都市犯罪に主眼を置くポー、ドイル等の作品に比べ、移動手段を含む観光ミステリーの多さがクリスティー・ミステリーの特徴である。本書は、年代区分別に、特に戦間期における大英帝国の最盛期から戦後の帝国解体・社会福祉国家への変貌が、クリスティーとその作品に与えた影響を考察する。僕のようなクリスティー初心者にはとても参考になった。

・『茶色の服の男』は、独身女性の南アフリカ行きを視野に置き、汽船、鉄道、地下鉄の登場する初期のミステリーだが、そのヒットの要因を、大英帝国博覧会で露わになった人々の「観光願望」を捉えたものと分析する(p58)。1920年代は貴族・ジェントリにとどまらず、中産階級が帝国の版図を中心に海外へ足を延ばした時代でもあり、夢や憧憬であった「海外観光」を身近に感じられる作品として、時代のニーズにマッチしたんだな。

・1930年代のオリエント=シンプソン急行(p89)を舞台とする『オリエント急行殺人事件』(p98)と、『ナイルに死す』(p109)の解題は有意義だ。大英帝国をこの目で確かめ、明るい未来を確認するという国民の潜在的要望に沿った作品群は、なるほど、ベストセラーになりうるな。

・第二次世界大戦を挟んでの中産階級の境遇の変化、すなわち配給制度の継続、帝国の解体による配当の減少、村への見知らぬ帰郷者の増大等が、クリスティー作品に変節をもたらしたとの分析は秀逸だ(第五章、田園への旅)。『予告殺人』をぜひ読まねば。

・帝国の繁栄と変貌を背景に、「観光」と「田園」が20世紀イギリス人の普遍的な関心事とするなら、なるほど、クリスティーの作品はしっかり応えてくれる。

「空間」の旅、過去を呼び覚ます「時間」の旅。その背景にあるのは20世紀イギリスの繁栄と衰亡か。この視点で作品を読み返してみたい。

アガサ・クリスティーの大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代
著者:東秀紀、筑摩書房・2017年5月発行
2017年12月1日読了

Dscn3008