2014年09月
シャーロック・ホームズの思い出 コナン・ドイル [読書記]
シドニー・パジット氏による挿画とオックスフォード版の充実した解説により、ホームズの世界を思う存分楽しめる一冊となっている。
スピンオフ作品は数あれど、やはり本家は何かが違う。
本書の中のお気に入りを挙げよう。
『The Masgrave Ritual マスグレーヴ家の儀式』
冒頭、ホームズの有名な奇癖を並べた後、ホームズ自身の学友により持ち込まれた事件が展開される。
男女の痴情のもつれと金銭欲が招く悲劇。これだけなら平凡な探偵作品だが、イングランド史にまつわる伝承と身近な推理ものが混交し、本作を傑作へと昇華させている。
『The Final Problem 最後の事件』
スイスの美しい描写とモリアーティ教授の不気味さと恐怖が対照をなす。
自らの最期を悟り、友人ワトスンを安全な場所へと向かわせた直後のホームズの姿(p543)は清々しく、そして美しい。
推理性の皆無、必然性の脆弱さなどが批判される作品だが、それでも、男の最期を飾る物語としてすばらしい叙事詩だと思う。
1927年のシンポジウムにおけるドイル氏の講演『いかにして私は本を書くか』(p665、付録二)も参考になる。
訳者あとがきにはドイル氏の家庭事情と作品の関連性が詳しく記述されるが、研究者層ならともかく、本書の読者層には必ずしもマッチしないと思う。少し残念だ。
THE MEMOIRS OF SHAERLOCK HOLMOES
シャーロック・ホームズ全集④
シャーロック・ホームズの思い出
著者:Sir Arthur Conan Doyle、小林司、東山あかね(訳)、河出書房新社・2014年6月発行
2014年9月23日読了
アメリカ<帝国>の現在 ハルトゥーニアン [読書記]
全世界を統治しながら、その民意を反映するかのように振る舞う怪物、アメリカ帝国。
本書は、第二次世界大戦後に姿を現し、冷戦期に肥大化した「近代化」の理論的経緯を追いつつ、冷戦終了後に「帝国主義」の姿を隠そうとしなくなったアメリカ帝国の現代的意味が語られる。
・現代の世界帝国的秩序は、911テロによる対テロリスト戦争でも、アメリカによるイラク侵略でもなく、冷戦の終了が発端である。
・冷戦初期に脱植民地化を果たした膨大な新興国。活力を欠き静止状態にある彼らの伝統社会を、躍動的でスピード感に満ちた近代社会へと移行させる変革概念。これが近代化であり、社会科学である。それはアメリカ資本主義の拡大のために資するため、プレモダンな後進社会を"改造=西洋化を加速"するために生み出された。
・近代化は民主化に非ず。政治的リーダーを育成し、いかに第一世界=アメリカ資本主義の経済的発展に寄与し、第二世界=ソビエト連邦の影響を排除させるかを模索するモデルでもあった。ゆえに過度な民主化はときに政治近代化の障害とされ、権威主義的権力形態をすら支持するようになる(p92)。
・本書にはたびたび「近代化モデルの成功例」として日本への言及がある。半植民地から共産主義革命の餌食となった中国(p109)、植民地から脆弱な民主主義国となったインドと並べられ、日本は戦前の「文明化」を早いペースで成し遂げたものの、軍国主義とその頓挫を経験し、アメリカの占領政策によって、真の近代国家へと飛躍したケースとされる。この特殊な事例ですら、強引に他の途上国の発展の参考になるとされ、多大な研究がなされてきたことが述べられる。
・だが「帝国的介入」の目的は「政体転換」であり(p104)、その意味で戦後日本はアメリカの意図する世界の近代化政策の成功例と言えよう。
・その日本を例に、現代の帝国主義は「過剰な領土的野心を持たないものへ変質した植民地主義」であることが明確にされる(p117)。本書に記述はないが、リップルウッドによる新生銀行にからむ事例、金融危機の演出と搾取などは、新しい植民地主義の姿をありありと示してくれよう。
「帝国の統治形態は国際統治というモデルをなし、それゆえグローバリゼーションを牽引する力として作用する」(p160)
オリジナルが著されたのはイラク戦争中の2004年であるが、新たに付加された日本語版における最新の序文と訳者の解説文により、2014年現在、本書の内容はますます正鵠を得つつあると言えよう。
グローバリゼーション=現代の帝国主義。日本もその構成国である。「メフィストに魂を売ったファウストのように、アメリカへの従属と依存とを受け入れた」(p18)自身の姿を直視し、このアメリカ帝国にどう乗り、これからどう生き延びてゆくのかが問われる。
THE EMPIRE'S NEW CLOTHES
Paradigm Lost, and Regained
アメリカ<帝国>の現在 イデオロギーの守護者たち
著者:Harry Harootunian、平野克弥(訳)、みすず書房・2014年6月発行
2014年9月12日読了
男ひとり旅の美学 2014年7月 パリとプラハ その7
■DOWNTOWN旧市街を歩く
では、お散歩開始。
・ヴァーツラフ広場
遠くに国立博物館を望む大通り。聖人の名をとって「ヴァーツラフ広場」と呼ばれるここは、「プラハの春」と「ビロード革命」の舞台となった歴史的な場所だ。
思えば1989年の革命の際、後に大統領となるハヴェル氏がさっそうと登場したわけだが、個人的にはアレクサンデル・ドプチェク氏のほうに好印象を抱いている。
ドプチェク氏は、1968年の「プラハの春」を指導し、つかの間の「人間の顔をした社会主義」を実現して解任された共産党第一書記だ。
話は飛躍するが、1993年に講談社より出版された「希望は死なず ドプチェク自伝」によると、「プラハの春」をつぶすためにワルシャワ条約軍が侵攻したわけだが、政府首脳陣と共産党指導部がそのまま踏みとどまり、傀儡政権の成立を防いだことが、ソ連の意図(「チェコ政権からの要請を受け、治安部隊を進駐させた」の言い分)を挫いた最大の要因だったと、そう本人は述べている。
結局、ドプチェク氏ら「プラハの春」の主導者はソ連に拉致され、党と政府の要職から追放されてしまう。
アレクサンデル・ドプチェク氏。1989年のビロード革命後、国会議長(三権の長)に就任した後、睡眠時間を削って働きに働いた信念の人。68歳に交通事故で病院に運ばれたときには、肺炎、胃潰瘍、膵臓炎にかかっていることが判明した。
働いて、働いて、、、頂点から追放されてひとりの林業従事者へ、そして再びの頂点で迎えた死。
壮絶な生き方に、感動を覚えずにはいられなかったことを憶えている。
有名なアール・ヌーヴォー様式のHOTEL EUROPE ホテル・エヴロパを観る。いいな。
・ナ・プシーコピェ大通りから市民会館へ。
近隣諸国からの観光客が多いからだろうか、やけに高級車の多い気がする。
6シリーズも意外と多いし、ベントレーなんて想像もしなかった。
代わりにメルセデスは少ない。なぜ?
日本車はMAZDAを数台とTOYOTAを1台見かけた。
・市民会館
プラハの文化の中枢部と言っても過言ではない市民会館。市長執務室もあり。
ここは翌日のツアーに参加し見学することになる。
・火薬塔から旧市街広場へ
市民会館に隣接する火薬塔。15世紀に建築された黒く特徴ある塔の門を潜り抜ける。
ここから「王の道」を逆さにプラハ城へと向かう。
小さなショップがひしめき合い、劇団員と思しき客引きも多い。
この通りを歩くのは観光客ばかりだろう。
ガイドブックには「北海道なみの気候」とあるが、周りは半袖かタンクトップばかり。
日本と変わらない暑さの下、長袖シャツで出掛けて、ひとり後悔した。
・旧市街広場、カレル通り、
旧市街広場は、なるほど、観光のひとつのハイライトだな。
ヤン・フス像にティーン教会、キンスキー宮殿が良い。
「これぞ、中世から続くプラハ」といった感じのノスタルジーと活気に満ち溢れて、実に良い。来て良かった。
■旧市庁舎の天文時計 ガックシ
有名な天文時計の前に肉料理レストランのオープンテラスがある。半端な時間だが、足がクタクタなので休憩。
真正面の良席が空いていたので速攻で占める。
この天文時計、毎正時に仕掛けが動くらしく、なるほど、15時前には人だかりとなった。僕は特等席でビールをおかわりしつつ、期待に胸を膨らませる。
15時。オルゴールが鳴動し、時計の周囲の人形が動き出す。
これでお終い???
ガイドブックには「神秘的な動きの天文時計」「天使の両脇にある窓が~」と書いてあるが、期待しすぎたって感じ。
「え~」と嘆息を残しつつ、立ち去る観光客の群。僕も「金を返せ(ビール1,000mlとチキンサンドで600CZK)」と言いたいなぁ。
■カレル橋を渡る
プラハと言えばここ、カレル橋。14世紀に架けられた由緒正しい橋梁の全長は500メートルを超える。
立ち並ぶ30体の聖人像の下には、絵描きやパフォーマー、土産物売りがひしめき合っている。
でも、人多すぎ! 今度来るときは早朝にしようと思う。
カレル橋遠景
さぁ、プラハ城へ!
……こんなに坂道がキツイとは。足が棒のようだ。
しかも、到着したのが16時30分なので閉館前。トホホ。
気を持ち直して、城に対面する宮殿に入るオープンカフェへ。
ここから眺め見下ろすプラハ市街の眺めは実に良い。
カフェのお姉さんの笑顔も実に良い。
このシュヴァルツェンベルク宮殿にはナショナル・ギャラリーがあるのだが、ここは翌日に鑑賞することにする。
17時、プラハ城衛兵の交代式を観る。あれだけ直立不動の姿勢を貫き、観光客にちゃかされても表情一つ変えなかった衛兵諸君は、まさしくプロフェッショナルだ。
チェコスロバキア初代大統領、マサリクの像を観る。王宮に対面しつつ、毎夕、彼は何を思うのだろうか。
城を降りて、聖ミクラーシュ教会を経て、マーネス橋を観て、ヴルタヴァ川を右手に歩く。
チェコ橋を渡ってユダヤ人地区へ。
新旧のシナゴーグ、旧ユダヤ人墓地(やはり写真は消去した)を観る。
ブルタヴァ川右岸からプラハ城を望む。
ふたたび旧市街広場へ。
ここは夜間も活気に満ちている。
夫人が良人を罵倒する像。なんか気に入った。
夕食はホテル内の有名レストラン「Gourmet Club グルメ・クラブ」へ。
きちんとセットアップ・スーツに着替えて行ったのに、アメリカ人観光客はポロシャツですか……。なんだろうね。
ここちよいピアノの生演奏をBGMに、クラブガニのスープを試す。美味。
牛肉のステーキも柔らかで良し。
ニューヨークチーズケーキ(大きい)とコーヒーで締める。
「ずいぶんと予定が狂ったが、明日も元気に歩こう」と旅行手帳に書いて寝た。
続く。
男ひとり旅の美学 2014年7月 パリとプラハ その6
■パリからプラハへ移動
4時55分にオペラ・ガルニエ横のロワッシー・バス乗り場へ到着。一番乗り。
このバスに乗り遅れないために近傍の三ツ星ホテルを選んだのだ。
5時15分の始発バスでシャルル・ドゴール空港へ向かう。乗客わずか6人。10.5ユーロ。
外はまだ暗く、上空は星のまたたきが綺麗だ。
18時に空港着。早朝でも45分はかかるんだな。憶えておこう。
18時20分出国、ターミナルFのラウンジで朝食をいただく。
このラウンジはターミナルEに比べると座席が少なく、座れるまで時間がかかった。
しかし、昨日のモンマルトルもルーブルもそうだったが、中国人と韓国人の団体観光客のうるさいこと! 周りの白人が顔をしかめていたが、その気持ちもわかろうというもの。一昔前の日本人団体客もあんな様子だったんだろうな。
パリ発プラハ行きAF1382便は7時45分にtake off! すぐに朝食が出た。
9時7分にlanding、ヴァーツラフ・ハベル国際空港へ到着したぞ。
で、この空港は信じ難いことに、英語、フランス語、ドイツ語、ハングルの案内表記と来た! なんでや!
開発・改装に韓国資本が入ったのか、政治的策略なのかな?
Praha-hlavni nadrazi プラハ中央駅行き空港エクスプレス・バスのチケットを購う。60Kc。
9時45分出発、空港周辺は畑が多いな。
10時20分中央駅到着。
歩いてホテルへ向かう。石畳は美観形成には作用するが、スーツケースのキャスターにダメージを与えそう。
■アール・ヌーヴォー・パレスホテル
"Art Nouveau Palace Hotel"に到着。10時45分。
ここは1906年建築のグランドホテルだ。
かつて"Hotel Palace Praha"ホテル・パレス・プラハ時代には、ローリングストーンズも宿泊した。
10年以上前のTITLE誌2003年3月号の「Walking around PRAGUE プラハを散歩する。」特集号で気に入って以来、気になっていたのだ。
チェックイン時刻(15時)には早すぎる。フロントに向かうと「30分待てばOK」とのことで、1階の「Cafe Palace カフェ・パレス」でフレッシュジュースを注文。目の前でフルーツをミキシング。美味だ。
アール・ヌーヴォー様式のクラシックホテル。ロビーもカフェも言いようのない魅力だ。気に入った。
部屋は312号室で、ウェイティングルーム付き。ちょうど、ミュシャ博物館を見下ろせる位置にある。
重厚かつスタイリッシュな内装がとても良い。
散歩への出発時、振り返ってエントランス上のファサードをよく見ると、チェックイン時にはなかったはずの日章旗が! 僕が宿泊するので掲揚してくれたんだな。嬉しいぞ!
続く