男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

2017年06月

人生のある瞬間。それが晴れ舞台なら喜ばしいが、慟哭の側面かもしれず、平凡な退屈もある。どれも色と音の付いた記憶となり、彼あるいは彼女の未来へとつながってゆく。優れた短篇には、そんな一局面を切り取った面白さが込められている。


個人的にはウドハウスの『The Man Upatairs 上の部屋の男』(1936年)を推したい。
自由主義と階級制度に裏打ちされた英国独特のユーモア感覚を知るには原著を理解する必要があるらしいが、その一端が垣間見えるような作品だ。
「誰だってみんな必死でがんばりながら努力しているのに、……」(p95)気に入らない人物をやり込めたアネットの後悔に満ちた心情吐露は切なく、それだからこそ、その後のエピソードにあるヒト付き合いの困難さは、やるせない。
終盤に電話と手紙で明らかになる「とてつもないこと」。それこそが、英国流の愛情にあふれた宏大なユーモアということだ。


ラドヤード・キップリングの『At the End of the Passage 船路の果て』は力作。首都シムラから遠く離れ、気温40℃の中に土埃が舞い上がる辺境に働く鉄道技術者。週に一度、自宅に三人の友人が集い、ゲームに興じるのが唯一の慰めの日々。現地藩王に対峙する高等文官、コレラ治療に奮闘する鉄道会社の勤務医、インド政府測量部の技術者の会話の中に、インド統治の実態が語られる。
鉄道技術者の"仕事への献身"ぶりは、80年代の日本の24時間闘うビジネスマンを想起させるし、ストレスが心身を蝕む様子は他人事ではない。同僚を気遣っての過労、不眠症、幻覚の果てに待つものは何か。
本作に示される白人の責務と犠牲は、"植民地でふんぞり返るイギリス人と、支配されて悲惨なインド人"のイメージを吹き消す存在でもある。日本を含む過去の植民地政策の別の側面として、これはもっと語られても良いだろう。


『A Painful Case 痛ましい事件』はジェイムズ・ジョイスのダブリンが舞台となる。単調な人生に慣れ切った中年銀行員と人妻のささやかな恋心。触れ合う瞬間を恐れ、男は人妻を捨て、そして……。
「闇の中だと彼女がそばにいるような気がした」(p136)
4年後の「痛ましい事件」により再確認される男の孤独意識こそ、真に痛ましい。


ベイツの『The Simple Life 単純な生活』も印象深い一篇だ。うんざりする別荘生活に突如現れた若い男子。雪解けの楽しさ。夫に隠れての火遊びのつもりが……。「海から吹いてくる肌を刺すような冷たい風に」本当に「ざわざわとなびいていた」(p300)のは、彼女ではなく、夫の心だったわけか。。。

磨き上げられた12種類の宝石をかいつまんで手に取り、その特徴に触れて楽しむような読書感覚を味わえた。

20世紀イギリス短篇選(上)
編訳者:小野寺健、岩波書店・1987年7月発行
2017年6月20日読了

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ピアノをあきらめた内務省の電信オペレーターに届けられた懐中時計。精密すぎる仕掛けのそれは、スコットランドヤード爆弾テロの渦中から孤独な彼、サニエル青年の命を救う。知古の刑事からの依頼で、日本人の時計技師に接触した彼は、完璧な英国英語を話す金髪の"男爵"、そのモウリこそ時計の製作者であり、まるでぜんまい仕掛けのような彼の不思議な能力に惹かれつつ、爆弾魔の犯人としての可能性を探ってゆく。そして、伯爵令嬢にして"奇抜な"科学者であるグレイスとの邂逅……。
1880年代のロンドン・ウエストエンドと明治日本を舞台に、サイバーな冒険劇が繰り広げられる。
それにしても、ぜんまい仕掛けのたこ、"カツ"は愛らしいなぁ。

・ハイドパークの片隅に実在した日本人村、ギルバート&サリヴァンの「ミカド」、1860年代の日本のレボリューション、廃城令、華族の訪欧、伊藤博文など、著者日本留学中に執筆された、まるで日本の読者に向けて書かれたと思えるような嬉しい逸話が満載だ。でもオペレッタ「ミカド」が本作のように制作されたのなら、それはそれで哀しいなぁ。

・瓦斯燈、電信機だけでなく、人感センサ付き電気照明、数十の"ぜんまい"軸受けによるハイテク鳥ロボット、光を媒介するエーテルの実験など、当時の技術水準を超える要素の数々が、本作にスチームパンクの要素を添えている。

・後半はサニエルとモウリの親密さがヒートアップする。世紀末の物語とはいえ、こうまで親密すぎるのはいかがなものかと思う。少なくとも僕には気に入らない。

・爆弾魔の正体が見え見えなのは愛嬌。あと、グレイスの幸せな生活を願わずにいられない。

いくつか気に障る点があるものの、階級差別・人種差別が当たり前に存在した世界観の中、蒸気機関車の地下鉄、ケンジントンの街並み、少数の民族主義者の活動など、1880年代のロンドンのパースペクティブがこれでもか、と思うほどに凝縮された本作は、実に魅力的だ。続編、続々編も企画されているとのことで、いまから楽しみだ。


THE WATCHMAKER OF FILIGREE STREET
フィリグリー街の時計師
著者:Natasha Pulley、中西和美(訳)、ハーパーBOOKS・2017年4月発行
2017年6月7日読了
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