大英帝国の最盛期に国費留学生としてロンドンに赴いた漱石。本書は、漱石の遺した日記、随筆、断片から1901年の彼を取り巻くロンドン社会を再現するとともに、その足跡を追う興味深い一冊となっている。
・なんといってもボーア戦争の衝撃だ。南部アフリカのオランダ人の小さな2国=オレンジとトランスヴァールを倒すのに思わぬ苦戦を強いられた20世紀最初の戦争は、さぞヴィクトリアを苦悩させたであろう。その女王も戦争後半に屈辱的かつ非人道的な焦土作戦・収容所作戦を採用せざるをえなくなった事態を知ることなく、愛するアルバート公のもとへ旅立って行けたのは、まだ救いといえようか。
・そのヴィクトリア女王の葬送の大行列は、ロンドン市民を、そして漱石をして早朝の沿道に見物の列をなさしめた(2章)。「園内の樹木皆人ノ実ヲ結ブ」とは漱石の絶妙な表現だ。
・詩人の野口米次郎、画家の牧野義雄を魅了した「ロンドンの霧」。その実、鳶色=煤煙交じりの迷惑でしかない公害現象を、イギリス人の思いもよらない感性によって芸術の域に高めたのが、日本人の二人というのが興味深い(1章)。特に牧野の『THE COLOUR OF LONDON』は現在でも色あせない価値を放っている。若き日に一躍時代の弔辞となりながら、晩年には顧みられることなくこの世を去った牧野は、もっと日本で知られても良いはずなのに。
・毎月の少ない給付金から古本をどんどん贖い、夜ごと劇場やバラエティ・シアター(ミュージックホール)に足しげく通い、火曜日にクレイグのもとへ通う漱石は、充実した日々を満喫していたように思われる。6章から8章にかけての著述はとても読みごたえがある。
・19世紀末に公衆浴場、公衆洗濯場が完備され、漱石もよく「入浴ス」(9章)か。
・山盛りのイングリッシュ・ブレークファスト、ランチ、豪華なアフタヌーン・ティー、ディナーに就寝前のサパー。「ウチノ女連ハ一日五度食事ヲスル」で漱石が驚かされたのもわかる。そして下宿での食事の合図にゴングが鳴らされるのは面白いな(12章)。
・15章では、漱石の日記に突如現れる「小便所に入ル」の文字を著者は明快に解き明かす。当時の社会事情と漱石の事情(良く散歩するから腹が減る)も相まって納得だ。
・漱石の突然のスコットランド旅行の謎を解明する23章は読みごたえがある。なるほど、ラスキンの作品の影響か。芸術作品に刺激を受けて「その地」を訪問する行動って、わかる気がする。

20世紀初頭のロンドン。「本を買うのが目的」として、いきなり文明の中枢へ乗り込んだ漱石の刺激的な日々を楽しく追体験できた気分、また漱石と同時代の渡英人、牧野義雄への言及も多く個人的に嬉しいところだ。この二人に交流があったならば、歴史はさらに面白くなっていたに違いない。

自転車に乗る漱石 百年前のロンドン
著者:清水一嘉、朝日新聞社・2001年12月発行
2021年2月20日読了
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