大英帝国のくびきから逃れ、インドと分かれて独立を果たしたパキスタン・イスラム共和国。1947年8月の独立式典で、建国の父ジンナーは、進歩的で穏健な民主主義国家を目指すことを宣言した。
「いかなる宗教的信条を標榜でき、自由であり」、国家とは無関係に宗教施設へ出向くことができる、と。現実はどうか?
2008年、民主主義国家インドとは対照的に、この国は右派聖職者と軍部の支配するイスラム軍事国家となっている。

マドラサ。その、パキスタンの修学人口の10%が通うとされるイスラムの宗教学校では、いったい何が教えられているのか?
驚いたことに、1977年の軍事政権誕生以来、多くのマドラサでは数学や科学といった世俗的科目が廃止されたそうだ。さらに我々が予想する信仰の柱、すなわち祈り、慈善、巡礼といった教育も廃れ、いまでは「非イスラーム的不純物の排除」、「ジハードの義務」についての教育が柱に据えられているという。(191~193頁)
2002年に当時のムシャラフ政権が明らかにした「経済学、コンピュータ、英語、数学等の近代的教育の導入」は掛け声だけに終わった。政府のも積極的に導入する動きはない。

これでは、成人後に依って立つ手段は宗教だけとなる。そして組織が戦士を必要とするとき、暴力機構の一員となる。そしてジハードに赴き、殉教者となる。
それでも、教育・宿舎・食事が無料であるため、全国1万のマドラサで100万人もの貧しい若者が勉学に励んでいるという。
2007年にイスラマバードで起こったラール・マスジッド=赤いモスクでの立て籠もり事件は記憶に新しい。あの武力による強制排除で、何人の学生が命を落としたか。
教育の歪み、では片付けられない。伝統的宗教と社会構造の問題ではあるが、あんまりだ。

独立以来、対立を宿命付けられてきたインドが、事実上、南アジアを支配する。その現実への対抗上、歴代の文民・軍事政権は西アジアに軸足を置き、隣国アフガニスタンに親パキスタン政権を確立することを絶対使命としてきた。
1989年にアフガン・米ソ代理戦争が集結した。力の空白に据えようとしたパシュトゥン人の軍閥リーダに見切りを付け、パキスタンが後押ししたのが、タリバンであった。1997年のクーデターで権力を掌握したムシャラフ将軍は、イスラーム化された軍部の全面協力を持ってタリバンを支援した。

2001年9月、「従わねばパキスタンを石器時代に戻す」とのアメリカの”恫喝”により、パキスタンは文字通り「一夜にして」タリバンを捨て去った。後に、ムシャラフ大統領が独りで決断したことが明らかにされている。しかし、カシミール紛争と密接に関連したテロ組織を切り捨てることは難しく、下っ端テロリストの逮捕を数百人単位で逮捕する一方、タリバンとアルカイダの幹部を自国内に匿う「二枚舌外交」を、欧米の非難を受けながらも続けてきた。
そして2007年の、赤いモスク事件だ。総選挙に敗れ、国民の不信が増大する中、ムシャラフ大統領は影ながら養護してきた過激派の切り捨てを決意する。
本当の意味での転機。
かわいさ余って憎さ百倍。以降、今日に至るまで、タリバンはパキスタンをも攻撃の対象とした。ラホール、カラチ、ファイサラーバード。そして首都イスラマバードで、今日も自爆テロの犠牲者は後を絶たない。

巻末。訳者による解説に記された、元駐パキスタン大使である小林俊二大使のコメントが興味深い。大使曰く(2008年より政権の座にある)PPP=パキスタン人民党は、封建的地主の利益を代表する政党であり、零細・土地無し農民をはじめとする庶民の代表政党が存在しないことこそ、パキスタン政治の最大の問題である。
なるほど。軍部によるクーデターが支持され続ける理由が、ここにある、か。
暗殺されたブット氏の夫である現大統領、ザルダーリー氏も汚職の噂が絶えない。欧米諸国から絶大な信頼を誇る現在の陸軍参謀総長、キヤニ将軍の動向が注目されるな。

2009年6月現在、アフガニスタンに隣接する連邦直轄部族地域と北西辺境州を「タリバンの巣窟」と見なし、米軍とパキスタン軍による大規模な対テロ作戦が進められている。市民を含む死傷者、避難民の数は統計すら出されておらず、長い間、治外法権であったパシュトゥン民族の牙城も、瓦解しようとしている。
で、追い落とされたタリバンは、どこへ向かうのか? アフリカのスーダン、ソマリア、騒乱状態にあるケニアあたりだろうか。一部は東南アジアへ流れ、「アメリカの同盟国」日本へのテロ活動も視野に入れることだろう。
目が離せないな。

The True Face of Jehadis
ジハード戦士 真実の顔
パキスタン発 = 国際テロネットワークの内側
著者:アミール・ミール、津守滋、津守京子(訳)、作品社・2008年7月発行
2009年6月28日読了