の幼年期~少年期にかけての思い出を綴った『あの楽しかりし日々』は、そのタイトルと裏腹に自らの教師から受けた仕打ちと大人を見る目が述べられる。独自の規範を持った子供たちの世界。勇気や根性、すなわち「自分の意思を相手に押しつける力」(p213)が大切とされ、親の年収が子本人の地位も決めてしまう、そんな30年前の世界をオーウェルはかえりみる。
忘れ去った自分たちの子供時代を思い出し、子供たちは水中ともいえる一種別の世界に生きていることを大人は自覚する必要がある(p229)。
想像力に頼るのではなく、自分自身の記憶を蘇らせることによってのみ、子供の世界像を、その歪んだ世界観を認識することができる(p232)。
「弱者は自分たちのために違ったルールを作り出す権利があるということがわからなかった」(p221)のは当然で、これは大人の世界の知恵でもある。
2014年7月のBRICS銀行設立など、まさにそうではないか。

帝国の辺境での勤務を打ち切り、祖国イギリスへ戻ったオーウェルは執筆に専念する。強者が弱者を支配する帝国主義の矛盾、貧富の格差が作り出す人間性の歪みが深く追及された末に『パリ・ロンドン放浪記』『動物農場』が生み出されるのである。

オーウェル評論集1 象を撃つ
著者:George Orwell、川端康雄(編)、平凡社・2009年11月発行
2014年8月1日読了

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