すでに語りつくされた名作ではあるが、読み込んでこそ、その価値が分かろうというもの。
なんといっても第Ⅲ部-5の後半、ラスコリーニコフが自作論文の解説を披露する場面が圧倒的だ。並ではない「本当の人間」(プラトンの言う「哲人」にあたるのかな?)が自分の発見や思想を全人類のものとするため、それを阻む何百人もの生命を除去することの権利と、その良心に基づいて他人の血を流すことの義務を有し、彼は必然的に犯罪者たらざるをえないことが論理的に展開される。この"対談"から、友人ラズーミヒンの叔父にして予審判事であるポルフィーリイとの思想合戦がすでに始まっていたのかと思うと、文豪ドストエフスキーの構成力の壮大さには舌を巻く。
それにしてもロジオン・ロマーノヴィチ(主人公)、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、ドミートリイ・ブロコーフィイチ・ラズーミヒン、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ等々、ロシア語の人名はなかなか手ごわいなぁ。
・百の善行は一の悪行に勝るのか? 古くからの問いかけに対し、彼、ラスコリーニコフは英雄的で特別な人間にはその権利があると理論づける。その決行のきっかけは著しく内的なものであっても、一歩を踏み出した彼は、しかし英雄的行為の意味の消失を悟る。
・仇敵ルージンの妹への求婚を退け、家族団らんと新しい展望が開けるかと思いきや、突如、ラスコリーニコフは決別を宣告する。親友ラズーミヒンが追いかけ、二人が対峙する第Ⅳ部-4のラスト。「廊下は暗かった。ふたりはランプの傍らに立っていた。一分ほど、ふたりは無言のまま」互いに顔を見つめあう。そして無言のまま、二人の間で「ある出来事」のすべてが了解された……。電撃が走ったように「ラズーミヒンは死人のように蒼ざめた」このシーン、まるで読者を試すかのようなドストエフスキーの恐ろしい筆力が圧倒的だ。
・第Ⅴ部-1の会話劇も面白い。コンミューン、フーリエ、啓蒙と労働組合。女性の自由。そしてソーニャの美しい天性。行動するロシア知識人が主導する社会主義の幕開けが予想されるような展開は興味深い。
・馬車にひかれて死んだソーニャの父親の追善供養の席では、『この馬鹿なドイツ女』、野卑なポーランド人の描写など、ドストエスフキーはロシア人からみた異国人の表現に容赦がない。また零落したとはいえ、あくまでも「上品な家柄」を誇る母親カチュリーナ・イワーノヴナの態度はテーブルの席でも傲慢であり、出席者を「酔っぱらったとんまなロバ」「箒で吐き出さるべきバカ者たち」と呼ぶその姿はこっけいでもある。第Ⅴ部-2、追善供養の席の終末は混乱と罵声とに満ち溢れたシュールな場面となる。人の執念、思い込み、情念とはかくも恐ろしく醜いものなのか。そして次なる悲劇がヒロイン、ソーニャを襲うとは。
・第Ⅵ部-2。予審判事ポルフィーリイ・ペトローヴィチがラスコリーニコフに自白を奨めるシーンには鳥肌が立つ。「問題は時間にあるのではない、あなた自身の中にあるのです。太陽におなりなさい」「太陽は何よりもまず太陽でなければならない」(p477)
・ラスコリーニコフの「秘密」を握った50男、スヴィドリガイロフの人生もなかなか興味深い。その目的に破れて彼自ら破滅の道を歩む様はとても悲しすぎる(第Ⅵ部-5,6)。

「遠くへ行くんです」と、かたくなに自分を信用してくれる母親と対面し、ラスコリーニコフが「愛と別れ」を告げる瞬間は切ない。「で、今日はドアを開けて、見るなり、ああ、いよいよ運命の時が来たんだって、そう思ったんだよ。ロージャ、ロージャ」と呼ぶ母の声は悲痛であり、その表情も窺えそうだ。続けての妹との対峙。「そのまなざしに接しただけで、彼は妹がすべてを知っていることを直ちに悟った」 クライマックス直前の美しいシーンは、繰り返し読む価値がある。
「いったい僕は何のために生きるんだろう」と、その問いに苛まれて生き続けることこそ、人が人たりうる証である

多様な示唆に富む本作は、オリジナルな人生に身をゆだねることの意味を考えさせてくれた。少なくとも、「他人の思想の下僕」にはなりたくないな。

悪事と英雄的行為、人類の新秩序、宗教的信念、ニヒリズム、そして愛。重層的なテーマを持つ本作。時をおいてまた読みたい。

罪と罰
著者:フョードル・M・ドストエフスキー、集英社・1990年9月発行
集英社ギャラリー[世界の文学14] ロシアⅡ所収
2020年3月9日読了

DSC04638a
罪と罰〈上〉 (新潮文庫)
ドストエフスキー
新潮社
1987-06-09

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)
ドストエフスキー
新潮社
1987-06-09