かつて東京の一大名所であり、文明開化に沸く明治を象徴した浅草十二階=凌雲閣。
本書は、展望階からの「眺望」と「パノラマ」に田山花袋、石川啄木ら文芸人の作品を交えて深い考察を加えつつ、明治・大正期の文化の一断面を読み解いてゆく。

・レンガ造り10階の上に2階の木造展望台を有する52メートルの高楼。本書口絵の『新撰東京名所図会』を眺めると、当時の東京では確かにこの"尖塔"は突き抜けている。大池に映る姿はさぞ魅力的だったであろう。そして、あの"吉原"を見下ろせるところに、この高楼の"重要な付加価値"の顕れることが、本文の随所に示される。

・下足番に履物をあずけて日本初、いや、まだ世界的にも珍しい最新の"電動式エレペートル"に揺籃されて一気に8階まで駆け上る(p41)。近くは浅草や上野のみならず、宮城を中枢とする東京全市を見下ろし、果ては富士山や筑波山まで見渡せる素晴らしき眺望となる(p48)。

・故障続きのエレベーターは開業半年で操業停止に追い込まれ、観客に階段を昇らせる次の手が「百美人」だ。このアイデアが帝大工科大講師にして凌雲閣設計者、バルトンの写真趣味によるものであり、日本写真界の先達である小川一眞(千円札の漱石の写真撮影者)との交誼によるところは興味深い(p82,94)。

・当時の広く開けた東京では、眼下に手が届くほどの「適切な低さ」は、ある効果=天然のパノラマ的な眺望をもたらした(p14)。パノラマ、この「奥行きを生み出す体験」(p106)についての深い考察が森鴎外、田山花袋、石川啄木、江戸川乱歩、ベンヤミン、吉井勇らの作品を参照しながら第4章から第12章まで展開され、本書の大きな特徴をなしている。

パノラマに関連し
「日清戦争は当時求められていた『他国によってまなざされた日本』を、メディアによって顕そうとする戦争でもあったのだ」(p152)
との記述は合点がゆく。そして現在もそれは変わらないし、独善的愚行に陥らないためにも必要かつ重要なことだと思う。

明治20年代の観光界を席巻した凌雲閣も次第に飽きられ、活動写真や浅草オペラが流行した明治40年代には閑古鳥が鳴き、その役目はもっぱら広告塔となる。末期には利用価値もなく、もっぱら催し場としてのみ機能していた。そこへ大正12年の9月の関東大震災である。8階よりポキリと折れた残骸が陸軍工兵隊によって完全破壊される様子は、がぜん、群衆の注目を浴びる。最期になって、忘れられていた「眺められる」感覚の呼び戻されたことは、塔にとって感慨深いことであったろう。

浅草十二階 塔の眺めと<近代>のまなざし
著者:細馬宏通、青土社・2011年9月発行
2015年10月12日読了

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