男ひとり旅の美学

33の国と地域、南極を含む七大陸を踏破! 海外旅行歴28回の「旅の恥は書き捨て」です。愛車BMW M3と読書感想文も。

書籍・雑誌

UNHCR関係から手に取り、そのまま購入した。
短篇が6編。自分の意志で職業やライフスタイルを選び、または勝ち取り、恋愛と仕事の狭間で悩むキャリアウーマンの姿が光る。

「器を探して」
プロポーズが予定されているクリスマスイブの夜、女社長=オーナーパティシエに命じられ、新作プディングに合う美濃焼を探す旅に出た弥生。
魔術的な洋菓子の才能に魅入られ、専属秘書となってはや10年。マスコミに持ち上げられ、有頂天になった社長を支えるのは自分しかいない。そんな自負があるからこそ、自分の恋愛運のなさをなすりつけてくる行為にも耐えてきたのだが……。

「犬の散歩」
ある日、使命に目覚めた専業主婦。その資金繰りのために始めた「夜のお仕事」から、翌日の夜のお仕事までの物語。
ビビとギャル、二匹の犬が少なからず人生観を変える、か。犬を飼いたくなってきたぞ。

「守護神」
一口に社会人学生と言っても、様々な職業と年齢、学業に費やせる時間の違いがある。残業に追われ、職場の理解を得ることもできず、志半ばに去ってゆく学生たち。そんな彼らの救いの女神が、ただでレポートの代筆を引き受けてくれる「彼女」だった。
単位を稼げず、必須レポートの期限も迫り、ようやくのことで「彼女」を探し出した30歳フリーターの社会人学生。だが、「彼女」がレポートを引き受けるのには、ある条件があった……。

「鐘の音」
類い希なる仏師の才能を有しながら、納得できる作品を生み出せない苛立ち。修復師として新たに出発した主人公は、ある仏像に出会う。不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像。3ヶ月に渡る修復の過程で、観音像と一体になるのを悟る主人公。濁世から脱したとの思いが、ある事件を招いて……。
内容にグイグイ引き込まれた。この作品こそ、本書の最高傑作だろう。

[ジェネレーションX]
かつての新人類と、新しいケータイ世代の対峙。これは読み流しだ。

「風に舞いあがるビニールシート」
NHKでドラマ化されたな。
投資銀行からの転職先は、国連難民高等弁務官東京事務所。元上司であり、2年前に離婚した夫のエドがアフガンで死んで3ヶ月。放心状態の続く里佳に、上司のリンダは荒療治をしかける。
華やかな国際公務員だが、フィールド勤務の多いUNHCR職員の場合、1年のうち、夫婦が一緒に暮らせるのは、わずか10日あまり。そのわずかな「日常生活」でさえ、すれ違い、きしみ、夫婦の絆を保つことの難しさが浮上する。
なぜか、暖かな家庭生活を拒み、何もない生活こそ自分の居場所だと言い張る夫。その理由を里佳が知るのは、偶然にもアメリカ人の夫が命と引き替えに助けたアフガン人少女の言葉だった……。
結婚しても必ず肌を離して眠る夫の行動の理由が明らかになる。そして、里佳は決意する……。
感動作です。

風に舞いあがるビニールシート
著者:森絵都、文藝春秋・2006年5月発行
2009年8月8日読了

表題作の中編「姉」は、昭和21年の鎌倉、材木座の海岸を舞台に、新興出版社に勤め口を得た脇村芳子と、支那大陸からの復員兵である西松四郎の出会いからはじまる。
旧制大学卒業と同時に招集され、下士官の洗濯物と格闘し、中国人の家に土足で踏み込み、必要物資を徴発する日々。朝、昼、夜と次々に仲間の兵員が死んでゆく日常が、人間性を枯渇させる。そんな四郎は、消息不明の弟の帰りを信じて待つ芳子に対しても、「もう死んでいる」とドライに突き放す。

東京・銀座。空襲の被害から1年を経過し、復興しつつある雑踏のなか、闇屋、新円切り替えで没落した資産家、強く生き抜く未亡人。
帰ってきた内地=故郷は外観こそ変わりないが、何かが変わってゆく日本人の姿を四郎は感じる。
その四郎が、周囲の人間と付き合い、周囲の自然を観察する中で、失われた人間性=生きる拠り所を見つけ、平時の日本社会に溶け込んゆく。

小説家の森山は捉えどころがないが、終盤で人格者とわかる。

「世の中が必ずよく成ると云ふ確証、人間が不安なしに段々と幸福に成れるのだと云ふ信頼の拠りどころを一体どこに求めてよいのだらうか?」(137頁)

芳子には悲しい結末が待っているのだが、その事実を知った後でも、作りものの笑顔で仕事に臨む姿が強くも痛々しい。だが、これこそ、世界中が身を瞠った奇跡の復興を成し遂げた「戦後日本人の底力」を象徴しているのではないだろうか。

3本の短編はメロドラマが入っている。
「新樹」
ホテルの酒場で独り酒をたしなむ初老の男。かつて恋し、すれ違い、人妻となった女性の妹と、華やかなロビーで再会する。亡き姉の娘の話。驚愕する妹。恨みは募り、男と「娘」の再会には反対するのだが……。

「女人高野」
かしましい20過ぎの従姉妹。ボロ旅館で隣室にやってきたのは、端正なモダン・ボーイならぬ「しわがれたじいさん」。希望を捨てて翌日の観光に夢を見る。
早朝の室生寺の美しさに身を瞠り、その境内に佇むのは、ほかならぬ「じいさん」であった。
老人は語る。京都大学に在籍していた25歳の4月1日、散策の末に発見した早朝の寺。荒れ果てた草地の中、朝日に表れた伽藍の美しさは、35年たっても忘れられず、毎年、その姿を見るためにやってくる……。若い尼僧のすみれ色の袖……。

「熱風」
帝國大学文学部助教授の三村は、妹の友人だった愛子と再会した。七歳年下の、かつて惚れた相手。友人と結婚したが死別し、水商売に身を落とした彼女に、女学生時代のかわいらしさはない。
それでも、堅物の三村は、昔の幻影を引きずったまま、ずるずると愛子にのめり込んでゆく。
棲む世界が違う。それを理解できない三村に愛子は言うのだ。「一緒に死ぬことはできても、一緒に生きることはできない」
で、諦められない三村は……。

昔追い求め、あきらめた夢。その夢を、もう一度かなえるチャンスが巡ってきたら、自分はどうするのか? その問いへのそれぞれの動きが、まさに人の生き様。そんなメッセージが、著者の作品に詰まっているように感じた。

大佛次郎セレクション

著者:大佛次郎、未知谷・2007年9月発行
2009年7月31日読了

「平和な時代に生きていて、
 かつての戦争をなつかしがる人間、
 そんな人間は、希望の幸福に
 お別れした人です」」(9839行)

すべてを知り尽くす。そのために、自らの死後の魂を悪魔=メフィストーフェレスに売り渡し、彼を従僕として18世紀ドイツからギリシア、ローマ世界を縦横無尽に旅し、人生を満喫する。
目的のためには手段を選ばない生き方は、ある意味、天晴れだ。

ゲーテのライフワークとも言える作品だ。24歳から書き始め、57歳で出版した第一部ではエネルギッシュで前のめりな人生観を、82歳の熟成の筆による第二部では、大きなスケールの物語を楽しめた。

第四幕で、偽皇帝との戦に勝利したローマ皇帝が、臣下であるはずの大司教に、領地と富を根こそぎ奪われるくだりが面白い。"破門"の脅迫を受けると、世俗権力も弱いってことか。

人間の渇望について、ファウストはメフィストーフェレスに説く。
「支配したいし、所有もしたいのだ。事業がすべてだ。名声など空だ」(10187行)
その意志が、第五幕で表出される。権力を手にした老年ファウスト。絶大な権力を手にするも、その境地は孤独だ。領地の一隅の引き渡しを頑なに拒絶する老夫婦が、自らの野望への障害と映る。悪魔と契約した魂は、いつしか黒く染まるのか。
「まったく恐ろしい、悲しいことだが、人間は、正義であることにも疲れてしまうのだ」(11271行)

「どんな人でも、たえず努力して励めば、その人を、わたしたちは救うことができる」(天使)(11936行)
グレートヒェン。かつてファウストが妊娠させ、捨て去った少女。村中から蔑みを受ける彼女は、幼子を泉に投げ、業火の中で息絶えた。その魂が数十年後に、他界したファウストを天上へと導く……。

それにしても、ゲーテの文学的力量! 読書後に喜びすら感じるゾ!

FAUST
ファウスト
著者:ヨハン・W・V・ゲーテ、集英社・1991年5月発行
集英社ギャラリー[世界の文学10] ドイツⅠ所収
2009年7月21日読了

1919年にミュンヘンで行われた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者による講演録だ。

20世紀初頭、徐々にアメリカナイズされたドイツの大学。その研究室を資本主義的にとらえている点が面白い。助手は資本主義に特有の「労働者の生産手段からの分離」を例に、助手が労働者=プロレタリアート、研修所長が資本家に例えられる。その報酬も未熟練労働者に近く、週12時間以上の講義を受け持ち、初級学生から中級までの学生を相手にせねばならない。従来の「講義は週3時間のみ。あとは自分の研究に没頭」できる"ドイツ的私講師(研究助手)"との対比を明快にする。(ただし後者は無給で、受講者からの講義料で生計を立てている。当然、大貧乏。)

さて、この講演には、ただ仕事をこなすのではなく"価値ある仕事"を成し遂げるための心構えがふんだんに盛り込まれている。
・いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値である。
・有意義な結果を出すためには、思いつきを必要とする。その思いつき=霊感こそ、人が精出して仕事をしているときに限って現れるものであり、マニア的な限りないの作業と情熱の合体を必要となる。
・仕事に専念する人のみが、価値を生み出すことができる。自己を滅しておのれの課題に執心すること、専門分野に絞り、脇目もふらずに没頭した人物だけが、後世に残る業績を上げることができる。

過去の時代の学問と、今日のそれとの対比も面白い。手探り状態の盲目な大衆に与える光を探求するのが古代ギリシャ、プラトン時代の学問なら、社会生活の中に真実を見いだすのが20世紀の学問とされる。また、近世(16世紀)には、哲学に代わって神への道を見いだすのが自然科学の使命であったのに対し、現代科学で神の道を探求する者などいない。
ただ、学問(と自然科学)は完成するものではなく、後世の新発見により、より進歩を遂げるものである。一生かけて成し遂げた実績も、次の瞬間には新しい業績に取って代わられる。その宿命に覚悟を持ち、学問に邁進せよ、と著者は説く。

・指導者の体験を求めるのでなく、やり方と選び方を習得することこそ、学問の王道だ。
・神学は学問に非ず。合理主義の外部に奇跡や啓示といったものに頼る宗教者=「知性の犠牲者」と学問は相容れない。(とすると、創価学会って、何だ?)
・弱さとは、時代の宿命をまともに見ることができないことだ。

いたずらに待ちこがれているのでなく(=自分探しに運命を任せるのではなく)、職業に就き、その日々求められる仕事をこなしていこう、と著者は締めくくる。
小冊子として気軽に読み始めたが、なかなかどうして。世に残る書物の力、侮り難し。

Wissenschaft Als Beruf
職業としての学問
著者:マックス・ウェーバー、尾高邦雄(訳)、岩波書店・1993年5月発行
2009年6月30日読了

大英帝国のくびきから逃れ、インドと分かれて独立を果たしたパキスタン・イスラム共和国。1947年8月の独立式典で、建国の父ジンナーは、進歩的で穏健な民主主義国家を目指すことを宣言した。
「いかなる宗教的信条を標榜でき、自由であり」、国家とは無関係に宗教施設へ出向くことができる、と。現実はどうか?
2008年、民主主義国家インドとは対照的に、この国は右派聖職者と軍部の支配するイスラム軍事国家となっている。

マドラサ。その、パキスタンの修学人口の10%が通うとされるイスラムの宗教学校では、いったい何が教えられているのか?
驚いたことに、1977年の軍事政権誕生以来、多くのマドラサでは数学や科学といった世俗的科目が廃止されたそうだ。さらに我々が予想する信仰の柱、すなわち祈り、慈善、巡礼といった教育も廃れ、いまでは「非イスラーム的不純物の排除」、「ジハードの義務」についての教育が柱に据えられているという。(191~193頁)
2002年に当時のムシャラフ政権が明らかにした「経済学、コンピュータ、英語、数学等の近代的教育の導入」は掛け声だけに終わった。政府のも積極的に導入する動きはない。

これでは、成人後に依って立つ手段は宗教だけとなる。そして組織が戦士を必要とするとき、暴力機構の一員となる。そしてジハードに赴き、殉教者となる。
それでも、教育・宿舎・食事が無料であるため、全国1万のマドラサで100万人もの貧しい若者が勉学に励んでいるという。
2007年にイスラマバードで起こったラール・マスジッド=赤いモスクでの立て籠もり事件は記憶に新しい。あの武力による強制排除で、何人の学生が命を落としたか。
教育の歪み、では片付けられない。伝統的宗教と社会構造の問題ではあるが、あんまりだ。

独立以来、対立を宿命付けられてきたインドが、事実上、南アジアを支配する。その現実への対抗上、歴代の文民・軍事政権は西アジアに軸足を置き、隣国アフガニスタンに親パキスタン政権を確立することを絶対使命としてきた。
1989年にアフガン・米ソ代理戦争が集結した。力の空白に据えようとしたパシュトゥン人の軍閥リーダに見切りを付け、パキスタンが後押ししたのが、タリバンであった。1997年のクーデターで権力を掌握したムシャラフ将軍は、イスラーム化された軍部の全面協力を持ってタリバンを支援した。

2001年9月、「従わねばパキスタンを石器時代に戻す」とのアメリカの”恫喝”により、パキスタンは文字通り「一夜にして」タリバンを捨て去った。後に、ムシャラフ大統領が独りで決断したことが明らかにされている。しかし、カシミール紛争と密接に関連したテロ組織を切り捨てることは難しく、下っ端テロリストの逮捕を数百人単位で逮捕する一方、タリバンとアルカイダの幹部を自国内に匿う「二枚舌外交」を、欧米の非難を受けながらも続けてきた。
そして2007年の、赤いモスク事件だ。総選挙に敗れ、国民の不信が増大する中、ムシャラフ大統領は影ながら養護してきた過激派の切り捨てを決意する。
本当の意味での転機。
かわいさ余って憎さ百倍。以降、今日に至るまで、タリバンはパキスタンをも攻撃の対象とした。ラホール、カラチ、ファイサラーバード。そして首都イスラマバードで、今日も自爆テロの犠牲者は後を絶たない。

巻末。訳者による解説に記された、元駐パキスタン大使である小林俊二大使のコメントが興味深い。大使曰く(2008年より政権の座にある)PPP=パキスタン人民党は、封建的地主の利益を代表する政党であり、零細・土地無し農民をはじめとする庶民の代表政党が存在しないことこそ、パキスタン政治の最大の問題である。
なるほど。軍部によるクーデターが支持され続ける理由が、ここにある、か。
暗殺されたブット氏の夫である現大統領、ザルダーリー氏も汚職の噂が絶えない。欧米諸国から絶大な信頼を誇る現在の陸軍参謀総長、キヤニ将軍の動向が注目されるな。

2009年6月現在、アフガニスタンに隣接する連邦直轄部族地域と北西辺境州を「タリバンの巣窟」と見なし、米軍とパキスタン軍による大規模な対テロ作戦が進められている。市民を含む死傷者、避難民の数は統計すら出されておらず、長い間、治外法権であったパシュトゥン民族の牙城も、瓦解しようとしている。
で、追い落とされたタリバンは、どこへ向かうのか? アフリカのスーダン、ソマリア、騒乱状態にあるケニアあたりだろうか。一部は東南アジアへ流れ、「アメリカの同盟国」日本へのテロ活動も視野に入れることだろう。
目が離せないな。

The True Face of Jehadis
ジハード戦士 真実の顔
パキスタン発 = 国際テロネットワークの内側
著者:アミール・ミール、津守滋、津守京子(訳)、作品社・2008年7月発行
2009年6月28日読了

1989年。ベルリンの壁が崩れた、この記憶に残る年に発生した天安門事件は衝撃的だった。
北京の天安門広場に独裁共産党の機甲部隊が突入し、幾多の学生、市民を殺害した事件は、当の中国では「無かったこと」として片づけられている。大陸の赤いGoogleでは検索の対象外であり、資本主義が中国共産党に屈服した現実を顕現している。

さて、話題の中国人の芥川賞受賞作を読んだ。

前半の舞台は秦漢大学。勉学に励んできた田舎出身の二人が大学生が、テレサ・テンの甘い歌声に胸をときめかし、学生運動のリーダーに連なる「小柄なおかっぱ頭の女学生」に密かな恋心を仄めかす。青春のみずみずしさが見事に表現されている。
北京に呼応して活発化する民主活動。一方で迷惑、「商売の邪魔」との本音も存在し、現実は厳しい。そしてある事件が厳しい人生を二人に突きつける。

そして、亡命中国人たちが煩悶する90年代の日本が後半の舞台だ。日本語の話せない彼らに生活苦が遅う。香港返還を声高に叫ぶ民主活動家は「祝香港返還」を恥ずかしげも無く表明する商売人に変貌した。かつての民主活動は日に日に勢力が衰え、いかにアルバイト賃を上げてもらうか、妻への不満をぶつける等の愚痴を言い合う場に変貌し……。

すべてに絶望し、父親に電話するエピソードは、思わず涙ぐんだ。

随所に散りばめられた伏線が、ラストシーンへと繋がる構成は見事だ。

何度も何度も涙を飲み込み、無念さを乗り越え、現実に立ち向かって生きる姿。「狼の孤高」を限界まで耐え抜き、時を経て、家族愛に満ちた「自らの居場所」を発見するに至る。

政治問題を扱った文学は数多いが、家族愛に満ちた本作の読後感はひとしおだ。

時が滲む朝
著者:楊逸、文藝春秋・2008年7月発行
2009年6月27日読了

過酷な代償を支払い、自ら勝ち得た独立国家=植民地時代の終焉。それは原住民を市民に、かつての現地語=自国語を自由に行使し、労働の正当な成果と独自の文化を実らせ、旧宗主国と並び、国際社会の主役の一員となるはずであった。
現実は厳しい。貧困と腐敗と暴力が蔓延する国土には、「国の富」を収奪する支配層が君臨する。政治・行政システムは彼ら=暴君のためのものとして確立され、唯一、クーデターのみが政権交代の手段となった。

本書は、著者の出身地チュニジアと、アルジェリアとモロッコを含むマグレブ・アフリカを中心に、1960年代に相次いで独立を遂げたアジア・アフリカの旧植民地の問題点を暴き出す。

腐敗。国を牛耳る為政者と背後で操る経済界。彼らだけでなく、警察官から入国管理官、果ては一般市民に至るまでの「共犯的犠牲者」の腐敗。企業を設立するより、架空取引や国際援助を利用したリベートを取る方が利益を上げられる。粉飾決算や賄賂が計画的に行われ、「儲け」先進国の銀行口座に送金される。先進国と第三世界の腐敗との密接な関係がここにある。
腐敗が大がかりになるほど貧しさは極端になる。アフリカで最も豊かな資源を誇るナイジェリアは腐敗が甚だしく、国民の貧しさでは世界で一二を争う。

投資される資本がなければ産業は発展しない。40%もの失業率。流出する有能な人材。溢れる若者の力は騒乱に向かう。デモと鎮圧。繰り返される光景。
産業が育成しないなら、G8=先進国の援助に頼らざるを得ない。そして国庫収入の三分の一を占めるのが観光であり、ここでも先進国への依存が顕わになる。独立した意味はどこにあったのか?

著者の非難は、沈黙する知識人に収斂される。エドワード・サイードを除けば、国の指導者に対する非難の声を上げることはない。指導者に「遠慮」してか、自国の体面が傷つくことを畏れてか。はたまた、自らの保身のためか。(ならば、サイードのように国外から声を上げれば良い。)

独裁体制の強化に効果的な道具は軍である。文民も軍人のマネをする。スターリン、チトー、ウガンダのアミンも軍服を着用した。
しかし、軍事政権は新たな暴力=クーデターによって容易に倒される。一方、民主体制で権力が安定するのは、国民の委託によって正当化されているからであり、民主主義の優位性がここにある。

パレスチナ問題。アラブ諸国の為政者が、国民による自分たちへの非難の矛先を、イスラエルへ向けるための絶好の手段である。彼らの身の上に比べたら、自国の停滞など微々たるもの。そう思わせるのに好都合な、パレスチナの悲劇
だから、いつまでたっても解決するはずがない。

イスラムは宗教だけでなく、個人の生き方の規範から社会生活、共同体の法規まで網羅したシステム=体系である。モノの本ではそう解説されるが、著者は異論を唱える。
キリスト教も従来、今日のイスラム教と同じく政治・生活・文化のすべてであった。2000年もの歳月をかけて現在の姿=一部の熱狂的な信徒による信仰の対象となった。生まれて800年の若いイスラム教も、やがて政教分離が実現し、現在のキリスト教のようになるであろう、と著者は説く。
イスラムは特別な宗教ではない、と。

今日まで漠然と思っていた"常識"は必然ではない、と本書が新たな視点を提供してくれた。

最後に。著者は声を大にして説く。(「移民」もう一つの世界へ)
マネーロンダリングで利益を得るのはギャングだけか? 銀行であり、先進国である。民主主義のリーダー、米国。労働者の祖国、ロシア。人権の伝道師、フランス。これら揃って武器を世界に供給する三大国であり、この武器が死をまき散らし、途上国の暴政に力を貸す。国際会議の場での美辞麗句など偽善であり、武器を購入して自国民を飢餓に追いやる旧植民地の政権にモラルなど無い。

Portrait du Decolonise
arabo-musulman et de quelques autres
脱植民地国家の現在 ムスリム・アラブ圏を中心に
著者:アルベール・メンミ、菊地昌実、白井成雄(訳)、法政大学出版局・2007年5月発行
2009年5月10日読了

1759年だから、フランス革命が欧州を席巻する前の作品。ドイツの城内で純粋無垢に育てられた若者=カンディードが、王女に恋したことで城主から追放され、様々な冒険と艱難辛苦に出会う物語。

当時のルイ15世による統治を含め、権力者=王侯貴族と僧侶に支配される体制をあからさまに批判する。
さらには、プロイセン対フランスによる7年戦争が民衆にまき散らした惨劇、特に女性の弱い立場が繰り返し描かれる。盛者必衰と女性蔑視の同居する似非騎士道精神、といったところか。

ドイツからオランダ、スペイン、ポルトガルを経てアルゼンチン、パラグアイ、ペルー、エルドラド、スリナム、フランス、イタリア、トルコ、と冒険は続く。

表面は聖人気取りな司祭が、裏では「無類の女好き」であったり、宗教裁判官の傍若無人な狼藉ぶり(気に入らない演説をした男を火あぶりの刑に)等、カソリックに与する人間を容赦なく批判する。
南米エルドラドでは
「へぇ! それじゃお坊さんはいないのですか。教えたり、議論したり、支配したり、陰謀をたくらんだり、意見の違う人間を焼き殺したりする……」
「狂人(ATOKに無いぞ!)にでもならぬ限りそんなことはできないよ」
実に面白かった。

当時のフランスの"教養人"が愛読していた書物を片っ端からこきおろす件が興味深い。決して面白くはないが、教養を保つために後世に残すと主張する常識人対し、「役に立たないから読まない」とバッサリ。実に本質をついている。

数カ所で日本のことが言及されているのは意外だった。18世紀中葉でも、江戸日本が世界に組み込まれていたと思うと、感慨深いものがある。

人生は苦難と退屈に満ちあふれている。それでも悲観せず、働き続けるのが人の道。これが作品に通底するテーマだろう。

Candide
カンディード
著者:ヴォルテール、吉村正一郎(訳)、岩波書店・1956年7月発行
2009年5月13日読了

小ブルジョワの家庭で何不自由なく育ち、それが故に祖国、フランスを構成する「大人たちの欺瞞」への行き場の無い怒りを内心たぎらせ、20歳の主人公はひとり、アラブの地へ旅立つ。
ジブラルタルを抜け、地中海を東へ。スエズ運河を渡り、紅海を越えて上陸したのは、イエメン南端のアデンだ。

楽園への期待は不安に、現実は失望をより強くさせる。
漂流者さながら日々流され、無気力なイギリス人とフランス人たち。旅に価値を見いだしながらも、惰性に生きたなれの果て。自らもあのようになりはしないか?
「自由は、現実的な力であり、自分自身であろうとする現実的な意志である。何かを打ち立て、……喜びを生む人間のあらゆる可能性を満足させてくれる力なのだ」(45頁)

気分を変えるために渡ったジブチで見たものは、中世欧州のように、イスラム君主にひれ伏す現地住民たち。忍耐と眠りを何百年と繰り返す、退屈な土地。
「この無力感の上に、宿命というものに対する信仰が打ち立てられるわけだ」(111頁)
宿命を乗り越え、自らの力で運命を切り開くヨーロッパ人の長所が見えてくる。

やがて彼は理解する。この地上に理想郷など無く、濁世の中で強く生き抜くしかないことを。

「ようやく平穏で遠く離れた場所に来ることができたと思っていたときに、この恐怖がアラビアにいる僕にまで達したのだ。逃げても無駄だ。……戦えば、恐怖は消える。
……僕たちの行動のどれひとつにも怒りがこめられていますように」(128~130頁)
資本主義社会の支配者たちと戦い抜く決意がここにある。

著者ポール・ニザンの生き方が活写されたような青春小説。そのニザンは若き日に共産党入りし、ソヴィエトとも親交深く生きるも、独ソ不可侵条約に衝撃を受ける。脱党した後、ナチス・ドイツによる電撃戦への抵抗の中、ダンケルクで銃弾に倒されたという。
壮絶な最期の瞬間、自ら信仰する価値の変転に苦悩した日々を思いだしたのかもしれない。

ADEN ARABIE
アデン、アラビア
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ-10所収
著者:ポール・ニザン、小野正嗣(訳)、河出書房新社・2008年11月発行
2009年4月26日読了

自由主義が浸透し、次々と起こる科学技術革新と思想の新潮流。価値観が移ろう20世紀初頭、真摯に世の中を見つめ、悩み抜く生涯を全うした100年前の二人の偉人がいた。夏目漱石とマックス・ウェーバーだ。その人物と作品を引用しつつ、現在を生きるわれわれが、まじめに考え、悩み抜くことの大切さを説く。

文明が進むほどに深刻さを増す、人の孤独感。漱石「こころ」に登場する先生は、世の中から距離を取り、自分の内に築いた城の中で一生を過ごす。死の直前に出会った「私」への手紙には、その寂寞がにじみ出ていた。現代社会の中で孤独を感じる現代人にも共通した感情。
中途半端ではなにも解決しない。真面目に悩み、真面目に他者と向かい合うことで、ひとつの突破口が開ける、か。

共同体の生き方から解放されると、羅針盤を持たない個人は、かえって自由から逃げたがる。大きなモノによりかかる。全体主義、似非宗教、胡散臭いスピリチュアルな世界。
何を拠り所にするのか? 心のストレスが増した時代だ。

世の中の流れには乗っても流されず、ぎりぎり持ちこたえ、時代を見抜いてやろうとする気概。すなわち「時代を引き受ける覚悟」を持て、と言うことか。

悩む力
著者:姜尚中、集英社・2008年5月発行
2009年4月3日読了

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