兵庫県明石市(神戸市の西隣)に、あのガンダムの安彦良和氏がやって来る。地元民として、中学生時代にガンダムの洗礼を受けた一ファンとして、聴き逃すわけにはいかない。新聞記事を読んで、すぐに予約し、2008年4月6日10時前に会場に着いた。
(長いので2回に分けます。)

さて、会場(サンピア明石)に到着すると、
「安彦良和氏と本田純一氏の対談」
との看板があがっている。対談相手は地方新聞の記者? 20年前から日本のアニメ業界の神様的存在である安彦氏とは、全然釣り合わないのでは?
この疑問に対する答えは、最初の"なんとか会会長”の棒読み挨拶で解けた。よくわからん年寄り連中、行政・教育界に長い間身を置いている"お歴々"には、30代の地方新聞記者のほうが格上に映るようだ。ただ、この神戸新聞記者も心得ているようで、一ファンとして、インタビュアーの立場を取って安彦氏を盛り立てていた。(この辺りはさすがだ。)
それはさておき、安彦良和氏の話を抜粋すると……。

[アニメ業界入り]
・高校時代から漫画を描いていたが、プロになる自信はなく、集団作業を行うアニメーターを目指した。1970年に虫プロダクションに入社。動画ではなく、最初から設定を担当した。
・虫プロは1973年頃に倒産し、300人が路頭に迷った。その後、虫プロの仲間が新設した創映新社に入社した。(サンライズの前身だ。)
・当時のアニメーションは原作付きが当たり前。新興会社には原作付きアニメの話はこない。しかたなく、オリジナル・ロボットアニメを制作することとなった。
しかし、ちょうど石油ショックの時期。アニメ番組のスポンサーは次々と撤退したが、おもちゃ業界だけが支援してくれた。これは「作品=商品広告」の構図が成り立つためでもあるが、かろうじてロボットアニメのテレビ放映枠が確保された。
・サンライズ2作目のアニメ作品「勇者ライディーン」のキャラデザインを任された。当時は「メカデザイン」の概念はなく、「すたじおぬえ」の大河原氏が片手間にメカデザインをしていた程度。ほとんど、キャラデザが兼任していた。
・ロボットアニメは「おもちゃ屋の手先」、「質の悪いアニメ」との悪評が先行していた。それがいまでは、日本のロボットアニメに触発されて、ロボット工学を志す若者が多いと聞き、実に感慨深いものがある。

[ガンダム、富野由悠季氏(富野喜幸氏)]
・富野氏とは虫プロ時代から一緒に仕事。絵コンテを描くスピードが早く、他社の仕事も請け負っていた。
・世間の評判と違い、リアル・ロボットアニメの草分けはガンダムではなく、ライディーンだと自負している。
・勇者ライディーンは富野氏が監督、安彦氏がキャラデザ。この構図はガンダムに引き継がれる。
・良く訊かれるが、安彦氏はキャラ担当。ストーリーには加わっていない。
・ガンダムは、世界観、モビルスーツのラフデザイン等を含めて、すべて富野氏が創り上げたものだ。しかし、カリスマ化されて以降の富野氏の姿を、安彦氏は評価していない。ファーストガンダムと、それ以降のガンダムとの乖離に、違和感を覚える。
・だから、ガンダム誕生20周年を機に、「本当のガンダムをオレが描く」ことを決意した。

[ガンダム・ジ・オリジン]
・角川書店の編集長によると、連載の目的は、米国にガンダムを売り込むことだった。(アメリカ人は長いテレビアニメ全話なんて見ない。劇場版アニメは編集されすぎて、世界観が理解されない。外国人は「まずマンガありき」だ。)
・2000年に、富野氏と会い、「1978年当時の、富野氏の本来の世界観のガンダムをマンガにする」ことを伝え、了承を得た。(これ以降、富野氏とは会っていない。)
・連載中の「ガンダム・ジ・オリジン」はモビルスーツのデザインを独断で変えた。
・連載は、最初の予定より話がどんどんふくらんだ。前史はシャア・セイラ編のみで1巻を考えていたが、ルウム戦役を加える等、結局は6巻分にも及んだ。
・ファーストガンダムのキャラは、皆すべて気に入っている、しかし、オリジンの連載を始めてから、ランバ・ラル大尉とハモン、ドズル中将が気に入っている。だから大いに活躍させた。ハモンに片思いのタチ中尉には、感情を込めて描いた。
・ファーストガンダムは本来、子供向けの作品として生まれた。このガンダム・ジ・オリジンは最初から大人がターゲット。ぜひ、味わって欲しい。

話の中で感慨深かったのは、「ジ・オリジンの連載では、タチ中尉の活躍に気を配った」と安彦氏が述べていたことだ。脇役に過ぎない情報士官だが、ハモンのためにすべてを投げ打ち、叶わぬ恋に命を捧げる……。僕の好きなキャラなので、この話を聴けただけでも満足だった。

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