1920年代の著作なるも、その普遍的な内容は2014年の日本をとりまく環境においても大きく示唆されるものがある。

表題作『象を撃つ』はビルマ勤務時代の経験をもとに書かれた。作業役務のために飼育されている象が逃げ、暴れ、地元住民を殺す。人の尊厳など微塵も感じられない、むごたらしい死体。象使いを待つという合理的な判断に勝るのが、軍警察としての自分への住民の期待だ。"白人の旦那"としての責務、"土民"の崇拝に応えなければならない重圧。帝国統治者としての宿命がそこにある。
帝国統治のシステムが凝縮された日常をオーウェルは鋭く突く。

『ビルマの独立』では民族自決権(オーウェルはこの表現を用いていないが)とマイノリティの問題に触れる。
「実のところ少数民族の問題は、ナショナリズムが実量を保っている限り、文字通り解決不可能なのである」(p286)
ウクライナ、新疆、チベット、カシミール、イラクに示されるまさに今日的問題。根は深く容易ならざる解決への道。それでも手探りと知恵で進むしかないことが示唆される。

『全体主義の下で内面の自由があるか』(p249)は小編なれども本書の肝ではないだろうか。
人の思想を束縛する環境、独裁的政府下では個人の内面すら自由ではないことが示される件は、時と場所が変節しても不変の事実である。
今日で言えば、中国共産党独裁下の支那の人民には、もはや基本的人権の意味を問うことすら覚束ないのであろう。これこそ専制支配の最大の恐怖と思える。

パブリック・スクール入学前の幼年期~少年期にかけての思い出を綴った『あの楽しかりし日々』は、そのタイトルと裏腹に自らの教師から受けた仕打ちと大人を見る目が述べられる。独自の規範を持った子供たちの世界。勇気や根性、すなわち「自分の意思を相手に押しつける力」(p213)が大切とされ、親の年収が子本人の地位も決めてしまう、そんな30年前の世界をオーウェルはかえりみる。
忘れ去った自分たちの子供時代を思い出し、子供たちは水中ともいえる一種別の世界に生きていることを大人は自覚する必要がある(p229)。
想像力に頼るのではなく、自分自身の記憶を蘇らせることによってのみ、子供の世界像を、その歪んだ世界観を認識することができる(p232)。
「弱者は自分たちのために違ったルールを作り出す権利があるということがわからなかった」(p221)のは当然で、これは大人の世界の知恵でもある。
2014年7月のBRICS銀行設立など、まさにそうではないか。

帝国の辺境での勤務を打ち切り、祖国イギリスへ戻ったオーウェルは執筆に専念する。強者が弱者を支配する帝国主義の矛盾、貧富の格差が作り出す人間性の歪みが深く追及された末に『パリ・ロンドン放浪記』『動物農場』が生み出されるのである。

オーウェル評論集1 象を撃つ
著者:George Orwell、川端康雄(編)、平凡社・2009年11月発行
2014年8月1日読了

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