タイトルから政治エンターテイメントを予想していたが違った。1907年に発表された、世界屈指の大都会ロンドンを舞台に繰り広げられるコンラッドの群像劇は、ひとの弱さと悲劇を見事に描き切る。

作品の内容からみて、タイトルは"密偵"ではなく、"シークレット・エージェント"のほうが良かったのかもしれない。

世界帝国イギリスのひとつの象徴でもあるグリニッジ天文台の爆破。それが長年、"某帝国の密偵"を務めたヴァーロック氏に課せられた新しい使命。
3人のアナーキストに爆弾魔、国会議員とその私設秘書、スコットランドヤード屈指の辣腕刑事と、その上司である警視。みながみな「私的な理由」で正義を追及する世紀末の濁世において、ひとり純粋さを保つunbalanced manと、その姉にして密偵の妻。11章の殺人シーンは圧巻だ。

・「手段を選ぶ際して逡巡を捨てる決意。破壊者の名を公然と受ける強さ。人間のための永遠の死を志願し、腐敗した世の中に蔓延する諦めきったペシミズムに染まらない者たちの集団」を夢見る(p63)老アナーキスト、ミケイリスの語る理想の集団は、ISISの迷い宣うところに似ている。
・プロレタリアートの先導者を自認する社会革命家を「社会の因習の奴隷だ」と蔑む爆弾魔"プロフェッサー"は「絶対に一人で仕事をする気概」(p103)を持ち、コートの下に爆弾を常時携帯していることが自慢だ。「遵法という迷信めいた信仰を打破すること。警官が白昼堂々、社会主義者を射殺するような世界」を夢見て「完全な起爆装置」の発明に執念を燃やす人生。これもひとつの人生か。
・中央赤色委員会の指令下、秩序だった社会が顕現する未来。これがオシポンの理想。テロリストといえど、崇めるところは三者三様か。

計画に失敗し、グリニッジパークで誤爆する爆弾。木っ端微塵となった爆弾所持者。捜査中に発見した衣類の切れ端に縫い付けられたネームタグから、ヒート警部はヴァーロック氏の住居兼店舗にたどり着くが……。

読み進めるに従い、本作の主人公はヴァーロック氏でもヒート警部でもなく、ある女性であることがわかってくる。それはコンラッド自身による「作者ノート」にも記されている。
悲しい運命の人、ウィニー夫人と純粋なスティーヴィーの魂に安らぎあれ。


THE SECRET AGENT
密偵
著者:Joseph Conrad(Teidor Josef Konrad Korzeniowski)、土岐恒二(訳)、岩波書店・1990年6月発行
2016年3月15日読了

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