■軍事歴史博物館
食後、タクシー(20,000ドン)で軍事歴史博物館へ。入場料70,000ドンはちと高い。
「ベトナムの近代戦争におけるベトナム軍の歴史を紹介した博物館」
ここは気に入った!
独立戦争期の写真パネル、フランス植民地軍将校の遺品、銃弾痕の痛々しいヘルメットの残骸、等々
1954年のディエンビエンフーの包囲戦の巨大ジオラマは圧巻だ(写真がないです)。
やはり対米戦争時の展示には力が入っている。
・ホーチミンによる南北ベトナムの統一までの軍需品、写真パネル、地下塹壕の模型、等々
・サイゴンの大統領官邸へ進撃したT54戦車。これは国宝らしい。
・米軍機を14機撃墜したMIG21戦闘機。これも国宝。
・鹵獲(ろかく)された米軍機の残骸が大々的に展示されていた。
非人道的な爆弾はアメリカ製。
・国家総動員体制とはいえ、女性兵士の姿が大々的にクローズアップされていた。この土着パワーには勝てないな。
これは国旗掲揚塔。隣接する旧ハノイ城跡の一部であり、世界遺産なのだ。
■タンロン遺跡
だだっ広い。でも、これが「世界遺産」と言われてもピンと来ない。
・端門
ほとんど唯一完全な形で残された正門。
楼閣の上から全体を見下ろせるとのことだが、特段の感動はなかった。
端門の前には見事なベトナム式(?)盆栽が並べられていた。また植樹、フランス式庭園の整備等も行われており、観光客だけに閲覧を許すのはもったいないと思った。
・敬天殿
ここの見世物は「龍の階段」で、「殿上人」のみここを昇ることが許されたそうな。
宮殿のあった場所には博物館が建てられ、発掘された遺跡や古代の地図などが展示されている。
■北ベトナム軍司令部
タンロン遺跡はだだっ広い。でも、これが「世界遺産」と言われてもピンと来ない。
その一方、中にある場違いな軍事作戦司令部は良かった。
フランス軍が、後に北ベトナム軍が使用した緑色の建築物がそのまま残されており、これこそ観光価値の高いものだろうに。
野戦用電話機や暗号装置らしきものが残されている。
目玉は、原子爆弾の攻撃にも耐えられるシェルターとして地下10mに設けられた地下指令室「D-67」だ。
第二次世界大戦中のイギリスの「War Cabinet」を彷彿させ、やる気が十二分に伝わってくる。
出入口はこんな感じ
■ハノイ教会
16時50分にタンロン遺跡を退出し、南へ向かう。ここからが長かった。
歩いて、歩いて、迷って、あさっての方向(南西)へ出てしまい、GOOGLE-MAPで修正だ。
歩道にはバイクが、店先の商品が並び、人々は車道を歩かざるをえない。そこをバイクと車が疾走するのだからたまらない。事故の少ないのが不思議だ。
どうにかハノイ教会へたどり着く。中へ入って休憩だ。
ちょうど、ミサが執り行われていた。
■ホテル・メトロポール・ハノイ
(ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイ)
観光の最後は再びのホアンキエム湖だ。
売店で500mlペットボトル水を買うと、すまし顔の店員は「50,000ドン」とぬかしやがった。再確認すると「10,000ドン」になった。油断ならないな。
18時にホテルへ戻る。再び「ル・クラブバー」へ。
・メトロポール・シャーベットセット
・カプチーノ
・スパークリング水withライム
で生き返った。(646,000ドン)
朝に注文したマカロンを受け取る際、ホテルのスタッフに声をかけられた。
「昼間、ル・クラブバーでビーフを注文してくれましたね」
服装からしてマネージャー、あるいは支配人クラスだろう。
マカロン・ショコラショップの店員は、とても偉い人だと言っていた。
そういえば、この人にも給仕してもらったんだったな。
ハノイそのものは、途上国かつ社会主義国家らしく、お世辞にも楽しいところとは言えない。
それでも印象は悪くないのだ。
これは本当に、ホテルの素晴らしさによるところが大きい。
これまで宿泊した中で、Hotel Metropole Hanoi(Sofitel Legend Metropole Hanoi)はパーフェクト。
最上のサービスを受けられたと思う。
これで、パリの三ツ星オンボロホテル(日本のビジネスホテル以下)よりも宿泊費が安価なのだから愕然とさせられる。
■帰国です
ホテルにマイリン・タクシーを呼んでもらい、19時10分に出発。
ホテルのドアマンもプロだったな。
ビュンビュン飛ばして19時55分に空港到着。
メーターは380,000ドンだったがチップ込みで500,000ドンを奮発。
20時35分に出国。あまりにも到着時間が早すぎた。3階のレストランへ。
・ビール「BIA HA NOI」を2本
・牛肉入りフォー
・シーフード揚げ春巻き
450,000ドン。
高級レストランのものより数段劣る。美味とは言えないなぁ。
22時55分にレストランを出る。
23時55分にボーディング開始。バス移動のせいなのか、優先搭乗なし。SKY PRIORITYの看板が泣くぞ。
24時20分に離陸後、機内にガスが充満したのには驚いた。冷却剤か、はたまた殺虫剤か。
害は無いものの気分良いものではないな。
朝食はお世辞にも食えたものではない。僕でさえ半分を残した。
4時32分に関空到着。6時45分に再入国完了。
残金1,080,000ドンを両替すると……わずか5,076円だった。
ベトナム航空は万事につけ事務的・義務的な対応で、愛想笑いひとつなし。ダメだな。
■戦争の悲しみ バオ・ニン Bao Ninh
ハノイに初めて空襲警報が発令された1965年春の夜。その描写がある。
「国鉄ハノイ駅に並んでいた数十の機関車が一斉に汽笛を鳴らし、オペラ・ハウスのてっぺんからサイレンの叫びがおどろおどろしく都心一帯に響き渡った。……人々は初めて経験したその凶暴な大音響に驚愕し、次いで狼狽し、心臓の鼓動も止まるほどの恐怖に駆られて右往左往した。ドアを荒っぽく開閉する音。階段を急いで走り下る足音。それに街区ごとに設置されていた広報伝達用のスピーカーの叫び声。『同胞の皆さん、同胞の皆さん、敵機が接近しています、敵機が……』」
(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ-6巻所収、THAN PHAN CUA TINH YEUよりp333、井川一久訳)
僕の歩いたハノイに戦争の痕跡は見えなかったけれど(ロンビエン橋の破損を除く)、2010年9月に読み終えたこの小説のことを思い出した。
なぜだろうと、街を見る。
猥雑なほどの活気に溢れた市場、バイクの群れが所狭しと疾走する大通り。国家建設に向けてであろうスローガンを大書きしたバナーがあちこちに翻り、希望に満ちた未来像を示すプロパガンダ・イラストが点在する街。
日本と何もかも違う。
違う。何かが異なるのだ。
そうだ、老人の姿が見えないのだ。
いないわけではない。けれども中国やEU諸国、北米大陸では元気に闊歩していた爺さん、婆さんの姿が圧倒的に少ないのだ。
戦争の影響がないはずがない。愕然とさせられる。かつて自らの国を占領し、統一後も故郷を攻撃し、果ては戦略爆撃機で攻撃し、近親者を殺害し続けた欧米人観光客を、昨日も今日も明日も笑顔で迎えなければならないハノイの人たち。
その苦悩、察するに余りあるが……強く生きるしかない。
ハノイ弾丸旅行記、終わりです。ありがとうございました。
2014年12月
男ひとり旅の美学 2014年9月 ハノイ その2
2014年9月14日、ハノイは快晴
■インドシナの中のパリ
朝食はフランス料理レストラン「Le Beaulieu ル・ボリュー」でビュッフェ。
まるでパリのレストランにいる感覚はとても快適だ。
クロワッサンが美味い。
ここは1901年創業の、フランスによるベトナム統治を象徴するホテルでもある。
今回の旅行ではここへの宿泊を決めていた。
非常に満足だ。
ホテル内のショップで、会社と自分への土産にマカロン45個を、家への土産に歯ブラシ立て(部屋の備品と同じもの)を買った。マカロンは預かっておいてもらう。
■ドンスアン市場
ホテルの外へ出ると、すごい湿気。眼鏡もカメラのレンズも曇る、本当に困る。
午前はLy Thai To ST.リータイトー通りを北へ。ドンスアン市場とロンビエン橋を目指して歩く、歩く。
ホアンキエム湖の北側一帯が旧市街で、ここのごちゃごちゃした通りをバイクに気を付けつつ、さらに歩く。
この旧市街だけではないが、歩道は「店の商品置き場、あるいはカフェのテーブル置き場」となる、そうでなければバイクの駐輪場となり、人の歩く余地はなく、人間様はバイクと車の行き交う車道を歩く羽目になるのだ。こうなると観光も景観もへったくれもないが、現地人にとって生きるためには仕方ないのだな。
サーグー通りを西へ、ハンドゥオン通りを北へ行き、Cho Dong Xuanドンスアン市場に着いた。
このファサードは、なるほど、新古典主義なのか。
中で働く男女はそんなこと、気にしてもいないんだろうな。
■東河門
旧ハノイ城の城門の一つで、18世紀の建築らしい。これほどの貴重な遺産が粗末に扱われているのはもったいない。
■ロンビエン橋
一度は観光リストから外したが、ホテルの宿泊階に掲示してあった旧時代の写真パネルを視て、足を運ぶことに決めた。
この写真パネルの影響なのです。
隣にはこんなパネルも。「安南」はベトナムの旧国名ですね。
さて、ここは1902年に完成した全長1.7kmの鉄道橋だ。当初はインドシナ総督の名から「Le Pont Doumerドゥメール橋」と呼ばれ、第二次世界大戦後にCau Long Bien ロンビエン橋と改名されたそうな。
ベトナム戦争中はアメリカ空軍による北爆で何度も破壊され、そのたびに補修を繰り返したそうな。
さぁ、歩こうか。
鉄道とバイク専用の橋であり、本当は人の歩行は禁止されているそうだが。
下に見えるは紅河だ。この河の畔に人類が住み着いたのが古(いにしえ)のハノイか。
紅河を見下ろしつつ、橋の上でたたずむ。バイクの往来が激しく気を抜けないが、ハノイの創生時代に思いを巡らせた。
Yen Phu ST.イェンフー通り。この30km先にノイバイ国際空港がある。
■ル・クラブバー
11時にホテルへ戻る。信じられん話だが、全身の汗で服が雑巾のようになってしまった。下着を含め、すべて着替えることとなった。
もう飛行機内用の長袖しか残っていないのに。
11時55分にチェックアウト。また泊まりたいな。
そのまま昼食を。ホテル内の著名なバー(昼間はカフェ)「Le Club Bar ル・クラブバー」でランチすることができた。嬉しいぞ。
パリ直系のフランス料理を堪能した。
スパークリングワインでのどを潤し、冷スープ「ガスパッテョ」をいただく。
赤ワインはフランス産。
メインはフォラグラとフィレステーキのコンビ「ロッシーニ」にした。これが最高の味だった。
カフェラテで締め。
満足度120%だ。
これで2,933,700ドン、14,000円。値段もパリと変わらない……。
お腹いっぱいで、続く。
男ひとり旅の美学 2014年9月 ハノイ その1
安南の古都へ1泊3日の弾丸旅行を敢行。フランス植民地時代の名残とホー・チ・ミン社会主義の雰囲気を楽しんできた。
【参考データ】
往路便
2014年9月13日 関西空港10時30分発VN331便、ハノイ行き
復路便
2014年9月15日 ノイバイ国際空港0時5分発VN330便、関西空港行き
ハノイ宿泊先:
Sofitel Legend Metropole Hanoi(1泊)
■2014年9月13日、出国、嬉しくない飛行機
ベトナム航空便は初搭乗。予約時に16Dを指定したのが間違いだった。客席乗務員の座席が客室の数か所に分散配置されている。その一つの真後ろだったのだが、足を延ばせない。冊子ポケットすらない。まぁ、おかげで往路は旅プラン作成に集中できたのだが。
機内にパーソナルモニタはない。トイレは機体最後尾に3か所集中配置なら、順番待ちも集まるわけで、後方座席の客にしてみれば迷惑でしかない。小型機のA321とは言え、なんて設計だ……。
10時40分に離陸、昼食は、もろエコノミークラス用。エールフランスやKLMには劣るが、まぁ悪くない。
現地時間12時55分に着地。ターミナルへはバス移動となるが、なんて暑さと湿気だ。
13時15分に入国。
20,000円を両替すると、3,780,000ドン。200,000ドン紙幣が普通に使われるんだな。
タクシーでホテルへ。
できたてほやほやの高速道路を通る。日本企業の広告も多いな。
ノイバイ国際空港はとても小さいが、現在、日本の協力で巨大な新ターミナルが建設されており、ほとんど完成した新ターミナルビルにはTAISEI 大成建設の表記があった。
ベトナムにはMitsubishi Heavy Industries, ltdによるボーイング737の翼工場があるのですよ。
所要時間45分で380,000(400,000)ドン。チップ50,000ドンを弾む。
これでも総額で2,100円程度。
ホテルの客室案内係(日本人女性)とドアマン・ポーターのチップで70,000ドン(336円)。金銭感覚がマヒしそうだ。
ホテルだけは、この国の周囲と別世界。ホッとできる。
飛行機の狭苦しい座席のせいだろうが、腰が痛む。それでも観光に出発だ。
■ベトナム国旗「金星紅旗」の翻る首都
オペラ・ウイング側のファサードを出る。さっそく方向音痴ぶりが発揮され、Ngan Hang Nha Nuoc国立銀行まで歩いてしまった。
このモダニズム・スタイルの建築物もなかなか良いのだが、Google MAPで道を確認し、反対方向へ歩みを修正する。
すると目前に、かつてオペラ・ハウスと呼ばれたNha Hat Lon Thanh Pho市劇場が現われた。イエローとホワイトを基調とした壁面が夕陽の照射を浴びて輝きを増す。頭上にはベトナム国旗「金星紅旗」が翻る。
パリのものとはまるで違うが、これはこれで良いな。
内部見学は無し。公演もこの1週間はなさそう。
■歴史博物館
市劇場から200mほど歩くと、Bao Tang Lich Su Quoc Gia 国立歴史博物館がある。
この博物館の特徴はその外観にある。深いバルコン付きの建築物には本当に風情がある。
まさにインドシナ様式の真髄。
チケットを購入して、外観を何度も鑑賞して、内部へ。
ガイドブックには「展示物の充実度はベトナムでも屈指」とあるが、首都にある国立歴史博物館として、この規模はどうなのか。
明石市立文化博物館よりは大きいが、神戸市立博物館より規模は小さいような……。
まぁ、限られた予算での運営は大変だから……とは言えないな。ここの職員のやる気の無さ!
16時20分に入館したのだが、どの職員=公務員もやる気なし。スマホ片手に客用ソファーに寝そべり、ダベり、手鏡をみて髪をいじり……何人かはもう私服に着替えて帰る気満々だし。
上海の交通博物館を思い出したぞ。
八角形のエントランスホールにはベトナム(安南)の古い地図が置かれ、興味を惹かれる。
ここは先史時代からフランス統治時代、ベトナム独立までの歴史資料が豊富に展示されている。時間の都合で近世・グエン朝以降の展示(2階)を鑑賞することにした。
・巨大な亀の像、千手観音像、軍船などに中国の影響が大きいのは、近世までの東洋の宿命か。
・フランスに占領されるまで、漢字が通用したんだな。
・庭園にも、各地で発掘された彫刻などが置かれている。
■チャンティエン大通りを行く
さて、フランス統治時代の面影濃いとされるチャンティエン大通りを歩こうか。
市劇場から見るとこんな感じ。コロニアル建築の集う姿は首都の証だ。
・思ったより小規模だった。
・すさまじきはバイクの洪水……
・いいな、この感じ
■ホアンキエム湖
ハノイ有数の憩いの場、それがHo Hoan Kiem ホアンキエム湖だ。
15世紀に中国・明朝の支配からベトナムを解放した英雄、レ・ロイの宝剣伝説に基づき建立されたのが湖の中央に立つ「亀の塔」で、この湖のシンボルともなっている。
夕涼みの湖畔には楽しげな家族連れ、新婚さん、ウエディングドレスをまとった新婦さん、と賑やかだ。
それでも「金をくれ」だの「ジャパニーズ・ボーイ」だの、怪しい人種も多い。気を付けないと。
湖の周りをぐるりと散歩。
途中、玉山祠に寄る。中国人の団体観光客がうるさいぞ。
湖の北西にあるカフェで休憩。ここのテラス席からは湖を一望できる。
店内にベトナム人はいない。外国人旅行客向けの価格に設定されているんだろうな。
アイスコーヒー+アイスクリームフロートを注文。チップ込みで80,000ドン、384円。これでも現地人にとっては高額なんだな。
(他の売店で、ペットボトルの水が10,000ドンだった。48円か。)
腹立たしいことが一つ。隣席の欧米人がでかい声で急に「ナンキン・ジェノサイド」の会話を始めやがった。
「ジャップ」と聞こえたぞ、この野郎!
レイシスト、インペリアリスト、ファシスト、ナチス、クー・クラックス・クラン、ベトナム人惨殺の責任を取れ、おまえ、実はアルカイダだろう……英語を話せない口惜しさよ。次はみていろよ。
18時30分、そのまま、階上のベトナム料理のレストラン「Dinh Lang Thuy Ta ディンラン・トウイータ」に入店した。
見晴らしに期待したが、カフェのテラス席には見劣りするなぁ。
19時頃よりベトナム伝統楽器の演奏会が始まった。良いぞ。
「赤とんぼ」を演奏してくれるとは思わなかったが、歌い手がわざわざ席にやってきて暗にチップを要求してくるとは、もっと思わなかった。
(会計時に50,000ドンを奮発してやった。)
で、ベトナム料理は二重丸。
ビール(333)2本、カニのス-プ、生春巻き、牛肉を葉で包んだ「ボー・ラー・ロット」、シーフード・ヌードル、コーヒーとケーキ。
満腹になるまで美味いものを食べて、810,000ドン(うちチップ100,000ドン)、3,900円。
世界経済とは何か。
あまりの格差に、ちょぴり絶望感すら沸いた。先進国がボリすぎているってことなのか。
ホアンキエム湖。夜に入るとロマンティックでいい感じになったぞ。一人旅の男にゃ関係ないが。
続く。
ヴィクトリア女王 君塚直隆 [読書記]
19歳で即位し、独仏露に対抗しつつ60年に渡り帝国主義政策を推し進め、20世紀を迎えて大往生を遂げた大人物、ヴィクトリア。
1851年ロンドン万博総裁を務めた夫、アルバート公を亡くしては終生を喪服を過ごし、『ウヰンゾルの後家さん』(キップリング詩集、中村為治)などと揶揄されるも、その人生は決して内に留まることはなかった。
本書は、『イギリス君主論』に著されたイメージ「君臨すれども統治せず」から遠く離れ、内政・外交に積極的に口を出す”果敢な戦う君主”、ヴィクトリアの姿を浮かび上がらせる。
・ナポレオン三世、ニコライ一世、ビスマルクとの対立と協調、かわいい孫にして敵対するヴィルヘルム二世への哀しみなど、19世紀に最高潮を迎えた欧州の王室外交。その中心を占めた"君主と"母親"の苦労の大きさよ。
・自身の治世下、貴族政治から大衆民主主義政治へと大きな変遷を遂げるなか、自由党内閣との軋轢がいやほど伝わってくる。
・1860年代のビスマルク、ナポレオン三世へのヴィクトリアの対峙はすごいものだが、アジア・アフリカは自分たちの支配下に置くことを当然視している。時代と言えばそれまでだが、何か釈然としない。特に、インド大反乱に対する圧政は大英帝国の本質を如実に顕したものだろう。この姿勢が後継者アメリカに引き継がれ、今日の"不公正な"平和維持を生み出しているのだ。
治世の最晩年に登場する辺境の新興国日本。彼女の眼にはこの国など眼中になかったんだろうな。義和団事変の際に陸上兵力の提供を打診したことが、日英同盟の端緒になるのだろうか。だとしたら、ボーア戦争は遠い国の出来事ながら、間接的に日本の運命を変えたことになる。感慨深いな。
ヴィクトリア女王 大英帝国の”戦う女王”
著者:君塚直隆、中央公論新社・2007年10月発行
2014年12月18日再読了
男ひとり旅の美学 2014年8月 アムステルダムとオランダ風車 その3
2014年8月16日(土)、曇り
三日目の朝食もカフェ・アメリカン。アール・ヌーヴォー万歳!
■トラブル・デイ
オランダらしさを求めて、キンデルダイク村の風車群を観に行くのだ。
地球の歩き方2014年度版では、キンデルダイク村への具体的な行き方はわからない。
キンデルダイクへの行き方が詳しく掲載されている、ここのページを参考にさせていただいた。
【そらのおらんだ通信 オランダ観光 キンデルダイク】
www.oranda.fc2web.com/travel/travel3.htm#kinder
なるほど、国鉄でAmsterdam中央駅からRotterdam中央駅へ、ロッテルダム港からwaterbusに乗船し、Ridderkerkで渡し船に乗り換えてKinderdijk波止場まで行くとある。そこから歩けばすぐか。
トラムでアムステルダム中央駅へ。9時30分到着。2.8ユーロ。
料金は乗車時に運転手に支払えばよいので、楽ちん
乗車券は硬券のような、内部にアンテナ・コイルが巻かれた使い捨て切符。エコじゃないな。
さて、ロッテルダム中央駅行きの切符を買おうとしたら「ICチップ非対応のクレジットカードは使えない」ときた。cash払いで14.5ユーロ。手持ちが少なくなって不安だな。
これで二等車客室。ベルリンでもそうだったが、新幹線より快適だ。
オランダ国鉄のホームページ。料金、停車駅などがわかるので便利。
www.ns.nl/en/travellers/home/
ライデンの辺りで雲が暑くなってきた。小雨の中をICは快調に疾走する。
10時56分にロッテルダム中央駅到着
駅構内のツーリストサービスセンターへ。これが間違いの元だった。
「キンデルダイク行ボートツアー」なるもののパンフレットをもらったのは良いが、メトロ、LRTの説明が良くわからず、結局、タクシーに乗ってしまった。
これが失敗だった。まっすぐ南へ歩けば良かったのに。
運転手はしつこく「キンデルダイクまで車で行こう」と言うが、金がないのですよ、金が。「船で行く」と言い張り、港のボート乗り場らしきところで降車した。15ユーロ。高いじゃないか。
あとから思えば、waterbus乗り場のはるか東で降りてしまったのだ。ツアーに参加しようかと変な考えを起こし、そのパンフに描かれた不正確な地図を運転手に見せたのが失敗だったのだ。
キチンとした地図は旅行に必携だと痛感した。
港をうろうろしているうちに時間を浪費してしまった。
まぁ、勉強代だと思って、前向きに行こう。
自力(実はグーグルマップ様のおかげ)で何とか水上バス乗船場に着くことができた。
親切にキンデルダイクへの行き方と時間が図示されている。
14時2分、水上バス出発。
水上バスと渡し船の往復賃、キンデルダイク風車博物館入場料込みで、12.5ユーロ。
「クレジットカード不可の現金決済」らしく、貴重なcashはこうして費消されていった。
残金、なんと20ユーロ。
渡し船に乗り換える。
14時45分、キンデルダイクの波止場に着いた。
■キンデルダイク!
波止場から一本道を歩くと住宅地。だが確かにここを抜けるようだ。
少し歩くと、民家の間に10基程度の風車が遠方に見えてきた。思わず感動。
これぞオランダってイメージのWatermill 風車が19基。
驚いたことに、そのほとんどがきちんと廻っているのだ。
しかも干拓時代から現存するものなので、世界遺産に登録されたのも納得だ。
受付を済ませ、さっそく歩く。
風車博物館はすぐそこだ
遠景では気付きにくいが、目の前で見ると、その巨大な姿にまず注目だ。そして、回転する羽の速度と風切音に驚く。
木製の風車は精緻かつダイナミックで、正直、このような構造物を作り上げた人類の英知には感動せざるを得ない。
内部に入る。リビングルーム、極小スペースのベッド、キッチン等、住居として機能してもいたんだな。
風車博物館の内部から外を眺める。
基部では実際に排水する様子を見ることもできる。
トラブルあったが、来て良かった!
このキンデルダイク村は風車だけでなく、周囲も洗練されたカントリー風の住居が多く、日本の中流家庭のセンスアップに参考になると思う。
素晴らしい庭園を持つ80平米くらいの一軒家には感心させられた。(個人宅なので写真はやめておいた。)
17時10分、渡し船の「最終便」で帰路につく。危ない、危ない。
18時10分、ロッテルダム港に戻る。
■ロッテルダム港
ロッテルダムは現代都市。あまり観光の対象にはならないと思うが、昔、海運・検定に関する仕事に従事していた亡き父より「世界で最も重要な貿易港のひとつ」と聞かされたことを思い出し、今回の旅行で「自分の目で視る」ことに決めていたのです。
■ロッテルダム市街
ロッテルダム市街の建築デザインは面白い。
黄色い変なキューブはマンションで、居住者もいるそうな。
・手前が市庁舎、奥に世界貿易センタービル
・市庁舎
・世界貿易センタービル
18時40分にロッテルダム駅に到着。本当、最初から歩けば良かったと思う。
■お金がない!
18時52分にRotterdam Central stationを出発、20時3分にAmsterdam Central station到着。
電車代金は15.5ユーロ。
残金を確認すると……1.15ユーロって!
こんな危ない旅行は生まれて初めてだ。
アムステルダム中央駅のATMで50ユーロを借り出した。これで一安心。
アンネフランクの家に立ち寄ったが、200人以上のチケット待ちを見て断念した。
歩いて、うろついて、21時5分にホテルへ戻る。
よくよく考えると、朝食以降、何も飲んでいないし食べていない。
ひどい旅だな。
夕食は豪華ルームサービスにした。
■2014年8月17日(日)、最終日
朝食兼昼食のビュッフェ。カフェ・アメリカンともお別れだ。
また、カフェラテとエスプレッソを間違えてしまった……。
さて、午前をどう過ごすかな?
前日まではゴッホミュージアム鑑賞の予定だったが、もう一度「夜警」を観たくなったので国立ミュージアムへ。
他の絵画も含め、足元に注目。
伊達男は、やはり足元も洗練されているなぁ。
良いなぁ!
3階の「栄光の間」で90分を過ごし、満喫。
11時45分、チェックアウト
結局、このAmsterdam American Hotelでは僕以外の日本人を見ることがなかった。この環境が旅行気分を盛り上げてくれるのだ。
12時40分、スキポール空港着。
お土産はデルフト焼きの宝石箱にした。
15時35分、take off! さらば、アムステルダム!
機内では映画『グランド・ブダペスト・ホテル』を鑑賞。舞台はウィーンともろわかりだな。
なんでブダペストなのかはともかく、良作だ。
9時20分、無事に帰国できた。
■Dank u wel!
拙い弾丸旅行記に付き合っていただき、ありがとうございました。
<了>
男ひとり旅の美学 2014年8月 アムステルダムとオランダ風車 その2
2014年8月15日(金) 二日目、曇り
朝食はカフェ・アメリカンで。美味で大変よろしい。
8時52分に国立ミュージアムに並ぶ。チケット保持者側の列は50人近く並んでいる。僕はチケットレスの列に並ぶが、意外なことに前から7人目だ。大混雑を予想していたが……(10時以降は大混雑)。
チケットを購い、"場所"を聞き出し、一気に階段を上るのだ。
■Night Watch 夜警!
これだ、この絵画を観に来たんだよ。
Rembrandt Harmensz van Rijn 「The NIGHT WATCH」1642年
Captain Frans Banninck Cocq黒服の大尉とLieutenant Willem van Ruytenburch金色の服の中尉。
この二人を中心にcivic guard市民自警団が集う、この巨大な物語を観に来たんだよ。
・Captainの後方に輝く若い女性はSaskia、すなわち1642年に亡くなった、レンブラントの妻か。
・人物ひとりひとりのポーズと表情と仕草が異なり、衣服のマテリアルの表現もそれぞれに違う。いったい何種類を描き分けているのやら。
・中尉の足のあたりを1975年にunbalanced man(優しい表現)がダメージを与え、修復したそうな。ひどいぞ。
ところで、朝一番に入り、一目散に「夜警」の部屋に来て正解だった。
9時30分にはもう人だかり、10時には大混雑となった。絵の前に70人はいるだろうと思われる。
1Fの踊り場にある小カフェで休憩。初めてストロープワッフルなるものを口にした。甘くて美味。ラテと合わせて4ユーロ。
外は大雨、にわか雨か。
■国立ミュージアム
「ワーテルロー」は夜警と並ぶここの目玉作品だ。
いささか、ウェリントンをヒーローに仕立てすぎ。
タイトルも作者もメモし忘れたが、この音楽一家が良いな。
デルフト焼きに見る東洋のイメージ。なんか酷いな。
オランダ植民地コーナーにあった長崎の出島。ジャワのように日本を攻略できなかったのは、それは残念でした。
バタヴィア産の小判なんてのもありました。
フェルメールの牛乳女にラヴ・レター。
個人的にはこの「The Merry Family」が気に入った。赤ちゃんの表情が二重丸。
■アムステルダム博物館
15時55分より入館。11ユーロは高いなぁ。
先史時代から現代までのアムステルダムの発展の歴史が事細かに紹介されている。
・水との闘いの歴史。
・1421年と1453年に大火事が発生し、そのために木造からレンガ造りへと街を大改造したとある。
・1394年にcivic guard charter が締結された。
17世紀の栄華と、その後の没落の激しさよ。
1780年代にフランスに占領され、王国として復活した際には、イギリスの船が入港しないので、ウルトラリッチから極貧国に転落した、と。
そこから遅き産業革命を経て、見事に復活したとある。
ひどいな。オリンピック史上も、世界史上も、日本が「存在しない」ことにされているぞ。どこの差し金かな?
オンデマンド・ビデオは日本語OKなのは嬉しいが、待ち時間が多くなるのは宜しくない。
あと、同性同士の結婚を世界で最初に合法化したことを誇らしげに解説されてもなぁ……。
■市街を散策
・自転車専用車線に専用信号
歩道通行禁止なんて、これぐらい用意しないと無理でしょう。
・レンブラント広場
ガイドブックによると、夜警の登場人物たちがレンブラントを取り囲んでいるそうな。
この日はレンブラントの像しかなかった。残念。
・ペー・セー・ホーフト通り
国立ミュージアム近くのハイブランドの集う繁華街。でも、パリやロンドンに比べると……。失礼ながら、地方都市の"なんとか銀座"って感じがする。
・9ストラーチェス
確かに、他の地区よりはセンスが好さそう。
■犯罪未遂事案、発生です
西教会を曲がってアール・ヌーヴォー・スタイルのショッピング・アーケードへ。
「えっ、これだけ?」
期待させておいて、これはない。
こんなもん、ガイドブックにわざわざ掲載すんな。
で、そこから北上してホテルに戻る途中、「道を教えて」と中年男がやってきた。
「どこ出身?」「ツーリストか?」怪しいぞ。
そこへ新たに二人連れの男が現われ、EUマークの身分証のようなものを提示し「パスポートを見せろ」ときた!
アホかい! もう周知のスリ手法として拡がっているから、やめておけばいいのに。
「No,Thank you」で突っぱねて去った。3人ともアラブ系かな?
あぁ、英語をまともに話せれば、他に言いようもあったのに。
で、方向音痴ぶりを発揮して、ムント広場まで歩いてしまった。
19時10分にホテルに戻り、洗顔&小休止。
再出発し、今宵のコンサート会場へ。
■HET CONCERTGEBOUW コンセルトヘボウ
純粋なコンサートホール。その外観、内装とも雰囲気を盛り上げてくれる。
今宵のプログラムは、
Joshua Weilerstein 指揮、
Jean-Efflam Bavouzet ピアノ、
Nederlands Philharmonisch Orkestによる
・バーンスタイン
・ベートーヴェン
・ドボルザーク
とある。
「Uit de Nieuwe Wereld 新世界より」が楽しみだな
チケットは当日朝にインターネットで購入したのだ。残り3席だから焦った。
Grote Zaal 大ホールの前より中央付近、10列目22番で42ユーロ。安い。
さてさてさて。肝心の演奏は……。
1曲目終了後、ステージの中央に華々しくピアノがせり上がり、ゲストのピアニストが登壇。ここまでは良かったが、どうやら調律に狂いがあるようで、素人耳にもおかしいのがわかる。ピアニストも戸惑いを隠せなかったようだ。
3曲目は「新世界より」の途中でPA機材のハウリングノイズが発生し、指揮者も困っていた。そのせいか、演奏にも数か所のミスが発生し、指揮者が頭を下げるハメに陥った……。
最後は無事拍手で終えたが、結構な数の観客はスタンディングしなかったな。
ん、少し残念。
21時50分に終了。22時20分ごろホテルに戻る。
続きます。
男ひとり旅の美学 2014年8月 アムステルダムとオランダ風車 その1
オランダはアムステルダムと、風車の景観で有名なキンデルダイク村、国際港ロッテルダムを散歩してきた。
1週間前に思いついた3泊5日の弾丸旅行を決行したのだが、準備不足がどのような事態を招くのかを痛感させられた。まぁ、それを包括しての旅の楽しさではあるのだが。
【参考データ】
往路便
2014年8月14日 関西空港10時35分発KL868便、アムステルダム行き
復路便
2014年8月17日 スキポール空港14時55分発KL867便、関西空港行
アムステルダム宿泊先:Amsterdam American Hotel(3泊)
■2014年8月14日(木) 1万2千円での出国
旅ノートの記述に用いるシャープペンシルを忘れたが、これはどうってことはない。
空港で機内預け荷物をドロップインし、外貨両替所に向かった際の
「財布に1万2千円しかない」
ことに気付いたときの絶望感なんて…。とりあえず80ユーロに両替し、9時に出国。
KL868便は777-200。エコノミーコンフォートの最前列は足元が広く快適。窓側なのでさらに良し。
10時53分に離陸し、わずか2分で雲の上。11時間50分のフライトが始まった。
気流が激しく揺れもひどいが、雲の海の上を航行する気分はすがすがしい。
翼の大きく上下に揺れる様子を見るのは、あまり嬉しくはないが。
昼食後、二日前に届いたガイドブックを開き、観光プランを練る。
アムステルダムが拠点。風車を観るのはキンデルダイクか、ザールセ・スカンスか?
結局、ロッテルダム港の観光を兼ねて、昔からの風車が19基も並ぶキンデルダイクを選択した。
・シベリア上空から地表を見下ろしつつ、水樹奈々『深愛』を久しぶりに聴いた。
数年前にはスマホのウォークマンアプリなんてなかったな。ICTの進歩に感謝。
・実写映画『魔女の宅急便』を鑑賞。良いかも。
「あたしには、そういうの全部、魔法に見える」
「また飛べるよ」
「やめるなよ」
トンボ少年がスケールを上げる物語でもあるんだな。
19時15分、強烈に機体が揺れた。数メートル急下降したような感じで、数か所で声が上がった。
7月のフライトもそうだったが、この季節は揺れやすいのかな?
現地時間15時にランディング。ほとんど衝撃のない見事な着地だった。KLMパイロットと整備員の腕に拍手。
15時40分にオランダ入国。シャトルバスのチケットを購入。往復27ユーロ。
チケットカウンターの場所は少しわかりにくかった(arrival A4の端っこ)。
■アムステルダム・アメリカンホテル
"Amsterdam American Hotel"に到着。17時にチェックイン。
ここはpen誌2009年4月1日号の「いまこそ知りたい アール・ヌーヴォー」特集号で知った。
オランダ式アール・ヌーヴォー「ニューエ・クンスト」様式の1902年に建築されたホテルだ。
国の文化財でもあるらしい。
設備も雰囲気も良好。気に入った。
1階の「カフェ・アメリカン」はアール・ヌーヴォー内装のカフェ・レストランで、ここを目当てにアムステルダムを訪れる人も多いとか。
僕は1920年代に空想を漂わせながらディナーを1回、朝食を3回、ここでいただくこととなった。
■運河をボートで巡るのだ
アムステルダム・アメリカンホテルはライツェ広場にある。ここを観光拠点に、まずは国立ミュージアムまで歩いて距離感を確認した。
18時35分運河巡りのボートに乗り込んだ。
国立ミュージアムの西に乗り場のあるBlue BoatのCity Canal Cruise、15ユーロ。
日本語を含む16か国の音声ガイドあり。ありがたい。
ライツェ運河からプリンセン運河を経てヨルダン地区へ。
「16世紀までは木造。17世紀の大火事の経験から街全体がレンガ造りにシフト」し、現在に至るという。
青い宝冠をいただく西教会~アンネ・フランクの家~ヘーレン運河。
「運河の水は昔は澄んでいて、ビール醸造にも用いられていた」そうな。
特徴あるアムステルダムの街並みを気楽に楽しめる。
それにしても運河は狭い。ボート・パイロットの超絶操縦テクニックには脱帽だ。
「アムステルダムは運河の街ではあるが、橋の街でもある。市内の橋の数は1300を超える。水門は16か所」
シンゲル運河の信号機、確認鏡、水門。なるほど、水の路らしい。
アムステルダム中央駅の北側へ向けると、そこは内海だ。
対岸の新興街の近代的さは、歴史的地区と好対照をなす。
海洋博物館
マヘレのハネ橋を船内から見上げる。わかりにくいな。
「アムステルダムは教会や王のためでなく、市民のための街である」
「建物の三分の一は以上が19世紀以前に建てられたもの」
シンゲル運河にはハウスボートが多いな。とてもリッチな暮らしぶりには見えないが。
19時45分に下船。おおよその地理感をつかむことができたぞ。
■アムステルダム中央駅
ライツェ広場からアムステルダム中央駅まで歩く。
王宮は歴史を感じさせてくれる
ダム広場
駅前はこんな感じ
アムステルダム中央駅。東京駅のモデルとされたそうで、確かに雰囲気は似ている。
塔に時計ではなく風向計が配置されているところにオランダらしさが顕れている。
アムステルダム中央駅前広場からライツェ広場までトラム2番に乗る。楽ちん!
乗車券は区間ではなく時間別料金で、1時間有効券だと2.8ユーロか。
トラムは素晴らしい都市交通システムだが、この狭い道を歩行者スレスレに通るんだな。
自動車道、自転車道、電車軌道、歩道が一緒くたになったアムステルダムの古い道。
何度かLRTと自転車に轢かれそうになった。危ない、危ない。
ホテルに戻って休む。
街中は煙草か、それに類する「何か」のキツイ匂いが充満していて、服にも頭髪にも付着してしまった。
こればかりはイヤな感じだ
1階のカフェ・アメリカンに乗り込んで、ひとりディナー。
赤白ワインとオニオンスープ、サーロインステーキ、ニューヨークチーズケーキとコーヒー。
料理は美味だが安ワインはいまいち。63ユーロ。
外はにわか雨。
バスルームはシャワーの湯の出がいまいちだが、あとは快適でパーフェクトなホテルだ。
続く。
男ひとり旅の美学 2014年7月 パリとプラハ その9
■JAPONISME in Czech Art ジャポニスムのいまむかし
プラハ城に隣接するNarodni galerie 国立美術館(ナショナル・ギャラリー)で「チェコにおけるジャポニズム展」が開催されていることを偶然に知った。
16:00に入館、100Kc。入口がわかりにくいな。
パンフレットによると、展示物はすべてチェコ国内のもの。1880年代から1930年代にかけてのチェコの視覚芸術に対し、日本がどのような影響を与えたかを紹介し、当時チェコで行われた日本に関する展覧会も紹介するとある。
・ジャポネズリーの波
1888年、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のリソグラフ。
貿易商メゾン・スタニェクの娘さん、『Emanuel Stanek エマヌエル・スタニェク』嬢に和服を着せ、当方の幅広い物産を扱っていることをアピールしたものだろうか。
同じく貿易商メゾン・スタニェクのカタログ(1910年)。葛飾北斎の『絵本孝経』(1849年)とそっくりだ。
・ヨーロッパが観た日本・芸術への直接の影響
幅広く日本芸術を紹介し、自身も来日したことのあるEmil Orlik エミル・オルリクの作品『Akt 裸体画』(1904年)にリソグラフ『Japon album日本のアルバム』(1901年)
Karel Simunek カレル・シムーネクのポスター『Panorama Gea パノラマ・ゲア』(1899年)
・ジャポニズムの表現方法と芸術、モダニズム
1890年代にアール・ヌーヴーがチェコにも押し寄せる。日本デザインはモダン表現の格好の手本とされた。
これは卍つなぎのモチーフ。雑誌「自由な志向」表紙デザイン
・憧れの日本
「詩的な日本崇拝」の第一人者であった作家、ホロウハは文学作品『嵐の桜』を発表している。
そのホロウハが1908年のプラハ記念工業博覧会内に開店し、1924年までプラハ市内で営業の続けられた和風カフェ「横濱」を描いたリソグラフ作品が気に入った。
浮世絵をベースに製作された蔵書票の数々
・収集家と日本芸術展・芸術家たちの反応
1913年のプラハ日本木版画展によって、現代芸術家の間で日本芸術・美学の認知度が高まったとある。
1911年の『古き時代の日本展』のポスターが良いな。
・ジャポネズリーの新しい波・空想か現実か
こちらは1920年代に開業したホテル・レストラン「櫻」。もはや現実の日本から離れ、空想かつ理想のジャポニスムが追及されていったことがわかる。
映画『心優しいヴァレンティン』(1942年)に登場するそうで、一度観てみたいな。
うーん。堪能した! 図録も購入したぞ。250Kc
■で、現在のジャポニスムといえば……
ヴァーツラフ広場近郊の書店にディスプレイされていた1冊の本、これが
MADE IN JAPAN, ESEJE O SOUCASNE JAPONSKE POPKULTURE
だ。
現代日本のアートデザインからはじまり、オタク文化、MANGA、ANIME、日本映画、キティまで。
・MANGAは、The Japan Punch(1884年)からサザエさん、アタックNo.1、大島弓子、島耕作、美味しんぼ、少年ジャンプ等がチェコ語(読めない)で解説される。
・ANIMEは偏った写真ばかりで、面白くない。
・VIDEOHRYが本書の中心に据えられているように思われる。ゲーム、ガンダム、ポケモン。内容が少し古いかも。
・FILMはやはり、KITANOなんだな。
黒沢明はチェコ語でAkiry Kurosawyと書くのか。
巻末の用語解説が面白い。
JAKUZA FILMY(高倉健)、J-POP、JONKOMA MANGA(4コマまんが)、KARAOKEはともかく、
FAN SERVICE、FUDZOSI(腐女子)、GACAPON(ガチャポン)、HIKIKOMORIって、どこまで。。。
94ページのガンダム(実物大のお台場ガンダム)を紹介する記事に「robota」と書いてある。
そう言えば、ロボットの語源「robota ロボタ」はチェコ語だったな。
ガンダムとプラハが深く結びついたことを感慨深く思い、旅の記録を終えることにする。
駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
< La Fin >
きことわ 朝吹真理子 [読書記]
敗北を抱きしめて ジョン・ダワー [読書記]
破壊された人生。戦後のアイデンティティ・クライシスの時代にありながら、瓦礫の中からすべてをやり直した祖父と祖母の世代の偉大さがよくわかる。
本書は、アメリカ人日本研究者による帝国日本から戦後日本への変遷を考察した大書。なるほど、外部からみると、その姿があからさまにされるのだな。
■日本国憲法の「国民の統合」は、明治憲法の「家族国家イデオロギー」の言い換えであり、よって日本国の本質は変わらない。「国民」に異民族は含まれず、「血統」に基づく強固なナショナリズムを象徴するのが天皇であることに変わりはない。(下巻p5)
なるほど、これが日本人大多数のアイデンティティの根拠でもあるのか。
・9章から11章にかけて、昭和天皇の戦争責任をいかに「なかったことにするか」にGHQと日本政府が腐心したかが追跡される。
国家の最高位にある政治的・精神的指導者が何の責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが反省などするのだろうか。(下巻p4)
政府は「一億総懺悔」と責任転嫁を唱え、戦争責任の追及は矛先をそらされた。
・一方で、日本人の戦争責任は十分に果たされたとすることもできる。東京をはじめとする大都市への民間人無差別爆撃と原子爆弾による虐殺行為。そうではなくていったい何なのか。
「全ての歴史のなかでもっとも無情かつ野蛮な非戦闘員殺戮行為のひとつ」であり、人種戦争を終わらせるべき(下巻p16)と米軍准将が内部覚書に描いたとされる通りだろう。
悲しいかな、この人種戦争の構図は、21世紀に入ってもやむことはないのだ。無人機による民間人爆撃という形でいまも続いている。いずれ欧米にとって「イスラム国」以上の脅威が出現するのは間違いないだろう。
・憲法の改正。当時、政府はポツダム宣言やGHQの要求に対し、明治憲法を民主的に「解釈」することで対応できると考えていたそうな(下巻p116)。憲法の解釈でどんなことにも対応できる。ん、最近もどこかで聞いたような話だな。
しかし、この曖昧かつ頑迷な日本政府の態度が、マッカーサーに「三原則」なるガイドラインを構想させ、これが戦後憲法の土台となるとは実に皮肉だ。
1)天皇は国家元首ではあるが、職務と「機能」は憲法に示される国民の基本的合意に応じるものとされる。
2)国の主権としての戦争は廃止され、防衛と保護をより崇高な理想に委ねる。よって日本には「あらゆる」交戦権も与えられない。
3)皇室を除き、華族の地位は廃止され、封建制度は役割を終える。
なるほど、九条のベースがここにあるな。
野心的かつ意欲的。世界中に類を見ないほど民主的な憲法。
パリ不戦条約をモデルとした戦争放棄条項が明記されるも、周到なのは、後日の日本再武装に備えて、わざと曖昧さを含ませた件だろう。(下巻p143)
GHQ民生局によって作成された草案が日本の手にかかり、周到に改変されてゆく様は面白い。peopleはアメリカ的な「人民」から明治憲法の特色を残す「国民」に変遷し、これが現在まで続くことになるのか。(p162)
■かつて、東京・銀座や大阪・梅田を闊歩したモダンガールが「若さを失い、知性を失い、その日一日を育るためにすべてを失っている」(上巻p112)様子は悲痛だ。
人生設計は破壊され、敗北の文化を生き抜くこと。僕の祖父や祖母もこのような生活を強いられたかと思うといたたまれない。
■米兵向け売春施設のおぞましさ。19歳の元タイピストが自殺した心中は痛々しい(上巻p154)。
■「裁判」を著す15章と16章の読むのが辛い。東京裁判だけでなく、戦後、アジア各地で行われたBC級裁判はひどすぎる。
東京裁判にしても米軍高官をして「自分の国や戦時政府に対する義務を遂行した人間を裁くのは間違っている」と言わせるほどの酷さ(下巻p265)。
勝てば官軍の過酷な現実。「数十万人の陸海軍人や民間人が海外であっさりと消えて」(上巻p48)しまった事実や、下巻p286からp290に至る「不公正」な裁判の現実は、怒りすら抱かせるものだ。
「核の傘」の下での再軍備。「日本全土にわたって米軍の基地と施設を引き続き維持しなければ」ならない(p409)のであり、これが2014年現在まで、否、半永久的に続くのだとすれば、敗戦の代償の巨大さに悲嘆せざるをえない。
ネットとグローバル化の波に洗われ、個人のアイデンティティや個性を保つのも大変な時代だ。
平和と民主主義。いまや日本人の心情とも言える、この崇高な理想主義に恥じない生き方をしたいと思う。
EMBRACING DEFEAT
Japan in the Wake of World War Ⅱ
敗北を抱きしめて(上) 第二次世界大戦後の日本人
著者:John W.Dower、三浦陽一・高杉忠明(訳)、岩波書店・2001年3月発行
2014年11月10日読了
敗北を抱きしめて(下) 第二次世界大戦後の日本人
著者:John W.Dower、三浦陽一・高杉忠明・田代泰子(訳)、岩波書店・2001年5月発行
2014年11月24日読了