1910年のロンドン埠頭で発見された、樽に詰められた女性の死体。金貨、謎めいた手紙、深夜の探索、"消える"樽。次々と判明する事実は混迷の度を増し、ロンドンとパリをまたがる捜査網は行き詰まるが、鉄の意志を持った刑事たちの執念がひとつずつ結実する……はずであった。
スコットランドヤード、パリ警視庁、弁護士、私立探偵へと担い手が変遷し、少しずつトリックが解き明かされてゆく様は、やはりミステリーの王道だ。
・トロカデロ宮、オルセー河岸駅、繁栄するフォリー・ベルジェール、荷馬車と自動車が混在するオスマン大通り。いまでは失われたパリの光景は実に魅力的だ。
・「そこにいるのはわたしではなく、自分自身ではない誰かを見ているような妙な感覚」(p411)、犯罪に身を染めるとき、自身に悪魔が乗り移る感覚がここに顕れている。
・ラスト付近のスピーディーな展開は、急転する舞台と相まって、読書の快感を感じさせてくれた。
1910年の古き良きパリと霧の大都市ロンドンにわが身を置き、雑踏の中で謎を解き明かす感覚を存分に愉しめた。これを傑作というのだろう。
THE CASK
樽
著者:Freeman Wills Crofts、霜島義明(訳)、東京創元社・2013年11月発行
2017年3月28日読了
2017年03月
ミュシャ展 鑑賞記(国立新美術館)
「たどり着いたのは、故郷への思い」
ミュシャ晩年の壮大な『スラヴ叙事詩』20点全そろいのチェコ国外展示は世界初とのことで、神戸から東京まで出向いてきた。
(2017年3月11日)
銀座に前泊して9時40分に国立新美術館に到着。チケット売り場は大行列(200人~)。前売り券を買っておいて正解だった。
コインロッカーにコートを預け、2階の特別展示室へ。すでに300人近い行列が……。
10時を待たずに開場してくれた。
・スラヴ叙事詩は、三つの部屋に展示される。最奥の部屋では、なんと写真撮影が可能だ。日本の美術館では珍しい試みだ。
・音声ガイド(520円)は必須。檀れいさんの優しくもハッキリした声はとても聴きやすかった。
■いきなりの巨大絵画に圧倒される!
これは第一作目の『原故郷のスラヴ民族』だ。背景に攻め寄せるは異民族、焼かれた村。手前の草叢に隠れておびえるは素朴な村人、すなわちスラヴのアダムとイブだ。その光る目の印象は強烈だ。おびえなのか、何かへの決意なのか、はたまた祈りなのか……。
天空には無数星々。空中に浮かぶ巨大なスラヴの神は、「平和」と「戦士」を従え、何を願うのか。
『スラヴ式典礼の導入』
スラヴ語での布教を認める布告を読み上げるローマ教皇の使節を迎えるモラヴィア国王。人間世界の典礼を天空から見守るは、天空に浮かぶ先代の国王とロシアとブルガリアの皇帝たち。
まるで舞台を彷彿させる構図。手前の逆光で活写された青年の力強さ!彼の右手に握る輪は「団結こそ力である」を意味するそうだ。
『フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートのイジー』
場所は華麗なプラハ王宮。中央の豪奢な赤い法服・ローマ教皇の使節が30年前の協定を破棄し、スラヴに服従を迫る。議会によって民主的に選出されたボヘミア王イジーが椅子を蹴り倒し、ローマに公然と対峙する構図。
民主政v.s.神政の決定的な瞬間をとらえた、個人的にベストの一枚。
『イヴァンチツェの兄妹団学校』はミュシャの夢見た理想郷。手前左の盲目の老人に聖書を読み上げる青年こそ、若き日のミュシャ。画家の想いが存分に現れた一枚だ。
『スラヴィ民族の讃歌』
クライマックス。
米国旗の目立つのは、チェコ独立を支援してくれたアメリカ人への御愛嬌か。
展示室はこんな感じ。
■パリ時代の傑作は永遠だ。
三つの大部屋を過ぎると一転、アール・ヌーヴォー全盛期の華やかなパリ時代のミュシャ作品が現われる。
四つの花『カーネーション』『ユリ』『バラ』『アイリス』、四芸術『詩』『ダンス』『絵画』『音楽』に続き、サラ・ベルナールのポスター5点。『ハムレット』こそ傑作だと思う。ウミロフ・ミラーも面白い。このコーナーは堺市のものだ。
■世紀末の司祭
1900年パリ万博。ベル・エポックの最盛期の祭典で、ミュシャは故郷ボヘミアをイメージしつつ、オーストリア=ハンガリー帝国政府の要請による作品を提供する。ここでは、ボスニア・ヘルツェゴヴィア館とオーストリア館の装飾の一端が垣間見られる。
意想外の収穫は、プラハ市民会館のイメージスケッチと下絵だ。歴史上の偉人を描いた絵画は構図・描写・背景ともどもミュシャらしさに溢れ、どれも一見の価値がある。個人的には『闘う魂-ヤン・ジェシカ』『警護-ホットの人々』が気に入った。
他に
■独立のための闘い
■習作と出版物
のコーナーがあり、チェコ独立後の作品、ミュシャデザインによるチェコ切手・紙幣の現物が展示されていた。
こうして画家の一生を通じての作品を目にする機会はあまりないだけに、大きな感動を得られた展示であった。2時間なんてあっという間。
■ポール・ボキュール・ミュゼ
リヨン郊外の本店は敷居が高すぎて断念したが、国立新美術館3階のはブラッスリーということで、入ってみた。
10人待ち。一人客もいたので安心した。
ランチとチェコワイン(グラスワイン)は美味。見た目も良し。
今度は誰かと、また来よう。
芸術に触れるのは小さな非日常。空間とともに楽しむのが吉だな。
ミュシャ展
2017年6月5日まで開催
国立新美術館
http://www.mucha2017.jp/
サロメ 原田マハ [読書記]
ヴィクトリア&アルバート博物館の客員学芸員にしてビアズリーの研究者、甲斐祐也。ロンドン大学のジェーン博士より彼に提示された100年前のそれは、<サロメ>に掲載されなかった1枚の挿画、幻のクライマックス・シーン。凍り付くサヴォイ・ホテルのティー・サロンで、オスカー・ワイルドの研究に長けたジェーン嬢は口にするのだ。<サロメ>の本当の作者は誰なのか……。
序盤からグイグイと引き込まれる展開だ。
稀代のパフォーマー、オスカー・ワイルドと天才画家ビアズリー。そして……。三人の暗い愛憎劇がパリとロンドンを駆け巡る。
・装丁は世紀末ロンドンの文芸誌The Yellow Bookを彷彿させ、手触りを含めて実に味わい深い。表紙はビアズリーの問題の挿画だ。また、ところどころに挿入される黒紙=幕が、演劇ライクな効果を生み出している。
・序盤ではワイルドとビアズリーの立ち位置と、1890年代パリとロンドンの芸術界の背景を愉しめた。
・ビアズリーとその姉メイベルが、バーン=ジョーンズ邸でオスカー・ワイルドと邂逅するシーンはとても印象的だ(p92)。そして、<サロメ>の挿絵を依頼される「火花」のシーンも(p125)。
・サラ・ベルナールの<ハムレット>(コメディ・フランセーズ)とジェニー・リーの<ジョー>(パブリック・シアター)。終演後の空気感がそのまま伝わってくるような描写は素晴らしい(p126)。「人生のすべてを変えてしまうほどの力」(p118)はわかる気がする。
本作は、メイベルの物語でもある。「体内でどす黒い嗤い」が沸きたち(p264)、がらんどうの体の中で弟の言葉が谺する(p270)後半には、ワイルドに執着する者が誰であるのかがみえてくる。
ああ、口づけのもたらすもの。その意味を知り、重いページを閉じた。
サロメ
著者:原田マハ、文藝春秋・2017年1月発行
2017年3月8日読了
ロンドン散策 フロラ・トリスタン [読書記]
1839年のロンドンを活写するフィールドワークと民衆思想の成果がここにある。
「人間の生命が金と引き換えられているのだ」(p112)として、著者が奴隷制よりも過酷だと述べる工場労働の現場、貧民街、売春宿、悪と不幸が混同される監獄、国会、チャーティスト集会などを渡り歩くのは、画家ゴーギャンの祖母にして訪英4回目のフローラ・トリスタンである。
フランス人の視点から多少のバイアスがかかっているとはいえ、基本的人権すら踏みにじられた下層階級の悲惨な姿、特に女性のそれが黒く、赤くあぶり出される。
・チャーティスト運動への共感を示し、共産党が存在しない時代に税の平等、平等な市民権、政治的権利を要求し、「所有は強奪してしまえばそれで正当化できる」とする貴族階級とトーリー、ブルジョアを支持するホイッグを非難する(p85)。特権的地方公務員を含む政治権力が独占的利益と高給、高額な年金、閑職を享楽する姿は、現代日本でも変わらない。
・ビッグベンを擁する国会議事堂は女人禁制。憤慨したフローラはトルコ外交団の協力を得て(p94)、男装して傍聴席へ歩を進めるが、下院ではあからさまな罵詈雑言を吐かれて非難され、上院では冷ややかな軽蔑の眼差しにさらされる。よって彼女の国会描写は、ウェリントン公爵の演説の講評を含めて、実に辛辣である。
・「イギリス的唯物主義がその神のために建てた寺院」(p121)とは、何のことか? ロンドンを訪れた外国人がみな一様に驚く、公然と整備された豪華な売春宿のことである。社会観察家として、フローラ・トリスタンは二人の護衛をつけて夜のロンドンを歩く。下層階級の醜態が繰り広げられるウォータールー(ワーテルロー)通りだけではない。上流人士の集まるそこは、著者に際立つ嫌悪感を、読んだ僕に怒りすら覚えさせる醜悪な光景が繰り広げられるのだ。絶世の美女がドレスを泥だらけにして地面に這いつくばり、酒をかけられ給仕に蹴られ…(p122,p346)。その遠因として、財産の使用権も相続権が男に集中するとともに、貞操観念のダブルスタンダートが横溢する状況を著者は告発する(p116)。しかし結婚のことを奴隷化とは言いすぎかと(p117)。
・宗教に関する著者の見解は興味深い。「狂信的でも盲目的でもない人間」(p158)にとって、宗教的な教えはただ外面を変えるだけであり、ヨーロッパの民衆にとって、宗教はもはや一種のアクセサリーにすぎず、社会機構は宗教内で機能している(p160)とし、死刑囚の刑の執行に付き添う司祭や牧師の無用性を説く(p157)。
・「どんなに錯乱した想像力が見る夢も、このすさまじい現実の醜悪さには、とても及ばないだろう」(p183)とは、アイルランド移民の多く住むセント=ジャイルズ地区の描写である。犬とジャガイモの皮を奪い合う貧しさ。イギリス人が恥じて案内を拒む場所。著者は「自分に課した責務にふさわしいエネルギー」がこみ上げてくるのを感じながら、貧しいこの地と、ユダヤ人地区、盗品のスカーフを売る通りに入り込む。
・1833年にイギリスが奴隷貿易廃止法を成立させた理由は人道的なものか。否、と著者は強調する。ヨーロッパ市場でインド生産物の有利な状況を確保するために、西インド諸島の生産量を抑制すべく、奴隷売買は禁止されたのだ。そして解放された黒人奴隷に私有権はなく、納税義務と搾取的労働を強いられていると(p187)。歴史を表面的に見てはいけないってことか。
・ナポレオンをアンチ・ヒーロー=専制君主の権化と捉え、ワーテルローの戦いを民衆革命の側から捉えなおした14章は面白い。すなわち、決してフランスの敗北ではなく自由の勝利であり、民主主義を真の意味で前進させたターニング・ポイントであるとフローラは説く。
バルガス=リョサ『楽園への道』(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)を読んで、フローラ・トリスタンの存在を知った。マルクスと同時代に生きて別ルートから社会主義の意義を深く追究するとともに、性差の解消を強く主張した彼女の功績は、もっと知られて良いだろう。
あと、当時のフランス人の特性からか、イギリス的なものごとに対する辛辣な批判が随所にみられるが、これらは割り引いて理解するべきだろうと思う。
Promenades dans Londres ou L'aristocratie et les proletaires angles
ロンドン散策 イギリスの貴族階級とプロレタリア
著者:Flora Trintan、小杉隆芳/浜本正文(訳)、法政大学出版局・1987年3月発行
2017年3月5日読了
ギャスケル短篇集 [読書記]
1847年~1858年にかけてディケンズが編集長を務めるHousehold Words誌などに発表された短篇8編を収録。
CRANFORD(クランフォード、女だけの町)に劣らぬ傑作ぞろいだ。
『The Sexton's Hero 墓掘り男が見た英雄』
老人の語る、ギルバート・ドーソンの英雄的行為。キリスト教的価値観。夜の干潟でのライバルの危機に際しての究極かつ壮絶な選択。心を打たれた一篇だ。
『Bessy's Troubles at Home 家庭の苦労』
入院した母に代わって家庭の一切を取り仕切ることにした15歳のベッシーは、はりきって理想の家庭を作ろうと奮闘する。工場勤めの二人の兄、学校通いの二人の兄妹、幼い妹。思うように事は運ばず、ある事件が発生し……。
気まぐれな思い付きに惑わされず、割り当てられた仕事をおろそかにしない。このプロテスタント流の教えこそ、人生の教訓か。
『The Well of Pen-Morfa ペン・モーファの泉』
小町娘と呼ばれ、婚約も決まって幸せな日々から一転、泉での怪我により半身不随となったネスト。
突如訪れた不幸。それでも人が境遇に打ち克ち、力あるうちにその生涯を閉じる。ウェールズ地方を舞台に、キリスト教的兄弟愛の壮大さに彩られたこの物語こそ、本短篇集の第一の力作だと感じた。
他に
『The Heart of John Middleton ジョン・ミドルトンの心』
『The Old Nurse's Story 婆やの話』
『The Harf-Brothers 異父兄弟』
『Lizzie Leigh リジー・リー』
『The Sins of a Father/Right at Last 終わりよければ』
を収録。
ギャスケル短篇集
著者:Elizabeth Gaskell、松岡光治(編訳)、岩波書店・2000年5月発行
2017年3月4日読了