本書は16編の小説、3編のルポタージュ・座談会と、小コラムから構成される。大正末期から昭和初期にかけて拡大した都市の盛り場とその周辺――ダークな部分を含めて――の賑わいと悲哀を堪能することができた。
しかし、いつになっても男は騙される運命にあるんだな。
■武田麟太郎『日本三文オペラ』
浅草の三階建てアパートに生息する多種多様な人間たち。トーキーの普及により失職寸前の映画解説者、若くても女に相手にされない萎びた安酒場のコック、60過ぎて恋仲となった老夫婦、呉服屋のせり売りの桜とその女房、そして、アパートの管理人。下層階級の悲喜こもごも。個人的には近メガネをかけて30過ぎて女を知り、手ひどく騙されたコックに同情を禁じざるを得ない……でも、女の父親との会話は実に面白いぞ(p116)。狡猾な映画解説者の最期は、さもありなん(p124)。
■佐多稲子『レストラン・洛陽』
愛想笑いに終始してパトロンを探し、銀の釣盆に残されたチップから日銭を稼ぐカフェの女給の生活は極めて厳しい。関東大震災からの復興時に浅草六区に雨後のタケノコのように設営されたカフェの事情は、どこも似たようなものだったろう。病気の旦那と莫大な借金と子供を抱えたお芳、娘に洋服を買い与えて上野公園を散歩するのが夢の夏江、憲兵と心中するお千枝……。ライバル店の繁盛を横目に、経営の傾くカフェレストラン・洛陽。花見すら行われず、景気後退を身に染みて感じ、パトロンに離れられ、ウイスキィをがぶ飲みする上得意に逃げられ……。脳梅毒で亡くなる寸前の「木片のような」お芳の顔(p184)。
近代日本・新東京の暗黒面の辛さが、読後感を重くする。
■川端康成『水族館の踊子』
「ね、お魚にも、情熱ってものがあるでしょうか」(p192)
客引きの"一等利口な"兄を自慢する千鶴子。大規模カフェ、カジノ・フォーリーの"水族館"で愉しげに踊る姿は微笑ましい。だが、やはり借金、である。その重みは人を滅ぼす。特別な顧客への特別な接客、竜宮……。彼女の復讐の物語でもある。
■石川淳『貧窮問答』
木賃宿の三畳間に寝泊まりすることになったインテリ。好いた牛飯屋の娘に、翻訳を終えたら二百円が手に入ると述べたことから、群がってくる下層階級の群れ。暴力団員、宿屋の掃除婦、娘を抱えた労働者……。一時の情に流され、牛飯屋の娘にもあっという間に騙されるインテリ君。本書で異色をなす作品。面白い。
■コラム『元町通』は昭和5年正月の神戸の様子がうかがえて嬉しい気分(p423)。
他に、地方から駆け落ちしたティーンエイジャーの姿を描く龍胆寺雄『機関車に巣喰う』、ばくち打ちの世界を覗き見る広津和朗『隠れ家』、浅草のダンス・ガールを描く今日出海『泣くなお銀』、法善寺横丁「めをとぜんざい」と「しる市」の登場する織田作之助の味わい深いエッセイ『大阪発見』、佐藤春夫『路地の奥』等を収録。
モダン都市文学Ⅲ 都市の周縁
編者:川本三郎、平凡社・1990年3月発行
2017年11月27日読了
2017年11月
舞台の上のジャポニスム 馬渕明子 [読書記]
19世紀パリに花開いた日本趣味とジャポニスム。国立西洋美術館長の著す本書は、日本の文物ではなく、舞台芸術で表象された「日本人」を対象に、現代まで続くイメージの系譜を探求する。
10枚のカラー口絵を含め、ヴィジュアルイメージとしての舞台資料満載。
・オペラ座で公演された『イエッダ(江戸)』をはじめ、『黄色い姫君』『美しきサイナラ』『コジキ』など、これが日本か? と思わせる1870年代パリ舞台芸術の数々。1871年初演の『青龍の尼寺』で想像の日本イメージが形成され、それが継承されたことが理由として示される(p76,90)。1890年になっても、白いチュチュの上に着物を羽織ったフランス人ダンサーが、日本髪のかつらをかぶってオペラ座のステージを舞い踊る『夢』が、日本的! として持てはやされるとは、なんとも複雑な気分(口絵6、p135)。
・ロティの傑作小説『マダム・クリザンテーム(お菊さん)』のルネサンス座における舞台についての論評は厳しい。西洋人男性にとっての現地妻、理解しがたい日本文化とお菊さんに対する主人公の心理は小説ならではのものであり、単純化された脚本には現われない。かつてないレベルで衣装・日本文化・社会風俗の再現されたものであっても、かくも舞台芸術は難しいものなのか。
・1900年パリ万国博覧会、ロイ・フラー座での川上音二郎と貞奴、すなわち「本物の日本人」によるパリ公演『武士と芸者』『袈裟』は何をもたらしたのか。乱れ髪を振りかざして踊る貞奴や、武士の切腹シーンは見ものだろうし、フランス人の心に寄り添った=つくられた日本イメージを踏襲した演出は見事(p222)。何しろ、本物の日本人による演技である。この誇張されたイメージが、今日まで日本人像として定着しているとしたら、皮肉である。
・着物、侍と切腹、浮世絵に描かれた富士山と大波、西洋で大流行した扇と団扇に関する考察も興味深いが、日本を表彰する人物像としては、やはり芸者となるのだな(第4章)。
・ジャポニスム礼賛から黄禍論へ。世紀末にはエキゾティックな東洋の島国から、危険な新興国へと日本のイメージは転換する。以降、カリカチュアとして蔑視される日本人のイメージは、21世紀になっても出歯小男とゲイシャガールのままである(p213)。実に歯がゆい。
・第6章「ジャポニスムの終焉」の意味するところは大きい。現代の西洋における日本アニメ・マンガ文化等の流行は、かつてのジャポニスムとは似て異なるものであることが示される。
パリを席巻した(と思い込む)ジャポニスム。われらは感情として浮かれがちであるが、著者は手放しで喜ぶことは慎むべきことを説く。
「オリエンタリズム的日本イメージは姿かたちを変えて脈々と続いているのだ」(p245)
ジャポニスムとはすなわち、遠い未知の、魅力に富んだ発展途上国への眼差しが生んだ現象(p263)であったのか。
舞台の上のジャポニスム 演じられた幻想の<日本女性>
著者:馬渕明子、NHK出版・2017年9月発行
2017年11月25日読了
階段を下りる女 ベルンハルト・シュリンク [読書記]
駆け出しの弁護士だった「ぼく」は恋をした。ぼくに向かって階段をゆっくりと降りてくる女性。絵の中のヌーディスト、モデルとなった女性のぬくもりに。
「若いころの小さな敗北」(p135)もし、あのとき、一緒に逃げることができていたならば……。
あの感動が忘れられない『朗読者』の著者の最新作だ。
・40年を経ての「告白」。第二部・19章からの展開は胸を痛めさせる。東西に分断された国家、過去の自分、自ら望んだ未来への選択。4人の邂逅したシドニーの磁場に、それぞれの人生が吸い寄せられてゆく。
・第三部。二人の新しい過去を語ることは、未来への約束へとなる。人生の最期に、選ばれなかった自分たちを生きること。淡々と歩み続ける過去は、ただただ美しい。
・ラストは静かだ。人生=世界の終焉とは、実はこんなものなのだろうか。
「ぼく自身が当時のエピソードを終わらせ、それに意味を与えなくてはいけない」(p73)
タイトルの『階段を下りる女』の真の意味は、第三部・15章に収斂される。「もう一度……海辺へ行ってみたいの」(p200)長い道の途中でたくさんの人生、たくさんの約束を想いながら、一歩一歩下りてゆくイレーネの姿は、あの絵画とあまりにも乖離し、痛々しくもある。それでも「ぼくとイレーネ」の旅の終わりに、人生の確かな意味を見いだせたものと信じたい。
Die Frau auf der Treppe
階段を下りる女
著者:Bernhard Schlink、松永美穂(訳)、新潮社・2017年6月発行
2017年11月20日読了
阿Q正伝、藤野先生 魯迅 [読書記]
辛亥革命による混乱と嵐、それでも人々の日常は変わらず、緩慢な変化と「希望」だけが人の意識を変えてゆく。
いまもって中華世界を代表する巨人作家、魯迅の13の中短篇を収録。
『故郷』
数十年ぶりの帰郷。実家の雇い人の息子であり、幼いころからの旧友との再会は、しかし、過酷な現実となって主人公を打ちのめす。
「いまわたしが希望といっているものも、わたしが自分の手でつくった偶像ではなかろうか」(p79)
いまなお古い制度・しきたりに縛られる中華民国。その緩い歩みを叱咤するは、魯迅その人なのだろう。彼は民族の希望を携えている。
「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
個人的に最も気に入った一篇。
『阿Q正伝』
大胆にして卑怯、自由な夢想家であり、その日暮らしを所与のものとして時を過ごす三十男、阿Queiを中心に、村の衆人、有力者、女の織りなす中国式世界が展開される。
清朝末期・革命さなかの民衆の卑しさが存分に披露され、阿Qもその一人である。末期にあっても情けない態度しか取れない主人公の姿をもって、著者は民衆の啓蒙を試みようとしたのだろうか。
『祝福』
古いしきたりの農村。姑に縛られた嫁の哀しいさだめ。薄幸の女性の運命を想うとき、主人公の胸に去来するは、やるせなさか、虚しさか。印象深い短篇だ。
他に『狂人日記』『孔乙己』『薬』『髪の話』『小さな事件』『家鴨の喜劇』『酒楼にて』『孤独者』『離縁』『藤野先生』を収録。
阿Q正伝、藤野先生
著者:魯迅、駒田信二(訳)、講談社・1998年5月発行
2017年11月13日読了