"新青年"誌や"探偵文藝"誌等に収録された、上海を舞台とした短編が収録される。
"探偵もの"と言えるのか微妙な作品も収録されているが、大正・昭和初期の日本ミステリー短編集と思えば問題ない。

グレゴリ青山氏のイラストが秀逸な、巻頭30頁にもなる上海事物の解説も良い。

中盤以降の作品は面白くなる。特に後半に収録される、日本敗戦前夜の上海を舞台にした二つの作品は圧巻だ。
『変貌』
大本営発表に頼らず、ナマ情報を求める企業・個人に真贋混ざった情報を売りつける知人、広岡と20年ぶりに出会った宗方。広岡の豹変した相貌と、刻み込まれた刀傷の謎。敗戦前後の出来事を語る広岡。ロシア娘を巡る三角関係が招いた事態とは……。
ポツダム宣言受託の報が伝わると、中国人の日本人に対する態度は一変する。日章旗は引きずり下ろされ、路上に一斉に翻る青天白日旗。抑圧されてきた民衆の歓喜の声。積もり積もった東洋鬼=日本人への恨みは、暴力にて復讐される。
昨日の友は今日の敵。同僚を、友人を、無実の行為を中国人官憲に密告し、生き残りを賭ける日本人の姿には目を覆いたくなる。タイトルの"変貌"の深い意味。
宗方に会いに来た広岡の意図も明らかになる。

『鉄の棺』
むき出しのハードボイルドさが良い。日本人と中国人のハーフとして生まれ、日本人として育てられた男、孫。日本軍参謀本部直属のテロリスト要員として、上海で暗躍してきた彼に、敗戦色濃厚な時局は残酷な運命を課すことになる。
裏切り、裏切り、裏切り。アイデンティティの喪失感の強まる中、信頼できるのは唯一、愛用の拳銃だけだ。
中国裏社会の掟。青幇の執念深さと恐ろしさ。アメリカ海軍の機雷と潜水艦の脅威に晒された絶望的な船団の逃避行。極限状態で運命のサイコロにもてあそばれる尊厳。
人間なんて、あっけないものだ。

上海・虹口地区は2010年4月に観光で訪れたことがあるが、日曜日の"のみ市"が開催されていたことから、建物をじっくり見ることができなかった。もう一度訪問し、日本租界の残照と、確かに存在した日本人の生活ぶりを確認してみたい。

外地探偵小説集 上海篇
編者:藤田知浩、せらび書房・2006年4月発行
2011年5月25日読了