本書は、長らく日英文化の架け橋を担ってきた著者による、ロンドン漱石記念館設立までの経緯と、ロンドンのあふれる魅力についてのエッセイである。
特に英国留学を迷っている若い人には、そっと背中を押してくれるはずだ。

著者はロンドンのホテルマンとして出発し、漱石の留学時代の足跡を追い、最後の滞在先であるザ・チェイスの正しい番地を確認する。さらに旅行会社を経営しつつ、埋もれていた漱石と同時代の日本人画家、牧野義雄の滞欧中の作品と生涯に魅せられ、広く日本に紹介してきた。
僕自身も氏の著作(『牧野義雄のロンドン』雄山閣)により、その存在を知るに至った一人だ。画集も買ってしまった。

・留学中の著者が倫敦塔のベンチで捉えた夏目金之助への"共感"。すべてはここからはじまる(p34)。クレイグ氏の自宅の発見、漱石最後の下宿先の"正しい番地"の再発見など、漱石にまつわる貴重な業績を「ホテルに勤務する一民間人」として成し遂げるに至る。

・ロンドンの旅行会社に勤めながら(後に経営者)夏目金之助と牧野義雄の研究を続け、膨大な史料を収拾し、滞欧日本人学者などに閲覧を請われて応対するようになる。
ザ・チェイスの漱石最後の下宿先の斜向かいに自宅を購入し(これはスゴイ)、ついには自宅を改装して「ロンドン漱石記念館」開館となる。
ロンドン漱石記念館はガイドブックによりその存在を知ってはいたが、著者が私財を投じて設立したことには驚かされた。冷静な情熱は何ものにも勝るということか。

・牧野義雄の研究には新聞広告も利用したとのこと(p88)。ホームズものでよくある逸話だが、地道な努力と時間と投資(私財だ)が現実に大きな成果に結びついたことを思うと感慨深いな。

・日本を代表する文豪の漱石だが、西洋での知名度は皆無だそうな。漱石自身「私の作品で西洋人に読んでもらいたい本は一冊もない」(p99)と述べていたことも興味深いが。
その漱石の作品を西洋に拡めることも記念館の目的に含まれるとある。なるほど。

・サマーセット・ハウスでは誰でも遺言書を読めるそうな(p110)。日本とずいぶん違うな。

・イギリスの美点の一つに、街並みが百年前と変わらないことが挙げられる(p168)。同感だ。私事だが、歴史的建築物(タウンハウス)に囲まれた一般市街地で、それも石畳の広い道路をジャガーやBMWが疾走する様をこの目にしたときはちょっと感動したのを憶えている。(Baker streetの西隣、Gloucester placeでのこと。)

・英語について、著者はアメリカ語ではなく、全世界をカバーできるイギリス語の習得を勧めている(p196)。WEB世界ではアメリカ語が覇権を確立したと思っているが、実のところはどうなのだろう?

・1860年代の日本人留学生のエピソードは、より拡く知られても良いだろう(p221)。

ハイド・パークのスピーチで鍛え上げた著者のユーモアと相まって、楽しく読める。
後半のエピソードは、外国における日本人の立ち居振る舞いについての示唆とも言える。
現地に深く溶け込むことでわかる現実。
第二次世界大戦における日英の対立の残滓は、現在でも健在ということ。その溝を埋める努力は欠かせないし、この時代を生きるためにも外国経験が必要だとわかる。
手元に置いておきたい一冊となった。

こちらロンドン漱石記念館
著者:恒松郁生、中央公論社・1998年8月発行
2013年7月20日読了