小野君は貧しい生い立ちから勉学に励み、文学士に上り詰めた。卒業の際に賜った銀時計を胸に東京で教鞭をとる日々の最中、縁深い恩人である井上親娘が上京してくる。5年前の娘との"約束"は高度文明社会の中に置き去りにされ、小野君は教え子で資産家でもある甲野藤尾との結婚を目論むが……。

出世欲と人情とのはざま、甲野欣吾と藤尾の兄妹、宗近一と糸子の兄妹が物語に絡み、20世紀初頭の都市で生きる苦しみが滲み出てくる。

・藤尾がクレオパトラなら、その母親はマクベスの魔女か。九章に母親の狡猾さが如実に表れている。

・十一章、小野君が小夜子と東京勧業博覧会の茶屋にいる現場を目撃した藤尾の、凝固した様子の描写は見事だ。

・クライマックスの十八章、おもしろ武骨な宗近君の「真面目さ」が発揮され、ある意味すがすがしい結末を迎える。「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ」(p420)。男ならかくありたいが、しかし、"金の鎖の付いた蛇"を投げなければ、藤尾の運命も変わっていたのかもしれない。宗近君の"行動"はすべて正しかったのだろうか。疑念は拭い切れない。

漱石らしい文明万能主義への批判は健在だ。「日本でもさうぢゃないか。文明の圧迫が烈しいから上部を綺麗にしないと社会に住めなくなる」「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の○丸をつけた様な奴ばかり出来て…」(p348)と容赦ない。

うわべに目を奪われず、人間性を信じて行動に出ること。漱石のメッセージは深く、そして暖かい。


虞美人草
漱石全集第四巻所収
著者:夏目金之助、岩波書店・1994年3月発行
2015年1月18日読了

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