男ひとり旅の美学

[旅の恥は書き捨て]ってことで。あと、BMWと読書感想文も。

2016年09月

ホームズといえばヴィクトリア時代が思い浮かぶが、『帰還』シリーズでは20世紀初頭を舞台に活躍する探偵の姿も描かれる。すなわち、漱石ロンドン留学の時代である。本書は、世紀の狭間に同時代のロンドンを生きたホームズ(ドイル)と漱石を、ロンドンの地理的条件と当時の社会情勢-ボーア戦争と日露戦争-に着目しつつ、その足跡を辿る。

・自転車ブーム、電気灯、新しい女性像。時代精神のモダニズム(p58)はホームズ物語と漱石の日記にも活き活きと描かれる。日英同盟締結と日本ブームも嬉しい限り(p72)。

・漱石の第二の下宿の存在したカンバーウェルの街、すなわち新旧入り混じった川南の迷宮世界の様子を、漱石の作品・日記とドイルの手による「四つの署名」を絡めて探り出す手腕は素晴らしい(p159)。

・漱石の留学したのはボーア戦争中のロンドン。その情景が大作家の作品に影響を及ぼさないはずがない。『趣味の遺伝』『吾輩は猫である』『三四郎』には日露戦争についての漱石の見解が存分に現れるが、国家主義に踊らされない個人主義を大切にする姿勢は、時代を超えて重要だと思う。

ふたりの異才。「その魂の響き合いが、百年の歳月を超えて、今なおロンドンには谺する」(p229)とある。漱石没後100年の現在、20世紀初頭と21世紀の邂逅を想うのも悪くない。

漱石とホームズのロンドン 文豪と名探偵 百年の物語
著者:多胡吉郎、現代書館・2016年7月発行
2016年9月25日読了

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本の装幀は、偉大なる芸術家によって、美術品として考案されなければならぬ(p21)。1937年の藤田の言葉である。
本書は、1913年よりパリで活動を始めた彼の一側面、国際性と独自性が、美術品としての本のしごとを通じて深く考察される。
図版多数。ヴィジュル面でも愉しめる一冊となっている。

・1920年という未曽有の国際交流の時代(p56)、藤田は「乳白色の下地」と線描が特徴の裸婦表現を確立し、同時期に木版、銅板による雑誌の挿絵、豪華本の装幀・挿絵を手掛ける。複数のフランス人作家のジャポニスム小説をはじめ、「日本昔噺」(p60 1923年)、「日本美術展覧会カタログ」(p58 1929年)など、モノクロ、カラーとも実に魅力的だ。
・アール・デコブームと相まって、テキストとイメージのレイアウトの実に美しいこと!(p80他)
・日本では平凡視される浮世絵や「ゲイシャの唄」も、フランスでは芸術に昇華されるんだな(p94)。

1931年の満州事変と1933年の国際連盟脱退は、ジャポニスムを憧れから脅威の代名詞へと変貌させる(p142)。私的な要因もあり、藤田もまた帰国せざるをえなかった(p142)。だが「本のしごと」の観点からは、婦人誌「婦人之友」、高級グラフ誌「スタイル」「ホーム・ライフ」、豪華本の装幀など、1930年代における東京における印刷メディアでの幅広い活動こそが、パリでの実績にリアリティを持たせ、戦争画の広範な人気の下地を準備することとなる(p229)。

日本とフランスの愛書文化に通じ、装幀を実践した稀有なる存在(p229)とは、正鵠を得ているな。

藤田嗣治 本のしごと
著者:林洋子、集英社・2011年6月発行
2016年9月19日読了

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1841年、トーマス・クック自身の属する禁酒協会メンバーのための日帰り割引鉄道旅行からはじまり、スコットランド、1951年ロンドン万博ツアー、下層中産階級・上層労働者を対象とするパリ万博ツアーへと、その企画は拡大する。欧州大陸、中東、エジプト、果ては富裕層を対象とする世界一周旅行まで手掛ける。
その実績は積み重ねられ、特にインドでの旅行といえば「大英帝国の代理店」トーマスックック社を利用するのがデファクト・スタンダートとまでなる。
(インド・ニューデリー空港のクック社の両替所では良い思いをしなかったが。)

トーマス・クックの編み出した新機軸の数々。
・複数の鉄道会社を利用する団体旅行とオプショナル・ツアー(p33)
・団体旅行のためのガイドブック編纂と発行(p34)
・団体旅行のための積立金(p60 博覧会クラブ)
・イギリス発の旅行雑誌(p64 The Excursionist)
・世界初の修学旅行(p74)
・夜行列車による貸し切りツアー(p74 Moonlight Trip)
・パリへのパック旅行(p88 ロンドンからエディンバラ行きより、パリ行きの方が安価だったとは!)。これにはイギリス人が欧州旅行に旅券を必要としなかった(p124)特権的地位が有効に作用したのはもちろんか。
・エジプト、パレスティナへの100人単位での団体旅行(p138)
・上層中流階級をターゲットにしたホテル・クーポン(p163)

注目したいのはトーマス・クックの信念ともいえる「公共性への奉仕」だ。すなわち、安価な団体旅行による文化的・歴史的遺産や自然へ触れる教育的価値、遠隔地の人々との交流と、世界平和への貢献(p76,115)。
この信念が、ビジネス最優先の後継者=実の息子との確執を生み出したとなれば、哀しいものがあるが、

・ラホールでラドヤード・キップリングの知己を得ていたとは個人的に嬉しい限り(p218)。

・有名曲「フニクリ・フニクラ」がトーマス・クック社の依頼によるナポリ・ベスビアス火山ケーブルカーのテーマソングだったとは(p229)。

貧しい身からイギリス最大級の企業を育て上げたクック。アメリカン・ドリームならぬ「セルフ・ヘルプ」の精神は、われわれを奮い立たせてくれる。生きている限り、僕も人に喜ばれる仕事をしようと思う。

トーマス・クックの旅 近代ツーリズムの誕生
著者:本城靖久、講談社・1996年6月発行
2016年9月17日再読了

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『蒲團』
神戸仕込みのハイカラ女学生、芳子。日露戦争後の東京にあって、その華やかさは周囲の目を惹く。
渠(かれ)、すなわち文学における彼女の師匠となった妻子ある時雄もその色に惑う。師としての威厳を保ちつつ「機会」来たらんことを願う。曖昧な時は過ぎて「機会」は去り、彼女に京都の恋人ができたことを知って独り煩悶する日々が、季節感鮮やかな筆をもって綴られる。
・ツルゲーネフ「その前夜」のエレーナの強い意志と恋に、芳子は自分と同志社の恋人を重ねる。教授しながら恋の眼差しを隠す時雄。苦しい関係は続く。
・疑惑と嫉妬。大學を中退し上京した男に会う芳子。「温情の保護者」として振る舞う時雄の心中は複雑だ。
・娘を神戸女学院へ入学させた理由を、田舎者の虚栄心のためと吐露する父親。それが当世風の恋愛観に染まり、霊と肉を男に許したとあっては帰国を強制せざるを得ない。当時、同様の理由により田舎へと帰国する女学生の多かったことが花袋の筆にみてとれる。

『一兵卒』
終夜働いて翌日は砲火を交え、銃弾をかいくぐり、野戦病院の環境は醜悪。そのために回復を待たずして戦線に復帰した一兵士。脚気を抱え、支那人苦力の押す荷車に乗っては上官に下され、兵営では一合の飯にしかありつけず「しるこ宿」に休息の場を求める始末。
さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力を以て迫る。長大なる自己の影。母と妻子の街故郷への追憶、悲嘆、空想よりも脚気の苦痛に呻き叫ぶ。運命に抗えずこの世を去る苦痛か、それとも解放か。
一個の兵士の哀しみ。

明治の自然主義文学をリードした作家の作品だ。古書店で購入した旧文字遣いの昭和5年版(昭和13年第十二刷)は読み応えがあった。現代的には違和感ある文字も味があって良い。

蒲團・一兵卒
著者:田山花袋、岩波書店・1930年7月発行
2016年9月12日読了

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アフリカの夜の深さ。そしてその闇の深さ。
ジブチ国際空港に治外法権を確立して活動する「派遣海賊対処行動支援隊」の陸自・中央即応集団からなる警衛隊が、思わぬ形でソマリア部族抗争に巻き込まれ、小部族長の娘を護りながらすさまじい死闘を何度も繰り広げる。巻末の解説にある如く、読むことをやめられない冒険活劇だ。

・銃撃はともかく、巨大なナイフで生首を切断される、巨漢黒人に囲まれてなぶり殺されるなど、一般の日本人、そして日本国防衛を想定した自衛官には衝撃的な出来事から逃避行は始まる。

・設定のためとはいえ、冒頭の津久田の姿には違和感を覚えるな。後半では凄腕スナイパーの腕を存分に披露するわけだが、「人を殺すために入隊したわけじゃない」(p80)と二等陸曹に抗弁させるのは無理を感じた。

・「眼窩の奥に土を詰め、長年地中にあって……」(p133)を目の当たりにしての、アスキラの悲痛な叫びは痛々しく、先進国に蹂躙されるアフリカの現実は哀しい。

・確執を抱えた由利と梶原。ラスト直前の陽動作戦は清々しく悲痛だ。中盤の由利の言葉も印象に残った。「おまえも自衛官だろう。だったら勝手に死ぬ自由なんてないと思え」(p180)

・「彼らの痛み」(p193)を知った友永陸曹長の思いは、全日本人に同じ思いを馳せさせるものだろう。そして東アフリカ安定のために政治家の選び取った選択。それはアフリカの未来を築くものだろうか。。。

月村了衛といえば2001年のアニメ「NOIR」の原案・構成・脚本を手掛けた人であり、その作品世界は深く印象に残っている。先進国と第三世界の接触、人間の闇、そして「花」。少々の違和感はともかく、彼の作品に通底する世界観を本作でも存分に楽しめた。


土漠の花
著者:月村了衛、幻冬舎文庫・2016年8月発行
2016年9月8日読了

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シャムリアップのお寺です。


■2016年7月25日(月) ひどい下痢で苦しんで……。

最悪、酷い下痢。熱っぽいし、咳も出てタ○も少々。遠方の観光は不可能と判断し、二度目のアンコール・ワット見物は断念した。
8時起床なるもベッドを出られたのは、なんと11時だ。やはりしんどいぞ。
12時30分にチェックアウトし、キャリー・バッグをコンシェルジェに預ける。

朝食は無し。ホテル内のカフェ・バーへ。ペリエとマンゴージュースが美味しかったが、これはほとんどが外国資本の利益となるのだな、などと余計なことを考える。
グラス2杯の代金は11USD。昨日のトゥクトゥクのドライバーは半日チャーターで18USDだった。
労働力が不当に安くて涙が出そうだ、などとこれも余計なことか。

ホテルにはクロコダイルが生息中。
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さぁ、歩こうか。

■お寺
迷いながら歩いたので、残念ながらお寺の名前がわかりません。
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お線香の形が面白いです。
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■アンコール国立博物館
入り口には客引きのトゥクトゥクがいっぱいだ。
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入場料12USD、展示物は写真撮影禁止ですか……。
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アンコール遺跡から出土した仏像を中心に、カンボジアの歴史がわかる展示が行われていた。
仏像は何百体あるのやら。初期、アンコール王朝期、その後の時代と、仏像のかたちも変遷していったことがわかる。

お土産売り場が充実しており、シルクのスカーフなんて買ってしまった。20USD。

■シェムリアップ市街
街の光景いろいろ。
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う~ん、熱っぽいぞ。ホテルに戻り、またまたマンゴージュースとオレンジジュースを飲む(11USD)。後者は美味しくないが、ここのマンゴージュースは絶品だ! 

17時。ホテルの車で空港へ向かう。17時30分に空港へ到着。15USDは良いのだが、ドライバー=ホテルの従業員が執拗にFriendになれなれとうるさい。教育が必要だな。

■帰国です。

シェムリアップ空港のラウンジへ。白玉ヌードルに紅茶でがまん、がまん。
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19時40分になった。さて、搭乗だな。
って、搭乗券をよく見ると「boarding time 19:20」とある。冷汗&小走り!
そうか、ラウンジの従業員が不思議&心配そうな目で僕を見ていたのは、そうだったのか……。

搭乗ゲートへ着くと3人の係員が安堵&困惑の表情となり、ひとりから「来た、来た、やっと来た」と言われた(ような気がした)。
機内へも小走り。トホホ。

落雷のスコールの中、小型機は20時15分に勇敢に離陸。
お腹の都合により、残念ながら夕食は辞退した。

21時40分にlanding。ここHanoi Noibai airportの職員は高慢ちきな態度だ。後進国の公務員だし仕方ないか。

スカイ・プライオリティ専用ゲートにより、すぐに乗り換え手続きを終え、ベトナム航空のラウンジへ。
紅茶とカップケーキの質素な夕食。周りのアジア人が実に活気がある(=うるさい)。

22時40分に28番ゲートへから搭乗。関空行きVN330は満席だ。
0時5分にtake off。
だめだ、気圧が低下してさらにしんどくなってきた。
朝食は水とパンのみで我慢だ。
咳とタ○は続くし、お腹の調子もとても悪い。

4時30分(6時30分)landing、大阪は雨か。

■サーモグラフィーに捕まる。

順調に帰国のはずが、入国審査場前のサーモグラフィーに熱感知されたようで、別室へ連れてゆかれた。

体温計で検温すると37.6℃。しんどいわけだ。
確かにVN330機内のトイレの鏡を見た際、顔が真赤だったな。

結局、医師の診断によると感染症ではなく、上気管支炎と食中毒の可能性があるとのこと。
前者は放っておくと肺炎になるそうで、投薬治療を奨められた。後者は現地の食べ物にやられたことが明白。消化の良い食べ物にビオフェルミンが有効と。
あと、現地では、淡水の感染症に注意するべきだそうな。

11時に三宮に到着。まぁ、無事に戻ってこられたので良しとせねば。

【今回の旅の教訓】
1.これからは、旅行中の体調管理に気を配ろう。
2.飲食も、歩きもほどほどに。
3.ホテルでゆっくりする時間を確保しよう。

三つの教訓を確認したところで、弾丸旅行記は終わりです。

最後まで拙文にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

< La Fin >

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アンコール・トム

■2016年7月24日(日) 印象的なアンコール・トム!

広大なアンコール・ワットのクメール芸術を堪能し、11時40分より近傍のレストランで昼食とした。
クメール・ビーフのターター・ステーキはビールと合って美味だ。ドライバーはピラフ。二人分22USD。
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12時25分、アンコール・トム遺跡のバイヨンに到着。
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有名な四面仏をまぢかで見る。迫力だ。
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このバイヨンとやら、ガイドブックによると、古代インドの神々の住む「須弥山」を象徴化したものだそうで。独特の宇宙観が感じられる。
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■パブーオン
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頂上はこんな感じ。
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■チャウ・サイ・テボーダ
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■タ・ブローム
これも見たかった。
貴重な遺跡も維持管理しないと、どんどん自然に侵食されてゆく。まぁ、この遺跡はそれが売りなんだが。
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■クメール文化、アプサラ・ダンス・ショー

16時にホテルへ戻り、プールでひと泳ぎ。曇っているから嬉しくない。
ホテル到着時に一緒になった日本人男性と出会ったので、夕食を共にすることとした。
ホテルで目当ての店を予約してもらった。

レストラン「クーレン」はホテルから歩いて10分の場所にある。こりゃ夜道は危険だな。
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18時30分よりビュッフェ・スタイルの夕食を摂り、19時よりショーが始まった。

民族音楽に、村落舞踊に、宮廷舞踊。まぁこんなもんか。
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最後のやつがクメール文化の華と呼ばれる「アプサラの舞踊」なんだな。
う~ん、わかったようでわからないような。外国人が能を鑑賞するようなもんか……。

20時35分に店を出て、対面するショッピングモール「ラッキ・モール」へ。明らかに富裕層向けの店だな。資生堂も入っているし。
書店へ寄ったのだが、面白そうな本はなかった。

ホテルへ戻って、続きます。

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アンコール・ワット。東の裏参道から。


■2016年7月24日(日) 世界遺産、アンコール・ワット!

5時30分起床。曇りだ。
ホテルはコロニアルな雰囲気がとても良い。

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朝食バイキングは良質。また食べ過ぎた。ここでも昨日の二人に出会った。本日は各自別行動となる。
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日焼け止めクリームも虫よけスプレーもOK。
8時8分、ホテル前の「トゥクトゥク」に乗って出発!

途上国のインフラ事情はよく似ている。主要幹線道路を除いて、道路舗装は十分とは言えない。
それでものどかで良い。
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8時25分、チケット売り場へ到着。奮発して3days券を40USD(高い!)で購入したが、明日になってこれが無駄になることが判明する。
水2本で2USD。

8時48分、ついにAnkor Watへ到着した。暑い!
13時にドライバー(ワナ氏)と待ち合わせることにして、観光開始。

西参道正面から入る。観光客の多いこと!
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十字テラス、第一回廊をじっくりと観る。
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結構歩いたが、まだ遺跡の中枢にはたどりつけない。
よくこんな寺院を建立できたもんだ。

十字回廊は見どころ多し。
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第二回廊を抜けると中庭(?)へ出る。
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北へ迂回し、第三回廊への上り階段へ。多数のC国人とK国人に囲まれながら待つこと20分、やっと階段に達した。中段からパチリ。
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中央塔は迫力満点
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第三回廊からは周囲を一望できる。
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これがクメール芸術か。
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東の裏参道からは、実は中央祠堂を綺麗に撮影できるのだ。
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第一回廊。
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さすが世界遺産。第一回廊の大量の壁画はどれも迫力がある。
戦争に関するものが多い。
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アンコール・ワットを堪能することができた。
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暑くて広くて実に歩き疲れたが、続きます。

カンボジア・アンコールワットは前から気になっていた。近くて4日で行けるし。
雨季を回避しての12月~3月上旬がベストシーズンのようだが、どうしても行きたくなったので弾丸旅行を敢行した。

旅のテーマは次の二つだ。
■クメール文化に浸り、日常を忘れる
■アンコール遺跡、その特徴あるラテライト建築を目に焼き付ける

【参考データ】
往路便
 2016年7月23日 関西国際空港10時30分発VN321便、ホーチミン行き
 2016年7月23日 ホーチミン・タンソンニャット国際空港16時30分発VN813便、シェムリアップ行き
復路便
 2016年7月25日 シェムリアップ国際空港20時10分発VN838便、ハノイ行き
 2016年7月26日 ハノイ・ノイバイ国際空港0時5分発VN330便、関西国際空港行き

シェムリアップ宿泊先:Victoria Angkor Resort & Spa(2泊)

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アンコール・ワット遺跡。印象的だ。

■2016年7月23日(土) カンボジア行

朝7時10分、JR三ノ宮駅より関西空港行きバスに乗車。順調に8時10分に空港へ到着。長袖はやはり暑いなぁ。

東南アジアの雨季だ。防虫スプレーを購入。空港内のドラッグストアは高いなぁ。
42,984円を400USDへ両替。

9時15分に出国後、SAKURAラウンジへ。ビールとサンドイッチ、デザートを馳走になる。

10時2分にボーディング開始。エコノミーシートの前から2番目だが、やはり狭いなあ。
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11時に離陸、眼下に神戸港、明石の街が良く見える。
隣席の男性が他へ移ったから、2席分ゆったりとできる。良し。
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12時5分に昼食が配膳される。豆とベーコンのサラダは結構いける。魚も美味。でも安ワインは困るなぁ。
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機内ではひたすら持参したウォークマンで音楽を聴く。坂本真綾は良い。

14時50分にベトナム沖へ到達。外気温-42℃。
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13時20分(15時20分)降下開始。ベトナムの大地が良く見える。外は晴だが気流は強く、ひどく揺れた。
初めて見るサイゴン=ホーチミンの光景。緑青と赤土の混淆した川が印象的だ。
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おっと、雲下はすごい雨だ。

13時38分にランディング。バスに移乗してターミナルへ。
スコールの去った後の空港は良いな。

14時5分にTransfer Gateを通過。チェックの係員二人はダベってやる気なしのグータラ公務員。大丈夫かいな、テロ対策とか

乗継便VN813の搭乗ゲートが変更されたのを確認し、スカイチームのラウンジへ。
ビールはSaigon special、肉団子のフォー、チキンカレー等々。ベトナムの雰囲気を味わえた。
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ふと窓外に目をやると大雨。これがスコールだなと思いつつ、ゆっくりできた。

15時58分にバスで搭乗機へ移動し、A321型機に搭乗するとすぐに入出国カードと税関申告書が配布される。

16時43分にtake off、小型機はよく揺れるから嫌なのだ。

17時32分、シェムリアップ空港に到着し、長々と待って観光シングルVISAを取得した。係員の愛想のない対応が不満だ。
入国時には指紋を採取されるんだな。
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入国後、依頼しておいたホテルのリムジンバスを見つける。他の二人の日本人と一緒になった。

18時40分頃、ホテルVictoria Angkor Resort & Spaに到着。ごちゃごちゃした町中のオアシス的存在だ。
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■ナイトマーケットへ

夕食は空港で出会った二人と一緒に摂ることとした。

コンシェルジェの推奨・予約したレストランへ、ホテルの用意した車で出向く。
店名は忘れたが、タイガービールとともにポークと卵のカンボジア料理を味わう。
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夕食後はナイトマーケットへ出向くこととした。
レストランに呼んでもらった、というか店員が運転する屋根付き4人乗り客席付きバイク「トゥクトゥク」で夕風の町を走り飛ばす。

22時だというのになんて賑やかな市場だ。1週間前の阿寒湖の夜の静けさがウソみたいだ。
奥まったところには怪しげなマッサージ店も数多くあり、厚化粧の少女の姿がとても悲しい。
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僕は予定していたビーチサンダル(5USD+チップ1USD)に加え、帽子(5USD)まで買ってしまった。

同じ「トゥクトゥク」でホテルへ戻る。2USD+チップ1USD。

「よく飲んだ日だ。明日明後日の天気は良くないみたいだが、それでもアンコールを楽しもう」と日記に書いて寝た。

続きます。

1921年春といえば、帝国臣民に向けても諸外国に向けても、まだ菊のカーテンの厚く下された時代である。そこでの皇太子訪欧は、確かにセンセーショナルであり、明治憲法下において確かに「立憲君主制」の芽を育み始めた出来事であった。
本書は、第一次世界大戦直後の傷跡深い西欧という「世にも稀な時空」が若き昭和天皇の思想と行動に与えたものを考察し、また西欧、北米の動きと併せ、昭和初期の日本外交の軌跡とその限界を探る。

・日本から地球を半周して英国本土のポーツマスに至るまで、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、ポートサイード、マルタ、ジブラルタルで地元民と英駐留海軍の熱烈なる歓迎を受ける。これら寄港「地点」すべてが大英帝国植民地であり、その覇権を実現・維持するための戦略要港であることが理解できる。

・横浜を出港後、スピーチ、テーブルマナー、態度振る舞いのすべてにおいて貴顕紳士の基準に達していなかった裕仁皇太子が、イギリス滞在わずか数日にして大国の皇族にふさわしい規範を示すほどに変貌し、供奉員のみならず各国王族・外交官を唸らせたエピソードは感動的ですらある。

・イギリスでは王室関係者のみならず、首相ロイド・ジョージ、スコットランドの大貴族アソール公、公の使用人などと会うこととなる。「菊のカーテン」に閉ざされた篭の中とはまったく別の世界。王政とデモクラシーの調和。「君臨すれども統治せずと云う程度を可とす」(p204)への思いの萌芽……。そして同盟廃棄前夜のイギリスに極東洋の国の皇太子が足を運ぶ、このことが彼の国民に心地好い心象を刻み付けた効果は計り知れないものがあった。

・フランス、ベルギーではソンムなど西部戦線の激戦地に足を運び、演習などとまるで異なる、血肉と骨の砕け散った生々しい無残な世界を目の当たりにする。この貴重な体験! 戦争の悲惨さを身をもって知った裕仁皇太子・天皇は、その後、陸海軍の強硬思想に接した弟宮との接遇に苦心することになる……。対米戦争の決断は身を斬る想いだったことが容易に想像できる。

・日章旗の掲げられたエッフェル塔(p149)、見てみたいな。パリ地下鉄の無賃乗車(p166)やオデオン劇場(p153)のエピソードも面白い。

・右翼は民衆を動員し訪欧への大規模な反対運動を展開した。田中儀一から上原勇作への手紙にある「将来何事にも民衆運動を利用すること可相成、皇室国家に害毒を流す発端を作りたるもの……」(p53)は現代的視点からも重要だ。EU離脱を決めた英国の例のように、軽々しく国民投票などを国政に利用されるようなことがあってはならない。

・本書後半は帰国後の日本と皇室の推移にページが割かれている。「国民に開かれつつある皇室」から「現人神」への急展開の件は悲しくもある。

・1930年のロンドン軍縮会議に際して、昭和天皇自ら軍備縮減を容認する言葉「世界平和のため早く纏める様努力せよ」(p256)は印象的である。

20世紀初頭の日英同盟、太平洋戦争後の「新しい」日米関係。それらの政治的効果は計り知れないし、多国間協調ではなく、日本政治においての二国間大国同盟の重要さが時代を超えて通底しているといえる。
歴史にifはないといわれるが、大正10年代、あるいは昭和初期に裕仁皇太子/昭和天皇の訪米が実現していたら、世界史はまるで別のものになっていただろうに(p66,80)。とても残念でならない。

裕仁皇太子 ヨーロッパ外遊記
著者:波多野勝、草思社・2012年6月発行
2016年9月2日読了

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