日露戦争から凱旋した将兵と出迎えの民衆で沸き返る新橋駅。万歳を連呼される色黒・白髭の老将軍、年老いた母親から「ぶらさがり」の歓迎を受ける若い軍曹、襤褸をまといながらも生きて帰った兵士たちは国の英雄である。
そこに朋友、浩さんの姿はない。旅順の塹壕で戦死した彼を弔うため、男は墓参りへ向かうのだ。そこで見かけた美人の素性につき煩悶するうち、朋友の日記に記された、前線で三度も夢に出た「本郷郵便局で出会った女性」の存在を男は知る。
・いかな偉人、哲人も砲弾の前には無力である。「皺だらけの指を日夜に折り返してぶら下がる日を待ち焦がれていた」(p203) 御母さんの哀しみは、怒りにも転じる。
・漱石が一高・帝大講師時代の小品ではあるが、随所に洗練された表現が光る。特にp209から210にかけての「閑静の興」と淡く消極的な情緒(p215)を示す様は見事だ。
・「古き空、古き銀杏、古き伽藍と古き墳墓が寂寞として存在する間に、美しい若い女が立っている」(p214)等、鮮やかな対照の表現も素晴らしい。
漱石にしては堅強付会、あまりにも都合のよい末尾への導入だし、嫁の扱いが現代的視点からしてあまりにもひどい。それでも、隔世遺伝と恋愛を混淆させたアイデアは素晴らしいし、それがこの作品の魅力を惹きたてている。
趣味の遺伝
漱石全集第二巻所収
著者:夏目金之助、岩波書店・1994年1月発行
2016年8月20日読了
2016年08月
銃 中村文則 [読書記]
『銃』
スリリングな罪と青春の痕跡。背徳感を振り切った人はどのような行動に至るのか、興味深く読み進めることができた。
・拳銃を我が手に収める瞬間、その感情が、抑制された歓喜が伝わってくる(p15)。
・一度でも生き物を撃つと、人はどうバランスを崩すのか。p106以降の「変遷」は不気味でもある。
・そして力の行使は正当化される。「自分の存在を揺るがすような、密度の濃い、恐怖」(p168)
あっても良かったはずの、違う未来(p176) を思うとき、すでに違う種類の人間へと変遷した現実を、主人公が意識することはない。
持て余す力に、逆に使役される悲劇がここにある。
『火』
幼少の火、絶望の十代、破綻した結婚生活、その後の残り火のような人生。
自らの存在を肯定できない生き方。しかし、その確かな存在と悲しさを、淡々と語る女性の、次の選択は、より深い黒なのだろうか。
銃
著者:中村文則、河出書房新社・2012年7月発行
2016年8月13日読了