1916年の英仏によるサイクス=ピコ協定から、2016年の米ロによるケリー=ラブロフ協定へ。本書は、世紀を超えて域外大国の重層する思惑に揺さぶられる中東政治を考察し、中東「再編」の近未来まで見据える。最新のトピックもふんだんに盛り込まれ、好奇心が刺激される好著だ。

冒頭、「サイクス=ピコ協定は、中東の国家と社会が抱えた『病』への処方箋だった」(p17)は唐突だ。同協定を中東の混乱の原因でなく、「オスマン帝国の崩壊後の混乱に対する(上手くいかなかった)一つの『解決策』として捉える」(p28)の記述はわかりやすいのだが。

第1章では列強の思惑と行動、周辺大国の欲望、トルコ民族主義の台頭の観点から、サイクス=ピコ協定、セブール条約、ローザンヌ条約をセットとして捉え、トルコと中東諸国家の成立をみる。
・オスマン=トルコ帝国の解体と、中東における列強の勢力拡大を意図して、英仏露の間で秘密裏に締結されたサイクス=ピコ協定の線引きを取り消す。もちろん不可能な仮定であるが、数多の仮説・試みを「オスマン帝国の専制・イスラーム法の支配」への委託を前提に論述することは、議論を矮小化させるように思える(p25)。また、これらの議論を「ISISの事例」をもって片づけることは、いささか強引だろう。
・「素人のあてずっぽう」(p22)「そのような議論」(p25)などの表現。これはいただけないな。
・サイクス=ピコ協定の現代的意義を考察する記述、特に中東秩序再編の鍵となる各国の政治・経済・社会体制の再編、地域大国の間の均衡の達成、域外の大国の協調の記述には納得がいく(p50)。
・第1章の末尾、「現在の中東の混乱の収拾は……格差や不公正……戦略的・地政学的な競合……多種多様な難題への取り組みを経てやっと到達できるものだろう」に強い共感を得た。複雑なパズルを前にして、一歩ずつ解き明かし、理想的現実を構築する冷静な熱意は確かに必要だな。
・事象を深く理解する必要性。「関与して解決する能力を担う力」の育成(p22)には、まったく同意する。

クリミア戦争をはじめとする露土紛争と2010年代のロシア-トルコ間の対立の相似性が論じられる第2章も興味深い。「トルコと西欧諸国が根底で抱える相互不信」(p69)の上に、ロシアによるクリミア半島併合とシリアへの侵食、それによるトルコ民族主義の再燃が、さらに中東の秩序をかき乱す構図か。

第3章、シリア内戦とクルド民族の自治・独立の記述はとても興味深い。安定したシリアを望まないトルコの思惑。プーチン・ロシアとオバマ・アメリカの対照的な取り組み。非国家主体が統治の実績を積み上げ、大国に存在を認めさせるプロセス。シリア内戦に決着がつくとき、中東の地域秩序の再編が見込まれるとする記述(p99)は、ダイナミックさに満ち満ちている。

第4章は民族問題を取り上げる、本書の中核ともいえる章だ。
オスマン=トルコ時代からの民族間対立、帝国内移民・避難民、少数民族の迫害。2016年6月2日にドイツ連邦議会で「ジェノサイド」と認定された「オスマン帝国によるアルメニア人大虐殺」はその最たるものである。
オスマン帝国の崩壊によって欧米に流れた「難民」と、21世紀・シリア政権の自国民虐殺によって発生し、ジャーナリズムに過大に取り上げられたシリア「難民」は、根は同じであるとわかる。
帝国主義の時代から民主主義の時代へ変遷した欧米社会が、これまで第三世界諸国の混乱から何によって守られてきたのか。これからのEU諸国にとってのトルコの価値を示す「難民の防波堤」の記述には衝撃を受けた(p122)。

最終章。ハリウッド映画「アラビアのロレンス」に示される、中東の未熟な政治体制を翻弄する欧米指導者と、域外大国を利用する老獪なアラブの政治家の姿が印象に残る。
国民や民族の観念、宗教や宗派の帰属意識の組み替え、難民や移民の大規模流動による人口構成の変化。社会の大きな変化を我々は目撃している(p139)とは、その通りだな。


米ロ主導によるシリア内戦の終焉、クルド人の自治・独立、旧オスマン帝国の「秩序」の再編成……サイクス=ピコ協定の功罪と現代的意義、か。中東の未来予測は容易ではないが、20世紀初頭と現在・近未来の国際政治の強烈なリンケージを実感できた。


【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛
著者:池内恵、新潮社・2016年5月発行
2016年6月11日読了

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