英国留学への旅の途上、33歳の漱石はパリ・リヨン駅へ初めて降り立った。時に1900年10月21日、目的はただ一つ、パリ万国博覧会をその目で観ることにある。
本書は、漱石の日誌や書簡、同時代の滞欧日本人の遺した記録を題材に、世紀末ベル・エポックのパリと史上最大規模のパリ万博、そして外部から見た見た明治33年の日本の姿を見事に活写する。
・オスマン大改造後の整然とした巨大建築の街並みと、シャンゼリゼ大通りをはじめ、二万台近い四輪辻馬車が疾走する舗装街路を目の当たりにした漱石の驚きようは、現代日本人の比ではなかった。
・本書の特徴。それは、まるで漱石に同行してきたかのような詳細な記録にある。到着第一夜の行動から二日目午前の日本大使館への訪問、そして午後のさっそくの万博見物。ミュージックホールでの観劇と深夜3時までのカフェ体験。開通したてのメトロ搭乗、日本国の出品物を含む万博展示品の品定め、子規の知人である画家宅の訪問、外交官との会食。そしてエレベータを経由しての「エフエル塔」展望台への登頂(p46)。何もかも刺激的だったに違いない。
・万博会場を巡るは楽し。1989年万博のエッフェル塔に対し、「動く遊歩道」が1900年万博の目玉でも会った。四か所の会場を連絡する実に全長3,500メートルの動力歩道は、のべ5,000万人(p43)を超えた入場者を楽しませたことだろう。そして帝国の規模を誇るは数多くのパビリオン。機械技術を誇示する本館に新技術の電気館、文化の爛熟を示す工芸館には、日本の美術品もあった。
・各国パビリオンの一つである日本館はなんと、アジア・アフリカ植民地コーナーに設けられ、関係者の憤慨を招いたそうな。
・民間企業のパビリオンである日本茶屋や、会場内のロイ・フラー劇場で貞奴Sada Yacco旋風を連日巻き起こした川上音二郎一座の公演は、日本のイメージ高揚に大いに貢献したことだろう(p142)。だが現代と同じ官尊民卑の精神よろしく、これらの「下卑た催し」は日本政府の記録では大きく扱われていない。
・日本の出展は西陣織や友禅などの織物と陶磁器などの美術工芸品に偏っている。15人がグランプリを受賞(p124)するなど、注目と高い評価を受けたのだが、万国博のメインストリームである重化学工業製品の出展は皆無であり(p122)、富国強兵に努めてきた日本政府としては忸怩たる思いだったろう。
・世紀末の花の都へ7泊の滞在。だが漱石の行動範囲は16区とエッフェル塔を含む万博会場に限定されていたようで、ルーブル美術館もノートルダム寺院もオペラ・ガルニエも訪れていない。最初にして最後の偏ったパリ訪問だったが「正真正銘の世紀末の空気を吸った」(p82)彼に悔いはなかったろう。
1900年万博会場図(p41)や当時の16区の地図(p89)は、漱石の足跡を巡るうえで大いに参考になると思う。
それにしても歴史のパリ。著者の探訪記と当時の写真により、漱石が目にした都市景観が現在もその姿を変えていないことが示される(p23,33,90,179)。漱石が深夜まで楽しんだ2件のミュージックホールは現在も営業中だ(p72)。115年後の追体験に愉しみは尽きない。
漱石のパリ日記 ベル・エポックの一週間
著者:山本順二、彩流社・2013年12月発行
2015年10月28日読了
2015年10月
長いお別れ レイモンド・チャンドラー [読書記]
フィリップ・マーロウ42歳の格好良さは群を抜いている。ライセンスを与えられた私立探偵請負人であり、殺しの経験を問われて躊躇せずに「ある」と応える、その覚悟のほどよ。
「スカッチをストレートで」(p422)
バーに自然に溶け込む振る舞い方は、ぜひ見習いたい。
偶然から知古となった浮浪者然の男、テリー・レノックスとの短い交誼を経て、突如殺人容疑者となった彼の国外逃亡を何も言わずに扶助するマーロウ。警察による「体に問う」尋問にも耐え、退屈な留置所暮らしは、しかし突如打ち切られる。
なかったことにされる殺人事件を横目に、新しい依頼に従事するマーロウだったが、テリー・レノックスを想う彼を、絡みに絡まった運命の糸がある終着点へ導いてゆく。
・第二次世界大戦の記憶も新しい1950年代のアメリカ。古き良き時代の新聞記者、大富豪、独特の保安官システム、検事、地方マフィアと多彩な登場人物。カリフォルニア州が舞台だけあって、南米諸国出身者の登場人物も多い。
・世界最強の大国となった祖国、民主主義国家アメリカの文明への批判の件は痛快だ(p322,p496)。この偽善的な社会システムがそのまま現代日本の姿でもあり、どう対峙するかを問われるな。
・イギリス海軍機動部隊の突撃、ナチスによる捕虜虐待、男3人の友情。そして「とるにたりない嘘」と「自分だけの思い出」(p421)が、ある女を極限にまで駆り立てる。
・しびれるシチュエーションと含蓄に富んだセリフの数々に酔いしれること幾たび。
濃い、苦いコーヒーは「疲れた人間には血になるのだ」(p447)
「正直にいおう」と、私はいった。「そんな考えもなかったわけじゃない」(p505)
正しいことをしようとして夢中になること(p481)、それを信念と呼ぶ。
530ページを経たラストシーンはやはり印象深い。本当のさよならは「もう言ってしまったんだ」。
男の眼に光る涙は、ギムレットの味がするのだ。
THE LONG GOODBYE
長いお別れ
著者:Raymond Chandler、清水俊二(訳)、早川書房・1976年4月発行
2015年10月25日読了
浅草十二階 細馬宏通 [読書記]
かつて東京の一大名所であり、文明開化に沸く明治を象徴した浅草十二階=凌雲閣。
本書は、展望階からの「眺望」と「パノラマ」に田山花袋、石川啄木ら文芸人の作品を交えて深い考察を加えつつ、明治・大正期の文化の一断面を読み解いてゆく。
・レンガ造り10階の上に2階の木造展望台を有する52メートルの高楼。本書口絵の『新撰東京名所図会』を眺めると、当時の東京では確かにこの"尖塔"は突き抜けている。大池に映る姿はさぞ魅力的だったであろう。そして、あの"吉原"を見下ろせるところに、この高楼の"重要な付加価値"の顕れることが、本文の随所に示される。
・下足番に履物をあずけて日本初、いや、まだ世界的にも珍しい最新の"電動式エレペートル"に揺籃されて一気に8階まで駆け上る(p41)。近くは浅草や上野のみならず、宮城を中枢とする東京全市を見下ろし、果ては富士山や筑波山まで見渡せる素晴らしき眺望となる(p48)。
・故障続きのエレベーターは開業半年で操業停止に追い込まれ、観客に階段を昇らせる次の手が「百美人」だ。このアイデアが帝大工科大講師にして凌雲閣設計者、バルトンの写真趣味によるものであり、日本写真界の先達である小川一眞(千円札の漱石の写真撮影者)との交誼によるところは興味深い(p82,94)。
・当時の広く開けた東京では、眼下に手が届くほどの「適切な低さ」は、ある効果=天然のパノラマ的な眺望をもたらした(p14)。パノラマ、この「奥行きを生み出す体験」(p106)についての深い考察が森鴎外、田山花袋、石川啄木、江戸川乱歩、ベンヤミン、吉井勇らの作品を参照しながら第4章から第12章まで展開され、本書の大きな特徴をなしている。
パノラマに関連し
「日清戦争は当時求められていた『他国によってまなざされた日本』を、メディアによって顕そうとする戦争でもあったのだ」(p152)
との記述は合点がゆく。そして現在もそれは変わらないし、独善的愚行に陥らないためにも必要かつ重要なことだと思う。
明治20年代の観光界を席巻した凌雲閣も次第に飽きられ、活動写真や浅草オペラが流行した明治40年代には閑古鳥が鳴き、その役目はもっぱら広告塔となる。末期には利用価値もなく、もっぱら催し場としてのみ機能していた。そこへ大正12年の9月の関東大震災である。8階よりポキリと折れた残骸が陸軍工兵隊によって完全破壊される様子は、がぜん、群衆の注目を浴びる。最期になって、忘れられていた「眺められる」感覚の呼び戻されたことは、塔にとって感慨深いことであったろう。
浅草十二階 塔の眺めと<近代>のまなざし
著者:細馬宏通、青土社・2011年9月発行
2015年10月12日読了
近代化の旗手、鉄道 堤一郎 [読書記]
明治期に先進国イギリスから導入し、徐々に技術力を磨き国産化比率を上げ、ついには新幹線システムを玉成させ、鉄道輸出国としての不動の地位を得た日本の鉄道業界。
本書は、総合技術システムとしての鉄道を、主に車両を中心として技術史の観点から概観するとともに、日本各地に置かれた鉄道遺産について紹介する。
・明治から昭和・平成までを大きく鉄道開業期、自立期、充実期、発展期に分けて、時代の政治・社会情勢を俯瞰しつつ、鉄道技術の発展する過程が示される。
・神戸~下関間の山陽鉄道(山陽本線)は高速運転を前提として敷設された私鉄だったのか(p30)。兵庫の鉄道工場が廃止されたのは地元民として寂しい限り。
・技術者はイギリス人から日本人に、機関車の技術導入はイギリスからドイツに移り、国産化に至る。鉄道院の果たした役割の大きさとその適切さがよくわかる。
・線路の規格(狭軌、標準軌、広軌)、機関車の規格(前輪・動輪・後輪の数を1B、1C2、2D2等で表記)、客貨車のシャーシの規格は勉強になった。
・東京発の「超高速鉄道」(朝鮮半島を経由し北京まで!)は大正時代から計画・準備されていたのか。これが戦前昭和の弾丸列車計画となり、現在の新幹線につながることを思うと感無量だ。
・汽車製造会社、川崎重工(川崎造船所・川崎車輌)、日本車輌製造、雨宮鉄工所、丸山車輌などの民間鉄道車両製造会社の紹介も嬉しい(p48~)。
・幹線鉄道はともかく、都市鉄道・地方鉄道の発展が、従来型交通網(路面電車、水路船舶)を衰退に追い込んだとある。やむを得ないか。
・D51型蒸気機関車は、戦前に1115両も製作されたのか(p79)。
・島安二郎、島秀雄親子の日本鉄道史に遺した業績は、もっと伝えられるべきだろう(p94、p98)。
・5刷に伴い、図表は2009年時点のものに更新されているのは嬉しい。
技術には「携わった人」の思いが込められてる。
「ソフト面での技術とハード面での技術が両輪となり、インタフェース役を担う『人』という車軸で確実に結ばれ、目的地に向かって敷設したレールに従って走るさま」(p3)が、本書から伝わってくる。
輸入技術を必死にかみ砕き、次第に日本独自のものづくりに転化させた先人の努力。今度、交通博物館を訪問する際は、この観点から敬意を払って鑑賞したいと思う。
日本史リブレット59
近代化の旗手、鉄道
著者:堤一郎、山川出版社・2001年5月発行
2015年9月30日読了
三四郎 夏目漱石 [読書記]
漱石全集第五巻附属の解説書に、司馬遼太郎さんによる「『三四郎』の明治像」が掲載されている。そう、首都東京にだけ文明があり、田舎はなお、江戸時代をひきずっている明治41年という時空の中にこそ、現在も読み継がれる奇跡の名作『三四郎』は生まれた。
当時の世相がふんだんに盛り込まれて面白い。バイオリンの流行、女学生の「よくってよ、しらないわ」言葉(当時の大人からは「下品」な物言いと映ったらしい)、三越呉服店、西洋式劇場の萌芽(升席もあり)、西洋軒(上野精養軒)。上空を舞う飛行機・飛行船はまだない(明治43年から)。
鉄道客車のランプは、車外に車夫が上り、天井から吊り下げていたんだな。
多彩な登場人物は誰も魅力的だ。いつしか師と仰ぐ広田先生、同学の友人佐々木与次郎、理学士野々宮宗八(寺田寅彦)、美禰子の親友野々宮よし子、有名画工の原口氏(黒田清輝)。
そして、里見美禰子。
東京大学構内、三四郎池の畔に団扇を持って座る彼女のモデルを黒田清輝『湖畔』に、漱石とわれわれ後世の日本人は観て、思いをシェアすることができる。実に魅力的な女性だ。
「風が女を包んだ。女は秋の中に立っている」(p370 広田先生の引越先で)
「三四郎が半ば感覚を失った眼を鏡のなかに移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立ってゐる。…美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った」(p489 里見宅で)
意識する三四郎。だが、彼女と結ばれることはない。
冒頭、熊本の第五高等学校を卒業して東京へ向かう列車の中で出会った年上の女性。京都で一夜を共にしつつ翌朝、彼女から「あなたはよっぽど度胸の無い方ですね」と言われるところに、彼の性格が凝縮されている。
美禰子に対しても同じこと。菊人形展を抜け出て二人きりになった川辺で、
「迷子の英訳を知っていらしって」(p417)と三四郎に問い、
「stray sheep、stray sheep」と独りごちる美禰子(p419)。
翌日、彼女からもらったハガキにも描かれた「二匹の羊」。このとき三四郎は理解し、行動するべきだったのだ。
明治日本の迷える男と強くなる女。二匹の迷える魂の最後の邂逅。
「四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸る」(p604)
美禰子のハンカチにはヘリオトープ香水。三四郎に選んでもらったヘリオトープ。
美禰子はハンカチを落とす。嘆息を漏らす。
時間をおいてまた読み、近代化する日本と三四郎の青春の追体験を愉しみたい。
三四郎
漱石全集第五巻所収
著者:夏目金之助、岩波書店・1994年2月発行
2015年10月3日読了