ロンドンの史実=18世紀の大規模なカトリック教徒への迫害事件を背景に、精神障がい者だが心優しく純真な青年=バーナビーを主人公に、一方で人の堕落と暴虐性、もう一方で集団の悪行に対する不屈の闘志、人の高潔な意志と行動とを礼賛する長編だ。

恥ずかしながら、ディケンズの作品をじっくり読むのは初めてだ。だが19世紀大文豪の生み出すストーリーもキャラクター造形も、その細かな仕草までがすばらしく、文学の醍醐味を十分に味わえた。
これは訳者である小池滋さんの力に寄るところも大きいのだろう。

ディケンズの作品の特徴の一つに上げられるのが、痛烈な社会風刺だ。
巻末の解説により、作品生まれた背景=ヴィクトリア社会だけでなく、ディケンズの過酷な少年時代が、まさに社会派文学の素養を築いたのだとわかる。
・……法の強い腕は危急の時にはみっともないほど麻痺してしまったくせに、すべてが安全となった今はあまりにもわがもの顔に横行しているのだから。(816ページ)

・要するに、暴徒として処刑されたのは主として、もっとも弱い者、…哀れむべき連中だった。悲惨を生み出した原因たる宗教的情熱が、いかにまやかしであったかを如実に風刺する事実があった。処刑囚のうちの何人かが自分たちはカトリック信者だと名乗り、死に際にはカトリックの僧侶に付き添ってもらいたいと願ったのである。(816ページ)

そして人生観を満たしてくれる宝玉の言葉たちの宝庫でもある。
娘のように愛する姪と宿敵の息子の婚姻を祝福し、自らは「人生のゴール」へと旅立つ決意をした、作中の高潔な人物、ヘアデイル氏に語らせる。
・目的が正しかったのだから正しいのだ、なんぞともっともらしい口実を設けて、正義の道からこればかりもそれることは絶対にいけない。すべて正しい目的は正しい手段によって達せられることができるのだから。(825ページ)

64章のニューゲイト監獄襲撃の場面は圧巻だ。もはや目的は二の次で、破壊と暴力に酔いしれ、自らの命すら軽視する集団陶酔の恐ろしさ。襲撃される側の恐怖もセリフが一切無いにもかかわらず伝わってくる。その集団暴力のなかでただ独り、本当に独りで正義を主張し、殺戮の恐怖にさらされながらも主張を曲げない本当の勇気が、こころを奮い立たせた。

ところで、プロテスタントとカトリックは互いを「異教徒」と呼ぶのか。
すさまじいまでの対立は、容易に暴力を引き起こす。
ウェストミンスター大聖堂と言えば、王族の戴冠式や結婚式が行われる英国教会の総本山であり、ロンドン観光のハイライトでもある。で、音声解説器(ありがたいことにタダだ。日本語もある)を借りて1時間かけて内部を観光する。観光コースの最後には、わびしい広場にたどり着くこととなる。2010年5月に訪れた際、ここがカトリックの修道士の生活の場であり、徹底的な破壊されたことを知った。
カトリックの修道院を、国教会が奪い取ったのだ。
剥がされた宗教画の一部が、そのまま遺されていたが、すべてを奪われたカトリック修道士の無念さが伝わってくる想いがした。

終わり良ければすべて良し。やはりハッピーエンドは清々しい気分にさせられる。まさに健全小説だ。

それにしても、二人の人物が好印象だ。
まずはヘアデイル氏。一見、洗練されていない野生の男に見えるが、れっきとした紳士であり、亡き兄より預かった娘を幸せにすることを生涯の目標としている。兄殺害の巻き添えとなったバーナビーの未亡人と息子を事実上養い続け、もう一つの目的を完遂するため、人知れず努力を続けている。

そしてゲイブリデル・ヴァーデン氏。ひとり娘を溺愛し、気さくで暖かく、毎日奥さんとメイドの尻に敷かれながらも家業=鍵屋の仕事に精を出し、夜はビール一杯のトビーを気持ちよく傾ける中年男。騒乱のときには市民の正義を貫き、死を目前しても悪行に屈しない姿は感動的だった。
物語ではバーナビーが主人公だが、この二人こそ、人生の勝利者であり、真の主役と呼べるのではないか。

BARNABY RUDGE
バーナビー・ラッジ 一七八〇年の騒乱の物語
著者:チャールズ・ディケンズ、小池滋(訳)、集英社・1990年6月発行
集英社ギャラリー[世界の文学3] イギリスⅡ所収
2010年8月28日読了