人間のみならず、およそ生けるもの全てに過酷な運命を強いる地、アフガニスタン。19世紀末のこの荒れた山岳地帯で、なお孤独に活動するはイギリス帝国、そしてロシア帝国のスパイである。グレート・ゲームに身を投じた男たちの執念の残滓が、9年の時空を超えて、パリ、そしてロンドンで火花を発する。
パリ、ノートルダム寺院を臨むカフェで、東洋風の風采の怪しげな人物と邂逅するアイリーンとネル。近づいてくる男の口から自分の名前が発せられた瞬間はさぞかし驚いたであろうが、それは新たなる冒険の序曲にすぎなかった。
パリ近郊・ヌイイのゴドフリー邸から出でてパリを駆け巡るアイリーンとネル。そして物語はロンドン、ベーカーストリート221B番地へ!
上巻17章で、ワトスンと「憂鬱な」パーシー・フェルプス氏との会話に登場するは、アフガニスタンでの「マイワウンドの戦い」だ。物語はホームズ正典の『海軍条約文書事件』とクロスし、面白さが急激に加速する!
・モンマルトルで話しかけてきたトゥールーズ=ロートレックの絵画を買い、劇場の楽屋で両腕にヘビを巻きつけたサラ・ベルナールとその息子と会話し、彼女のパーティ会場で「アイリーンを指名」してきたロシア皇后マリア・フョードロヴナに謁見し、歌曲を披露する。数々のエピソードが物語を盛り上げてくれる。
・モンマルトルの丘を行くアイリーンの「ナイルグリーンとティーローズのストライプが入った『ウォルト』のドレス、バラの刺繍の裾、帯状のアイリッシュレース」に、ボン・マルシェ百貨店で買ったというネルの「青とクリーム色の軽いウール地のドレス、真っ赤な幅広の飾り帯」(上p180)サラ・ベルナール邸でのネルのパーティドレスは「ナイルグリーンのチャイナクレープ地に黒いウォータードシルクの飾り帯」、アイリーンの『ローズ・デュ・バリー』のドレスは「黒いベルベッドのドットを配したピンクのチュールで覆われ、両肩、バッスルには先端に金色を配した黒のリボン」(上p209)、そして『ティファニー』のダイヤモンドのネックレスとブレスレッドなどなど、女性作家らしく、ファッションの描写はこまやかだ。当時の服飾の華やかさが垣間見られるようで、これは愉しい。
・ワトスンが肩と足の両方に銃弾を受けたことになっているのは、ホームズファンへの愛嬌? 「足の傷」の解釈はおもしろいが、銃創と〇傷とでは異なるから、少し無理がある。
・「その人の……プライド」(下p118)そう、それは大切なものだ。
・アフガンの現場で手に入れた「裏切りの暗号用紙」が、9年後のロンドンで、恩人のジョン・ワトソンを危機に陥れる。知らぬは本人ばかりなり。
・下巻、「あの男」の登場には驚かされたが、なるほど、こうやってホームズ物語につながってゆくんだな。
・「そんなの誰にだってできるわ!」「もちろん。でも、実際にやろうとする人がいる?」(下p157)この探求心、大事です。
・「そのとき私は悟った。自分自身が列車なのだと。人生という線路が……それらは旅を加速させ、驚きに満ちた……おもしろいものにしてくれる」(下p234)僕もこのように意識して生きたいものだ。

ヴィクトリア朝時代のロンドンに顕現した男の気概と女の心意気を愉しめたが、ラスト・34章は中途半端。33章で終わったほうがすっきりしていたのかもしれない。31章から33章の内容が良かっただけに、この歯切れの悪さは残念だ。

カバーイラストが前2作『おやすみなさい』『おめざめですか』のマツオヒロミさんからアオジマイコさんに交代し、作品イメージが「麗しき美しさ」から「妖艶さ」に変わったような気がする。

IRENE AT LARGE (A SOUL OF STEEL)
ごきげんいかが、ワトスン博士 アイリーン・アドラーの冒険(上巻・下巻)
著者:Carole Nelson Douglas、日暮雅通(訳)、創元社・2019年6月発行