1919年にミュンヘンで行われた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者による講演録だ。

20世紀初頭、徐々にアメリカナイズされたドイツの大学。その研究室を資本主義的にとらえている点が面白い。助手は資本主義に特有の「労働者の生産手段からの分離」を例に、助手が労働者=プロレタリアート、研修所長が資本家に例えられる。その報酬も未熟練労働者に近く、週12時間以上の講義を受け持ち、初級学生から中級までの学生を相手にせねばならない。従来の「講義は週3時間のみ。あとは自分の研究に没頭」できる"ドイツ的私講師(研究助手)"との対比を明快にする。(ただし後者は無給で、受講者からの講義料で生計を立てている。当然、大貧乏。)

さて、この講演には、ただ仕事をこなすのではなく"価値ある仕事"を成し遂げるための心構えがふんだんに盛り込まれている。
・いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値である。
・有意義な結果を出すためには、思いつきを必要とする。その思いつき=霊感こそ、人が精出して仕事をしているときに限って現れるものであり、マニア的な限りないの作業と情熱の合体を必要となる。
・仕事に専念する人のみが、価値を生み出すことができる。自己を滅しておのれの課題に執心すること、専門分野に絞り、脇目もふらずに没頭した人物だけが、後世に残る業績を上げることができる。

過去の時代の学問と、今日のそれとの対比も面白い。手探り状態の盲目な大衆に与える光を探求するのが古代ギリシャ、プラトン時代の学問なら、社会生活の中に真実を見いだすのが20世紀の学問とされる。また、近世(16世紀)には、哲学に代わって神への道を見いだすのが自然科学の使命であったのに対し、現代科学で神の道を探求する者などいない。
ただ、学問(と自然科学)は完成するものではなく、後世の新発見により、より進歩を遂げるものである。一生かけて成し遂げた実績も、次の瞬間には新しい業績に取って代わられる。その宿命に覚悟を持ち、学問に邁進せよ、と著者は説く。

・指導者の体験を求めるのでなく、やり方と選び方を習得することこそ、学問の王道だ。
・神学は学問に非ず。合理主義の外部に奇跡や啓示といったものに頼る宗教者=「知性の犠牲者」と学問は相容れない。(とすると、創価学会って、何だ?)
・弱さとは、時代の宿命をまともに見ることができないことだ。

いたずらに待ちこがれているのでなく(=自分探しに運命を任せるのではなく)、職業に就き、その日々求められる仕事をこなしていこう、と著者は締めくくる。
小冊子として気軽に読み始めたが、なかなかどうして。世に残る書物の力、侮り難し。

Wissenschaft Als Beruf
職業としての学問
著者:マックス・ウェーバー、尾高邦雄(訳)、岩波書店・1993年5月発行
2009年6月30日読了