淑女は家でおとなしくしていることが美徳とされた時代に、世界の辺境へと勇敢に旅立った7名の女性の軌跡を活写する。

■イザベラ・バード・ビショップ
日本でも著名なヴィクトリアン・レディ・トラベラー。1880年代からカメラを持ち歩き、ペルシャや中国の奥地・揚子江上流地域の写真を残したアグレッシブな女性だ。
ロング・スカートを翻して、コルセットを締め、どのような辺鄙な土地を行くにも「英国レディの装い」を忘れない彼女の気概には感動すら覚える。だが、蝦夷地でのアイヌとの心温まる交流が、彼女の帰国後の講演では"未開の野蛮人との接触"となるあたり、現代のグローバリズムとは一線を画す時代認識の差=帝国意識の顕現がみられるな。
・42歳にしてロッキー山脈の冒険を果たしたバード。男のように馬にまたがり山を駆け、バンガローに泊まり、ウエスタンの荒くれ男たちと邂逅し、「友情と愛をへだてる微妙な、そして喜びに満ちた境界」(p72)に足を踏み入れ、嵐のような熱情さえも超越した思いで、北アメリカの分水嶺に立つ。ダイナミックだ。
・彼女には立派な『日本奥地紀行』があるというのに、本書では日本に関する記述が極端に少ない。また1894年の日清戦争を指して「ソウルに日本軍が侵略してきた」(p123)とあるのはどうなのか。
・晩年のカシミール行。そしてバグダッド、テヘラン、イスファファンへの旅はエネルギッシュな功績だ。

■ファニー・バロック・ワークマン
ロングドレスに身を包み、頭には豪華な花飾りのハットではなく、探検家の被るトビー帽。このユニークなスタイルで自転車に乗り、19世紀末のインドと北アフリカを疾走したアメリカ人女性がいたという。
・アジャンタ、エローラ、タージ・マハル。インドの巨大建築物を写真に撮り、記録し、評価する喜び。そしてカシミール地方ではスリナガルからラダックを抜けてカラコルム峠に達する力量。想像するだけでも満足感の高い旅だっただろう。
・1899年のスルナガル。彼女の記録にこうある。「毎年、雪解けのたびに古代からの作品を自然が新たによみがえらせる。……昔のカシミールのデザイナーの東洋的な想像力をもって見るべきなのだ」(p208) 僕も2007年に訪れたことがあるのでよくわかるぞ。
・1911年にはシアチェン氷河を探検し、専門的な地図の作製に貢献するなど、最大の成功を収める。カラコルム山脈で『女性に参政権を』のプラカードを掲げて写真に納まる姿はファニーだ(p222)。

■メアリ・キングズリ
著名な家族と医師を父に持つレディ・トラベラー、メアリ・キングズリ。帝国主義の先兵である軍人や宣教師ですら未踏の西アフリカの奥地へ足を踏み入れ、学術的にも重要な役割を果たし、その旅行記『西アフリカの旅』で著名人となった女性だ。
・厚いロングスカート、ハイネックのブラウス、頭にはボンネットのスタイルでジャングルを歩き、大河をカヌーで上る。この「良質の分厚い生地のスカート」が、獣捕獲用の杭穴に落下した際に一命をとりとめる要因となるのだから、何が幸いするかわからない(p392)。
・4人のアジュンバ族と共にカヌーでランブエ川を溯り、人食い族として恐れられたファン族の村を訪れ、現地の粗末な小屋に熟睡する。異臭に気づき「頭の上からぶら下がっている袋」の中身を自分の帽子の中に開けると、「足のつま先と目と耳が数個」……(p394)。知的好奇心がすべての感情に打ち克つことを実証する彼女には、部族民も敬意を隠さない。
・危険と困難がもはや挑戦ではなく、一種の中毒(p412)となる。これは冒険者の宿命なのだろうか。
・イギリスにもどってからの彼女は学会で活躍した後、ボーア戦争に看護師として従軍する。戦地で腸チフスにかかって37歳でこの世を去り、水葬されたとある。太く、満足度の高い人生だったろう。

東アフリカを旅したメイ・フレンチ・シェルドンが出立の際に、チャリング・クロス駅である男性から贈られた言葉が印象に残った(235)。
「たとえどんな犠牲を払わねばならないにしても、その仕事にのめりこまないかぎり、何もなしとげられない」
「一生懸命やって失敗しても、それでおしまいになるわけではない」
ん、勇気づけられたぞ。


Victorian Lady Travellers
世界を旅した女性たち ヴィクトリア朝レディ・トラベラー物語
著者:Dorothy MIDDLETON、佐藤知津子(訳)、八坂書房・2002年10月発行
2017年9月15日読了

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