昭和の初め、1928年夏から翌年にかけて洋行した谷夫妻の紀行文。その躍動するような独特の文体が「旅の楽しさ」をダイレクトに伝えてくれる。
そう、「旅の楽しさ」。おそらくは一般の観光地巡りを奥方と済ませたのだろうが、さすがは谷譲次二。本書の読みどころは名所旧跡がどう、食事と酒がどう等ではなく、例えばパリのアングラ覗き稼業の仕掛け人の話(これが実に面白い!)、イングランドはダービーの観客席のすさまじさの実況、マドリッドの闘牛漬けとなったニューヨーク大富豪のひとり娘の末路、リスボンのかかあ天下のもとで船舶専門の女あっせん業を営むイギリス人のたくましさなど、わざわざ欧州へ何をしに行ったんだと言いたくなるエピソードのオンパレードにある。
・随所に光るはキレッキレの表現。上海(p21:あらゆる人種と美しい罪の市場)、哈爾賓(上p22)の街の描写などはさすがだ。
・往路のシベリア鉄道では辟易。何を訊いても「否(ニエット)」で片づける白髪の老人車掌(上p46)に、一等客が二等客車に押し込められる理不尽といい、ああ、これがソビエト・ロシアなんだなと納得させられることしばしば。車内の学生の議論も「貧しい現実の上に美しい理論が輝き、すべての矛盾は赤色の宣伝ビラで貼り隠され」、「新経済政策」の実態は物々交換であり、無産者のための叫びも空しく共産党独裁となったかの国の実情を、谷は赤裸々に描写してくれる(上p51)。
・英京ロンドンの貧民街を訪問する谷夫妻。そこで得たものは「平和な怠惰と不潔な食物と無害な嘘言とに楽しく肩を叩きあう」人々の「無智から来る超国境の行為と狡猾な歓迎」であり、求めていたスリルも緊張も見聞きできなかったとあり、どこの国の貧民と同じく「人は雨と煩瑣な感情にわずらわされながら無自覚な混迷のうちに年をとってゆくにすぎない」生き方を送っていることに驚く(上p114)。これ、現代日本でも(程度の差はあれ)変わらないことに僕は驚かされた。
・シベリア鉄道内では(日本人係員に)中国人と間違えられ、ロンドンの床屋ではインド人と思われる(上p96)。面白い。
・イギリス人のQ(Thank you)は本当の感謝ではなく、日本人が日常的に使う「すみません」のニュアンスと思えとある(上p100)。
・1928年になってもイギリス人の、それも知識階級でさえ日本に関する知識が本当にプアーなことを谷は実見する。「日本の家は紙でできていますか」「どうやって紙の梯子段で二階へ昇るのですか」の質問にビックリし、「新聞はありますか」「保険は」「鉄道は」にはYes,Yes,Yesの連発だ。そしてQ(上p105)。
・ロンドンからパリへはドーバー海峡を渡るのだが、なんと飛行機でひとっ飛び。それでも現代の快適な空の旅とはほど遠い状況が、谷の文章から手に取るように伝わってくる(上p215)。それにしても、当時は五千メートル上空で窓を開けられたんだな。
・モナコはモンテカルロ。この「国際的自由意志を唯一の価値とする」(下p159)カジノ都市で邂逅した「近代的速度を備えた淡いエゴイズムの一本の感覚の尖端にぶらさがっ」た中年白人女性(下p136)の素性が面白い。そしてパリから運転手付きの自家用車でカジノへ乗り付ける(ふりをする)は、金持ちだけが存在を許されるこの都市に正面から入域し、まっとうな扱いを受けるための手段でもある。谷夫妻の準備行動力に脱帽だ。
・ローマへ向かう国際特急の車内では「国際裸体婦人同盟」を名乗る、コートの下は全裸の三十女が谷の車室に入り込んでくる。ときはムッソリーニ氏の天下である。女によって電燈スイッチが操作され、車室内は暗転し、向かいに座る男性(旅の道ずれ)に全裸で腰かける女の姿。「私は、私の全神経の騒ぐ音を聞いた」(下p226)。車室内の緊張感がダイレクトに伝わってくる楽しいエピソードの結末には、あっと言わされた(その正体はファシスト直属の女警察官。外国人の民主派メンバーはこうやって拘束されるのだ)。
・冬のスイスの山岳リゾート地こそ「爛熟しきった物質文明を無制限に享楽する時代と場所」(下p272)である。飾った青年貴族に、御令嬢。しかしその正体は……。「すべての古いものは、その古いが故に、それだけで価値を失ってしまった」(下p275)から、男女間の貞淑な「大戦以前の価値観」は廃れ、年長の男は老嬢はとまどうばかり。これもリゾート地のドラマか。
・「西洋を知り抜いて東洋へ帰る心」(下p322)は谷の信条であるが、帰国用の木製の簡易本箱を注文しようにもバカ高なところから、大英帝国の一欠陥を彼は発見する。すなわち機械工業製品に頼らない商品の特別さと、日本のそれとの対比。なるほど「ハンド・メイド」は便利な言葉ではあるな。「いたずらに先方(西洋)の真似をしないで、わが特徴を伸ばしてゆく以外に、私たちの進展の途(みち)はないということになる」(下p315)
・いざ、欧州航路で横浜へ! その出港前夜にパスポートを紛失し、徹夜で探す羽目に陥る谷夫妻! この顛末も面白い! (結局出港後に見つかり、シベリア鉄道経由で本人帰国よりも前に日本へ届けられたという……。)
・スエズ運河の西洋側の入り口、「密雨のような太陽の光線」(下p333)に照らされたポート・サイドでは「たくさん安いよ!」と変な日本語で迫る怪しい宝石商、手相屋、両替屋、春画売りに囲まれ、強制靴磨き少年に足をつかまれ、奇術師に行く手を遮られ、振り切って、やっとの思いでたどり着いたは「女商売の街」って、この行動力! 

「旅は、はるばるほんとの自分をさがしに出るようなもの」(上p91)。旅行者に与えられた権利と義務、それは「できるだけ多くの大それた欲望を持つこと」(上p11)である。旅の芸術は「受動的に白紙のまま」、すべてを心ゆっくりと受け入れること(上p225)。
「地球の向側の色彩をおのが眼で見きわめたい衝動に駆られて旅に出る」(上p364)、その心意気もわかる。

本当の「旅の楽しさ」をダイレクトに示唆してくれる本書に巡り合えたことは、本当に幸運だったと思う。

踊る地平線(上)(下)
著者:谷譲次、岩波書店・1999年10月発行
2022年2月1日読了
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踊る地平線 (上) (岩波文庫)
谷 譲次
岩波書店
1999-10-15

踊る地平線〈下〉 (岩波文庫)
谷 譲次
岩波書店
1999-11-16