旅の魅力ってなんだろう。もちろん人それぞれなのだが、林芙美子にとってのそれは「庶民の生活を知る」ことにあったことが、本書に記された台湾、満州、シベリア~西ヨーロッパ、樺太、北京の旅日記からうかがえる。ベストセラー作家なのに、わざわざシベリア鉄道の三等車を選ぶなんて、好奇心の塊のような人だ!
本書は、1930年から1936年までの林芙美子の紀行文を再編成したものである。ベストセラー『放浪記』は改造社版から新潮社版へ移る際に文体のところどころが「お上品」に改められたが、本書には林芙美子の性格が率直に現れ、とても親しみやすい旅日記となっている。

三週間かけての台湾縦断は、婦人毎日新聞社主催の講演旅行であり、複数の女性作家と旅路を共にしたとある。講演だけでなく、退屈な日本人支配階級との会談、組織的な観光。それでも著者は合間を縫って現地をテクテク歩き、現地人と会話を交わし、その地の息吹を感じることに喜びを感じ取る。雨に煙った基隆の印象が深い著者にとって、台北は「教室に入ったような窮屈さ」(p17)を感じ、総督との会談では本心ここにあらずと良妻賢母を論じ、台北場外で息を継ぎ「旅は自由行動に限る」(p19)と再確認する。その気持ち、よくわかるぞ。若い台湾女性を「道を歩く瞳がみずみずしく光って」いると称する一方(p34)、内地人(日本人)が苦力をこきつかっているのを見ては、足から血がのぼるような反感を持つ。これぞ林芙美子だ。

1931年11月から翌年6月にかけて、いよいよ長春~哈爾濱~満州里~シベリアを経由してモスクワ、パリ、フランス北部、ロンドンへの旅が始まる。帰りの旅費まで考えていなかった『三等旅行記』、「呑気と云えば呑気なことでしょう」(p84)と著者は屈託ない。
・「あれが夕陽かしら、暗色になりかけた野原の果てに、狂人が笑っているような夕陽の赤い炎」(p57)これは哈爾賓で目にした夕景の描写。空も良く物価も安い、と著者はこの地を気に入る。そして官僚的仕事には「奉天のツウリスト・ビュウロウなんて、あってもなくても同じ事だ」(p70)と手厳しい。
・無責任な野望を抱く関東軍の引き起こした事変のさなか、満州の駅はどこも兵員でごった返している。暗殺や事件の噂が後を絶たない混乱の哈爾濱、北満ホテルの部屋で、それでも著者はパリ行きを決意する。列車がソヴィエト・ロシア領に入り、いよいよシベリア鉄道に乗り換える。列車はシベリアの寒気の中をひた走る。雪で光った晴天。シベリアの光のない小さな太陽。ガラスを重ねたように光る雪道。人魂のようにポトリと落ちる樹の上の雪の塊。大きな二重窓の外の世界を著者は存分に楽しむ。
・列車内のロシア人は物持ちの外国人客をブルジョワを呼ぶ。食堂車を利用せず、貧しい食事に汲々とする一般国民=プロレタリアの姿を列車内で垣間見て、著者はソビエト体制の矛盾を鋭く突くが、ロシア人は薄笑いを浮かべるばかりだ。「いずくの国も特権者はやはり特権者なのだろう」(p111)そして列車はパリ北駅へ到着する。
・薪ざっぽうみたいに長いパン。物を食べながら街中を歩けることに感動を憶えながら、着物を召して黒い塗下駄でぽくぽくとパリの石畳を歩く小さな体躯の著者はパリジャン、パリジェンヌから注目を集める(足に板をぶら下げている、と呼ばれる)。シネマ『オランピア』で本場のヴァリエテを観る。上半身むき出しで乳房は銀色のバンドで小さく隠して踊る姿。汽車をテーマにした踊りは、宝塚少女歌劇団の演目の元となったものに相違あるまい(p128)。
・少数の知識階級ではない。「フランスを支えているのは百姓とエトランゼだ」(p130)。
・かつて劣悪環境なセルロイド工場の安賃金で著者が色塗り労働をしたキューピー人形が、パリの百貨店で高額販売されていることに仰天するシーンがある(p134)。セレブ作家ならMade in Japanな事実を誇らしく思うのだろうが、彼女の心境はいかなものだったろうか。
・1930年代になってもパリの紳士はシルクハットをかぶっていたのか。『パリの屋根の下』に見る鳥打帽は、プロレタリアの男がかぶるものだそうな(p136)。
・ミレーの故郷とは知らずにバルビゾン村へ着物で赴く著者。袖を振って「空を走るのか」と真面目に聞く老人もかわいいじゃないか(p149)。
・ロンドンでは日本は「中国を侵略する大野蛮国」として扱われ、トラファルガー広場では中国婦人による反日デモが繰り広げられる。パリでは中国の青年が『国難通告』と書かれたビラを配り歩いていた。日本人は「豊富な隣のものを失敬することもやむを得ない」とたまらない理論を平気で吐く(p173)。「コンチクショウ! 日本は軍人さえなければいい国だのに……」(p137)
・復路はマルセイユ、ナポリ、コロンボ、新嘉坡、上海とインド洋を経由する船旅である。ポート・サイドでは大きな盆のような月を見て、紅海では海の色がひどく赤がかる様子を目の当たりにする(p191)。しめて426円の旅費であったとある(p203)。大卒エリートサラリーマンの月給が60円の時代の「女ひとり旅」であった。

支那大陸では国民党軍と共産党軍の闘いが熾烈を極める。「こんな広い中国に戦争がないのが不思議だ」として、北が勝っても南が勝っても、我々の生命財産なんか守ってくれない。平和になってさえくれれば良い、と地元民は現実的で、タフだ(p77)。
・当時の紫禁城は荒れていた。かつて王侯貴族が闊歩した石道にも、黄玻璃の屋根瓦にも草が生え、敷地は雑草が生え放題。そして80万坪の祝祭の地、天壇に立って著者が思うのは、やはり庶民のことである。そして「人間の夢想もここまで来れば手を放って呆れるばかり」と容赦ない(p249)。
・かつて代々の親日家だった女性のため息を、著者は悲し気に耳に入れる。日本への思いも「こんな風になっては」もはや何もなくなった、と。「私を目を閉じるより仕方がない」(p252)

1934年の樺太への小旅行も面白い。
・開発の手の届かない稚内の街の描写は素晴らしい。大泊から豊原までの列車の中から見て驚いたことは、樹木という樹木がことごとく伐採されていること。樺太を事実上支配する王子製紙の社員に訊くと「無尽蔵だから伐採する」との応答。なるほど、「王子島」のどの駅にも木材がひしめき合ってる。知取ではオホーツクの海を見て「こんなに、暗くて孤独な海の色を見たら、誰だって手紙が書きたくなるに違いありません」(p229)。ここでも王子製紙の工場群が新聞紙、模造紙、パルプ等を製造している。幌内、敷香(しすか)では白夜に近い体験(午前二時には夜が白む)をする。

「地図を見ている事はユカイです。人間が大きくなりますよ」(p168)とは同感だ。
岩波文庫『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』と重複する部分が多いのは止む無しだが、勢いあまる彼女の行動力を存分に追体験でき、とても満足している。ところどころに光る名文も楽しませてもらった。

愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ
著者:林芙美子、中央公論新社・2022年4月発行
2022年6月6日読了