本書の取り上げる<英国紳士>とは貴族や地主階級ではなく、ミドル・クラス、なかでもヴィクトリア朝中葉期から急激に増え始めたロウワー・ミドル・クラスのそれである。彼らの生活、消費、文化面などにおける「上流階級の真似っこ」が、現代まで、どのように嘲笑と揶揄の対象とされてきたかが、文学作品や評論、演劇などの多彩な事例、さらには著者自身の生徒時代の体験(ウェールズ近郊にある古風なお嬢様寄宿学校へ入学し、のちにロンドン郊外の寄宿学校へ転校)を折り込みながら語られる。
・ロウワー・ミドル・クラスが経済力、社会的影響力を増すにつれ、アッパー・ミドルクラスは彼らとの区別を意識するようになる。「ジェント」はジェントルマンの略語だったのが、1840年ごろから下品な行為(ロウワー・ミドル・クラスを揶揄する)を指すようになったのか(p25)。
・そのロウワー・ミドル・クラスの主体は、デパートの販売係員や会計事務所、弁護士事務所に勤める事務員であり、小規模商店の店主たちであった。イギリスでの彼らはロンドン郊外に小さな家(それも一戸建てではなく、デタッチド・ハウス)を持ち、地下鉄で市街地へ通勤し、応接室にこまごまとした飾り物を置き、壁面には絵画を所狭しと掛け、アップライト・ピアノを無理してローンで購入し、ささやかな庭に草木を植えて手入れし……(第四章)。現代日本でいう勤務者=「サラリーマン」と読み替えても問題ないだろう。
・その「ささやかな」生活を営みながら、しかし見栄を張らなければならないロウワー・ミドル・クラスは上流のしぐさを身につけようと奮闘するが、その「(半端な)リスペクタリティ」が今度は上流からの嘲笑の的となる(p64)。
・オスカー・ワイルドによる耽美主義の旋風、それにジャポニスムの衝撃は当然、ロウワー・ミドル・クラスを巻き込んだが、アッパー・クラス、そしてアッパー・ミドルクラスは彼らを嫌う。劇場ではロウワー・ミドル・クラスのこっけいさを売りにした作品もみられ、ワーキング・クラスからも小馬鹿にされたという(第三章)。
・1896年に発行された新聞『デイリー・メール』や1891年の雑誌『ストランド・マガジン』は、ロウワー・ミドル・クラスをターゲットとした点で画期的だったんだな。『パンチ』の読者はその上のクラスだったのか(p69~74)。
・しかし生来の教養のなさは隠しようもない。「なまかじりの知識や教養で背伸びをしようとするロウワー・ミドル・クラスの人々」を、ヴァージニア・ウルフを中心とするブルームズベリー・グループ=新しい文芸潮流は排除した。「すべての人間は平等である。と言うのはつまり、こうもり傘を所有する人間はすべて」(p135)と、民主主義に万歳二唱したE・M・フォースターでさえロウワー・ミドル・クラスを嫌うのである。
・その意味で、ロウワー・ミドル・クラス出身である「鉄の女」M・サッチャーや、J・メイジャーは「クール・ブリテン」=新しい時代のイギリスを象徴する人物だったのかもしれない(第八章)。
・H・G・ウェルズといえばSF小説の大家だが、本国イギリスでは別の側面、すなわちヴィクトリア朝時代の社会派小説家としてもよく知られているそうな(第五章)。彼の作品『運命の車輪』『キップス』『ポリー氏の人生』は、どれもローワー・ミドル・クラスの若者が野心を抱き、勉学に励み、それでも階級の壁を超えることは容易ではないことを、彼自身の出自を十二分に活かして世に問うた意欲作である。『トノ・バンゲイ』は社会暮らすどころか国民意識も超え、国の安全(自作の画期的な兵器)を外国へ売るという、人間としての良心すら超越した男の悲劇が描かれるそうな。邦訳のないのが残念だ。
・「小学校ではワーキング・クラスの英語を話し、家庭内では標準英語を話す」、すなわちバイリンガル。イギリスの「階級」「ことばの差異」は日本人が「方言」に抱く感覚に近いのか(p205)。なるほど。
著者の寄宿学校時代、朝の起床時刻を知らせる大きな「銅鑼」の響きに眠りを破られるエピソード(p4)は、その昔、漱石が下宿先の「銅鑼」の音が夕食の合図であったことを彷彿させて興味深い。なにゆえイギリスに銅鑼? 興味深いな(ノルマン人征服の名残とか?)。新井潤美さんの次の著作では、この点にも触れてほしいな、との個人的希望を抱いて本書を閉じた。
<英国紳士>の生態学 ことばから暮らしまで
著者:新井潤美、講談社・2020年1月発行