2009年6月に津田塾大学で開催された対談「21世紀の国家とアイデンティティ」を収録。

・国家とは物理的な強制力を背景にしながら集団的な意志決定を社会の中に貫徹しようとする組織体である。この定義は揺るがない一方で、"意志決定"の主体が問題となる。

・ナショナリズムとは、国民が国家の主体を成すと主張する政治原理であるととともに、国民主権の"国民"とは誰を差すのか、国民となりうる要件は何か? を探究するアイデンティティの問題を提起する。特に後者は、他者の排除や特定行為の強制が伴う場合がある。(2010年フランスで制定された、ムスリム女性に対する公共施設でのブルカ禁止法もこの一環だな。)

・ネーションは、すでにまとまりのある統一体ではなくなっている。同じ日本人であっても東京都の中間層と地方過疎地の貧困層では別世界の様相を呈しているように。=国民性の解体。(僕自身もそのように感じている。)
これは国民の普遍性や同一性を破壊してでも市場原理を導入しないと、資本主義世界で国家の生存が危ぶまれる状況にあるためで、グローバル化の進展に基づく避けられない事態だ。
一方で"国民"基盤の崩壊を防ぐために国家主義の導入が不可避となる。フランスで極右政党が躍進したように、西欧でも似た状況にある。→ 国民主義なき国家主義へと向かわないと、社会の統一性を保持できない事態が生じている。
(2010年11月のアメリカ中間選挙でTea Partyが躍進したのも、その流れなのだろうか?)

・大日本帝国憲法では日本人民は"臣民"とされる。この言葉は明治以前に無かったことから、日本古来の天皇を中心としたアイデンティティに疑問が提起される。
(日本では人民との言葉は使わない。主権在民だから"国民"だ。中国では国民とは呼ばない。なるほど、共産党一党支配に従属する"人民"か。)

・世界の他の国と異なり、日本の場合、国民を定義するのは国籍ではなく「戸籍」だったし、現在もそうだ。かつての内地戸籍、朝鮮戸籍、台湾戸籍の区別が、日本国民の中に別の地位を形作っていた。

・大日本帝国から日本国への転換に際し、アイデンティティも変化した。臣民から国民に昇格した一方で、帝国支配民族としての地位を喪失した。潜在的に沖縄を植民地として扱っているのは、帝国意識の残像だと言える。
また、内地に残された朝鮮人や台湾人は"在日"として空白の扱いとされ、旧植民地の日本人"=残留孤児もあえて見えない態度を取ってきた。これは単一民族的なナショナリズムを維持するためであるが、すでに虚構に陥っている。日本語も、すでに日本人だけのものではない。

・戦後アイデンティティは明確な土台がない。そのため種々の日本人論が生まれ、日本人とアメリカに向けて発せられてきた。戦後日本人の自己意識の不確かさ、不安定さを象徴するものだ。

・世界のフラッット化は国民の消滅を意味しない。異動の自由、富の分配度など、グローバリゼーションの進展により、国籍の違いがより非対称に明確化される。

表題の"国家とアイデンティティ"の関係を定義しきれないまま議論が終息した感がぬぐえない。続編を希望する。

近代国家の統一性の保持するには、比較・敵対できる外部勢力が必要と言われる。中国にとっては日本あるいは米国か。日本にとってかつて旧ソ連がそうだったが、現在では"外部勢力"が失われている。国としてまとまりがない原因がそこにあるのなら、"対中国共産党一党支配国家"で一致・邁進するのが手っ取り早いようだ。(いつか来た道?)

岩波ブックレットNo.772
国家とアイデンティティを問う
著者:C・ダグラス・スミス、姜尚中、萱野稔人、岩波書店・2009年12月発行
2010年11月18日読了