日英同盟の残滓に憧憬するイギリス保守党政治家に、自らの無茶な要求を棚に上げて相手に譲歩を迫る日本の職業外交官、そして素晴らしい構想あるいは期待を持ちながらも政治的影響力を発揮しえなかった無念の軍人。本書は、日本とイギリスの外交に関わった13名の人物像と、その人の言動がどのような政治的作用を及ぼしたか、あるいは影響を与えられなかったかを、日英関係が急速に悪化する1930年代を中心に考察する一冊となっている。
・かつての同盟国がなぜ戦火を交えるようになったのか。発火点の底に見えるのは、民族意識を高めた「中国」というファクターである。日英共同で中国経済と貿易を管理すべしとの日本側の提案に対し、すでに中国を「日本よりまともな相手国」として意識し始めたイギリスは冷淡な態度を示す。1930年代後半には一部の親日派を除いて、のきなみ中国支持となったイギリス世論の趨勢を、日本の職業外交官と政治家が読み誤ったのは悲劇といえよう。
・かつて20世紀初頭の20年間を彩った日英同盟の甘い幻影にとらわれる一部の保守党政治家等と違い、なるほど、ウィンストン・チャーチルなどは極めて現実的な思考で冷静に国益を求めて行動するのはさすがである。「感情を排した戦略的な性格」(p221)。その彼でさえ、日本の経済力から英米相手の戦争遂行能力は無いと「常識的な判断」を下し、1930年代末の軍事国家・日本帝國の狂信的な「意志」を知りえなかったことはとても興味深い。
・当時の駐英大使・吉田茂らの地道な努力が花を開くかに見えた日英会談の予感と期待も、1937年に勃発した日中戦争がすべてをぶち壊した。歴史にIFはないが、そのタイミングが少しでもずれていたなら、日本のたどった自暴自棄の道も異なっていたのかもしれない。
・ピゴット陸軍少将。幼少時から日本に住み、第一次世界大戦で目覚ましく活躍し、駐在武官となってまた来日し、のちに陸軍情報部MI2のトップとなった人物。1918年のイギリス国王ジョージ五世による天皇への元帥号授与も彼の発案によるそうな。1928年には陸軍内で「日英同盟」の復活をアピールする等、日英関係の再構築に心を砕いたとある。1937年の日中戦争勃発により、イギリス人が急速に日本を敵視するようになった難しい時期においても、必死に日本との友好の可能性を外交筋に説いて回った。結果としては何ら成果を生まなかったものの、その一途な行動には敬意を抱かせてくれる。
なるほど、著者の述べるように日米戦争に偏重するのではなく、第二次世界大戦を「日英戦争」として捉えるとわかりやすいな。
かつて、新しい日英同盟条約としての「日英不可侵協定」案なるものが確かに存在した。日英同盟が廃棄された1922年以降も同盟のメリットを説くものは多く、外務省と大蔵省の俊英たちによって慎重に検討が進められた。日英関係が難しい局面に入った1930年代、すでに外務省幹部にその熱意は喪われても、大蔵省を中心に案が策定された。だが1934年の秋に「日英不可侵協定」案は外務大臣に一蹴され、最終的に頓挫したそうな。
もしこれが成立していたなら、経済封鎖に至ることなく妥協が成立していたなら……。まったく、日本とイギリス双方にとって悲運としか言いようがない。失われた絆を再構築することは、かくも困難なことなのか。
大英帝国の親日派 なぜ開戦は避けられなかったか
著者:Antony Best、武田知己(訳)、中央公論新社・2015年9月発行
2022年3月28日読了