『日記』『倫敦消息』『断片』等の作品や遺稿、妻夏目響子や友人への手紙、関係者の手記などから、アグレッシブかつ強固な意志を持った漱石の姿が浮き彫りになってくる。特に下宿先での日常的な知的会話を渇望し、それがなかなか叶えられない現状に不満を抱いていたことがわかる。1901年11月からは日記すら断ち、研究に没頭する姿が垣間見えてくる。そう、決して「夏目狂セリ」ではないのだ。
 本書は、当時のロンドンの新聞・雑誌だけでなく、著者自身が漱石の足跡を追い、「漱石の内面に照射しながら彼が経験したロンドンでの近代の生活の内実を具体的に再現する」(p298)一冊となっている。
・漱石は大学に籍を置かず(ロンドン大学の講義を受けたのはわずか4回)、原著の精読による「自己本位の研究」(p193)を確立し、独自の学問的世界を構築する。一方で自身を取り巻く日常世界の細やかな観察を行い、妻や友人に宛てた手紙には自己諧謔の効いた文章が目立ち、すでに「作家」としての片りんを見せ始めているのが興味深い。
・キリスト教、特に、キリストによる世界の救済観を「劣等民族」に教育しようとする婦人たちの姿勢には断固反対の姿勢を貫き、聖書もろくに読まない。それは潔い姿勢なのだが、英文学と同じように聖書を精査すれば、イギリス人の物の考え方、ひいては英文学の理解の一助となったろうに。
・『倫敦塔』『カーライル博物館』これらの作品から両者を近い時期に訪問したと思っていたが、前者はロンドン到着後四日目(1900年10月31日)に集中して観光した物見遊山の時期に、後者は世紀が開けての1901年8月3日、5件目の下宿が定まって本格的に研究に腰を入れ始めた時期に訪問しており、おのずからその内容も異なったものとなるのも納得だ。

「漱石のロマンティシズムに対する理解は、たしかにロンドン留学中にいっそう深められ」(p209)、小説家としての創作の理念を新ロマン主義におきつつ、ロマン派の理想主義とリアリズムとの調和に新しい文芸の理念を開拓した。その昇華が、おそらく永遠に読み継がれるであろう『三四郎』『虞美人草』『心』であるならば、われわれはなんと幸せなことか。
 そして1903年に漱石が記した「余は一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである」(p282)の精神には大いに見習いたい。

漱石と不愉快なロンドン
著者:出口保夫、柏書房・2006年4月発行
2021年3月7日読了
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漱石と不愉快なロンドン
出口 保夫
柏書房
2006-04-01