元英語教師の留学生、27歳の新波征治は、東京に残した最愛の女性が知らない男と結婚したことを知る。失意の彼を下宿に訪問してきたのは、ロンドンの大学で出会ったドリス嬢だ。夜な夜なパーティに明け暮れる富裕層の若者たち、ブライト・ヤング・ピープルの世界に足を踏み入れたセイジの、秋から冬にかけてのロンドンを舞台にした物語。霧に包まれる秋の街。クローシェ帽と紫色のドレス、ダンス、ジャズ、ジャポニスム、深夜の温水ナイトプール。自動車、電話、写真機、タイプライター。伝統的価値観と新しい女性運動の衝突。社会主義、イタリアに現れたファシズム、世界不況に株価大暴落、そして蔑みの「ジャップ」。ここに、躍動する毎日がはじまる。
・はじめてのパーティ会場。香水の香りと酒の匂い。経験をしたことがない高揚感が身体中を走る。「バンドの演奏で手足を投げ出すように踊るドリス」(p59)。「僕は見よう見まねで手足を動かした」(p57)そして朝帰り。昭和四年の日本人にとって、この体験は衝撃的だったろう。
・国際感覚を磨くこと。「英語が唯一の国際語ですよ」(p72)アジアの覇権を目指す日本にあっても、セイジはわかっているじゃないか。
・ヴァージニア・ウルフ宅を訪問し、コートに身を包む経済学者のケインズを見かけ、街のベンチで『パリ・ロンドン放浪記』のジョージ・オーウェルと実験的な会話を交わし、パーティーでマクドナルド首相と邂逅する。そしてドリス嬢を訪ねたラドローの街で、セイジはついに理解する。「これが僕の英国留学だ」(p238)
・ラストシーンは意外とあっけないが、日本人形を頭上に、セイジの名を叫ぶ××の姿は涙を誘う。いまは辛くても、彼女に幸あらんことを願う。
・「確かなのは人生は待ってくれないってこと」(p28)その通り。「これから、世界が一体どうなるのか、見届けましょうよ」(p204)
ロマンスは淡泊、ミステリー要素は皆無だが、1920年代末の多様なロンドン模様が盛り込まれた一冊。タイトルに惹かれて購入したが、なかなかどうして、興味深く読ませてもらった。ロンドンとラドローでのワンシーンを描く、尚美さんのカバーイラストも良い。
倫敦1929
著者:杉浦ノビイ、ブイツーソリューション・2019年8月発行