小説における生理、心理、社会の統合を唱え、「真空地帯」で知られる作家、野間宏。その1970年代以降の短篇の集大成であり、おそらく最後の小説集だろう。

収録される4編は1979年から1982年にかけて発表された。環境問題を題材に"人間の業"が顕現化される。"エコロジー"や"地球環境問題"等の言葉が使われ出す20年以上も前から、警世的な作品が著述されていたのか。

「タガメ男」
落雷により絶命したと思われた大男、岩見=村の嫌われ者を取り囲み、まだ息のあることを知る滝代たち。完全な殺害の相談の最中で岩見が息を吹き返した瞬間の恐怖が、ありありと伝わってくる。偽りの仮死。
滝代の育ての親であり、"虫屋"の師匠であった"タガメ男"、岩見は、近郊の町で金融屋として大成し、村のVIPとして凱旋する。気前よく融資を受けてにわかに羽振りの良くなるのは、素朴な村の衆。地獄絵図の始まり。
岩見に強要されて墓穴を掘る滝代たち。金と暴力が支配する村。解決策は見いだされない。
貧しい山間の農村で、さらに田畑を持たない者たちは"虫屋"を生業にせざるを得なかった。その先の金融屋。はっきり表現されないが、野間宏の着眼した被差別部落の存在が伺える。
持たざる者の生業が、タガメ等の絶滅=生態系の変化によって脅かされたとき、新たなスキルを身に纏うしかない。その結果の下克上。暴君に変わるのは蓋然性が高いと言える。

理性・知性といったものをなぎ倒す暴虐性。露骨な欲望。これが現世。生々しい人間の世界。

「青粉秘書」
東京の大学を出ても勤め人生活に馴染めず、故郷に舞い戻った30代の江橋。実家の土産物屋と民宿は潰れて人手に渡り、両親は気力を失うように亡くなった。古里。でも古里に非ず。
ブルドーザーが日本各地を走りならし、日本開闢以来の土壌をコンクリートとアスファルトで覆い尽くしたのが高度経済成長時代だ。江橋の故郷も同じ光景に塗り替えられていた。"護岸工事"と称して自然の湖をコンクリートで囲ってから、水質汚染と観光客の減少に悩まされ、命綱の温泉の水脈も細るばかりだ。
太るばかりなのは、田畑を買い占めて市の行政所掌範囲に似非温泉街を計画する不動産屋と、修験道を取り入れたヨガ教室と自称する怪しげな新興宗教団体、彼等と手を組む信用組合の三者だけ。
その三者も、秘書と称する影の実力者に支配される構図。権勢維持のため権力にひれ伏す様は、あまりにも悲しい。

ヨガ道場で裸体の直立が江橋を取り囲む。人を圧する強靱な静けさの威厳。その描写は感動的だ。

「死体について」
深夜1時の出勤。急な葬儀屋への"特別な依頼"は、従業員の自由を奪う。途中の検問で1時間も待たされるが、警官の態度は傲慢だ。
"特別な依頼"と今夜の"事故"との関連が示唆されるが、真相は明らかにされない。
過去に左翼ゲリラと関係を持ったと思われる谷杉の姿は、警察権力への反発だけでなく、自身が拘束されることを脅えているようだ。むしろ、それを同僚に悟られることこそ、最大の恐怖かも知れない。
突然の出勤中止命令。それでも「俺を呼ぶ死体」のもとへ急ぐ。死体を水で清めることが、彼の人生の意味なのだから。

壊れたどぶ板、敷地からせり出して拡張されたバラック小屋、これから向かう家の「電話などでは言えない」"特別な何"か。差別されてきた社会の描写は間接的だ。

他に「泥海」を収録。

それにしても、近年の読み慣れた小説と違うのは、意図的に読点を多用した文体を形成していることだ。附属の解説書(藤原書店の月刊 幾)によると、口語散文による近代日本文学のの限界を知り、あえて西鶴、近松まで遡航し、多様な日本語表現の可能性を試みたらしい。
ここ数年の文学賞受賞作と異なる、洗練ではなく「濃く、深い」作品世界を味わえた。

死体について 野間宏後期短篇集
著者:野間宏、藤原書店・2010年5月発行
2010年9月28日読了