「こいさん、頼むわ。」で始まる、阪神を舞台にした昭和十年代のたおやかで優雅な女の世界。それは日本のベルエポック期ではなかったか。
本書は船場で生まれ育った蒔岡家の四姉妹、なかでも三女雪子の見合い話と、四女妙子の自由奔放な活躍(?)を中心に、主に二女幸子(さちこ)の立ち位置から見ての、芦屋、神戸、大阪、京都、そして東京・渋谷にまたがって綴られる絵巻である。
・30歳を超えていまだに結婚相手の定まらない蒔岡雪子。大阪・船場の旧家に生を受け、幼少から何不自由なく、むしろ贅沢な生活を体験した彼女の意識下には、結婚とはすなわち家の格と財産の多寡であることが刷り込まれている。亡き母親に似た美貌を鼻にかけることなく、日々を静かに過ごす彼女の内面は、いや、刺激に満ちた出来事を渇望しているのではないだろうか。
・蒔岡妙子。当世きってのモダーン・ガールである彼女の行動に、幸子とその夫、貞之助(=谷崎潤一郎がモデル)は今日も振り回され、ため息を吐き、それでも愛してやまない末の妹なのである。近代都市大阪・神戸を闊歩するのみならず、日本舞踊をたしなみ、学生時代の趣味が高じて人形の制作販売で収入を上げる彼女の性質は、あきらかに三人の姉とは違っている。彼女は幼馴染の船場のボンボン、奥畑との駆け落ち事件を引き起こし世間を騒がせたのみならず、下巻でもある「事件」の渦中に身を置き、本作のひそやかなラストシーンにひと悶着を起こす。いや、それでも憎めない女性なのだ。「冒険的生活」(下巻p244)好いじゃないか!
・かつて栄華を誇った蒔岡家は芸能に没頭した父の代に没落し、店は他人の所有となった。それでも芦屋の高級住宅地に大きな家を構え、複数人の女中を雇い、上流階級の暮らしを満喫する姉妹たち。日中戦争が激化しても毎年恒例の春の京都旅行は欠かさず、大阪の三越百貨店に足しげく通い、オリエンタル・ホテルのグリル・ルームで美食を満喫し、隣人のヨーロッパ人との交流は華やかだ。そんな最中に発生する大水害は、一家の生活にも影響を及ぼす。大水害がきっかけとなり妙子の新しい自由恋愛が始まるが、「身分違いの恋愛」はかつての家の栄華を忘れられない幸子にとっては許容されない話である。その点、会計事務所に勤める貞之助のほうが「現実的」であることがわかる。
・阪神大水害の渦中、溺死を覚悟した妙子は、必死に自分を救おうとする板倉の姿を目撃する。このくだりが僕は好きだ(中巻p95~)。
・一家の多彩な国際交流も本作の魅力の一つである。「露西亜で生まれて、上海で育って、日本へ流れて来た思うたら、今度は独逸から英吉利へ渡る」(中巻p299)白系ロシア人のバツイチ女性のカタリナはアクティブだし、隣家のシュトルツ夫人の娘「ルミーさん」は片言の日本語で幸子の娘、悦子と遊ぶ幼いドイツ人だ。日中戦争が激化する中、彼らとの別離は印象的だ。
・蛍狩り。「僅かに残る明るさから刻々と墨一色の暗さに移る微妙な時」「真の闇になる寸刻前、落ち凹んだ川面から濃い暗黒が這い上がって来つつありながら……けはいが視界に感じられる時に……」(下巻p34)。谷崎の筆が冴えわたる、とても美麗で興味深い場面だ。

江戸の名残りである日本の伝統美と阪神間モダニズムの見事な融合は、絢爛豪華な絵巻物を眺めているよう。
本作の時代設定は昭和11年から16年、すなわち日中戦争の真っただ中にあり、太平洋戦争の直前でもある。豪奢な家がゆっくりと滅んでゆくさまを描きながら、谷崎は同時に古き良き日本が滅んでゆくさまを示唆したのかもしれない。

細雪(上)(中)(下)
著者:谷崎潤一郎、新潮社・1955年10月発行
2022年11月20日読了
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細雪(上)(新潮文庫)
谷崎潤一郎
新潮社
2013-08-09